「対称性の自発的破れ」と「女性水平登山家」

違って見えても「同じもの」

“KENKYOFUKAI”シリーズ(その1)

以下は「牽強付会」〔(けんきょうふかい)自説への無理なこじつけ〕も甚だしいと言われかねない話です。そこで最後までお付き合い願えるものかどうか心もとないのですが、そう願って書き始めることといたします。

そのまずはじめに、これがどう“牽強付会的”なのかを言っておきますと、ここに挙げます二つの話は、結局、同じことではないかという、私としては一種の発見談なのです。ただ、その二つの話の出どころが、あまりに隔たり過ぎているがゆえに、両者を結び付けることに、一抹の危惧があるからです。

そういう次第で、“冒険”をかえりみず、むしろ、その「こじつけ」を武器とすらして、今回より「“KENKYOFUKAI”シリーズ」を開始し、先に連載した「パラダイム変化」シリーズの第二弾ともしたいと思います。

そこでまずその初回として、そのイントロともいうべき一つの発想――違って見えても「同じもの」――を提示いたします。

 

さてそこで、その二つの話ですが、まずその一つ目は、2008年度のノーベル物理学賞を他の二人の日本人とともに受賞した南部陽一郎博士が提唱した「対称性の自発的破れ」という考え方です。ちなみに、このアイデアは余りにも独創的なため、それが認められるまでにほぼ半世紀を要したもので、この考えを土台に予言されていた「神の粒子」:ヒッグス粒子が2012年に発見されました。

そして他の一つとは、先に私が「女性水平登山家」と呼んで紹介した、世界を一人旅する日本女性の独自性と自発性に富んだ生き方です。

そこで、この二者。片や現代物理学の最先端をゆく世界的なアイデア。片や巷のいわば無名の人の生き方。どうみても関係ありそうもないどころか、並べることすら引けてしまう話が、どうして「同じこと」なぞと言えるのでしょうか。

 

「同じ」とは?

まずはじめに、そうした二者を同じと扱う、その基準について述べる必要があるでしょう。

こうした二つの事例は、確かに大違いなのですが、ある視角を想定してみると、じつに興味深いポイントが導かれてきます。

そこでその視角ですが、上記の二つのケースを、研究の専門領域として見れば、たしかに大違いで、しかも一つは研究とはとても言えないふつうの人生体験上の事例です。しかしそれらを、どんな対象であろうと、あるいはそれが誰によってなされていようと、人が創意と工夫を凝らして各々の対象に立ち向かっているという、人の表す高い能動性として捉える視角が設定できます。

ちなみに、たとえノーベル賞といえども、分野別ではありながら、その賞はその業績を成し遂げた人物に対して授与されます。そうして、その専門分野での先進性は問われながらも、やはり、その業績を成した人物の偉才ぶりに賞賛が集まります。

したがって、どれほど高度に専門的な対象であろうと、そうした対象とその人物が織りなす取り合わせや《関係》という面が重要なだけでなく、それらの結合が新たな価値や世界をさえ創出するという《合体効果》に注目できます。

言い換えれば、人間のみでも、対象だけでもなしえなかった、そうした両者がなした“ケミストリー”に焦点をあてた、特異な「人・対象関係」への注目です。

それは、学問分野といった場合では比較的イメージしやすいことですが、ふつうの私たちの生活といった面においては、「関係」といってもそれは誰にも何処にもあって、何も特別なことではあるまいと、見過ごされやすいことです。

どうやら、人が表す高い能動性の背後には、こうした人と対象の織りなす関係がもたらす創造的結合があり、それだからこその「合体効果」です。そして私が「同じもの」とする基準は、そうした結合関係の有無と、その効果のもたらす新規さです。

 

実体論と関係論

ここで、話としてはやや迂回となりますが、人類史おける科学なり学問なりの発展過程においての新潮流について見ておきたいと思います。

その新たな潮流とは、ひとことで言うと、「実体論から関係論」への変化です。

そこでその変化とはどういうことかですが、まずこの「実体論」ですが、それは、物の本質は何かを探るにあたって、それを細かく分けてその真髄に迫るという方法です。古代ギリシャ時代よりの科学の考え方の根本にあるもので、分析して理解し、それを総合するというやり方で、還元主義とも呼ばれます。

一方、「関係論」ですが、これは歴史的には最近(19世紀末)になって論じられてきているものですが、「実体論」のようにその対象自体が何であるのかを問うのではなく、その対象と他のものがどういう関係にあるのか、それを追究してゆく方法です。たとえば、動物学では、犬という対象を解剖するのではなく、犬と一緒に生活してみる。あるいは、人類学では、形質人類学から文化人類学へとの関心の移動です。そうした対象と他者との関係を問う視点ですが、私はことに、対象と人間との関わりを問う点に重きを置きたいと思っています。

そうした変化なのですが、現代物理学の素粒子理論においては、物体の素の素である素粒子レベルでは、その素粒子自体がまわりのものと一体となった、もはや一種の「現象」であるとの見方(「ひも理論」と呼ばれる)が起こってきています。そうした、言わば輪郭のはっきりしない、変幻自在な存在として素粒子自体を見る考えに進化してきています。

もともと科学的探究にあっては、「還元論」という「実体論」一辺倒の世界でした。しかし、それが長い歴史をへて最近では、ことに素粒子研究の進展の中で、「関係論」の見方が注目されてきているという変化です。

これは私の解釈ですが、もはや「実体論」のみでは世界の本質はつかみ切れず、「関係論」を含めた探究がその最先端の方法となってきているということです。地球温暖化をはじめとする環境問題はまさにそれを必要とする典型です。そこで私としては、上に指摘した「合体効果」が示しているように、言ってみれば、「なんだ、素粒子だって、けっこう人間風じゃないか」、といった印象を持つに至っています。そう、この世界の素の素の領域でです。

以上のようにして、科学的探究の方法において、「関係論」が重視されているとの新潮流を確認すると、私が取り上げる、対象と人物が織りなす《関係》への着眼も、「おお、けっこう時流に乗っているじゃないか」と、俄然、意欲を湧き上がらせる動力源にもなってくれるというものです。

 

「対称性の自発的破れ」って何のこと?

さて、ここで本筋に戻って、冒頭にあげた二者のひとつ、「対称性の自発的破れ」に移るのですが、このいかにも現実離れした専門臭著しい用語について、いったいそれは、何を言っているのでしょう。

私も当初、それはまったく理解の範囲をこえていました。そして、それはきっと専門家たちだけに通用する“まじない”語で、自分には関係のないものだろうとほっぽっていました。それが、自分なりにたどってきた体験がヒントとなり、あるいは、上記の「実体論から関係論への変化」との視点もえて、改めてそれを考えた時、この「まじない語」と自分の体験的産物の間には、「なんだか似通っているところがありそうだ」とのひらめきを得たのでした。

そこでまずその「対称性」とは何かです。これは、物理学の分野には、先人たちの努力で樹立されてきたもろもろの法則があって、それらの持つ、きれいに整った形式あるいは数式の世界を「対称性」という用語で表していると言えます(より厳密には例えば「+-」といった対称性)。要は、一つの数式で表せるような法則性のことです。

しかしながら、物理の世界といえども、実際は複雑性に満ちており、特定の条件を前提すればそうした数式も成り立つものの、実際はそんなに単純な形には到底おさまり切れないものであるわけです。むろん、科学者たち――並々ならぬロマンチストでもあって――は、そうした状態には決して満足せず、いっそう複雑なものの解明へと精魂を傾けてきているのです。

そこでのなのですが、そうした複雑さが提起する難題に関して、上記の南部陽一郎は、2008年のノーベル賞受賞講演において、こう述べています。

物理学の基本法則は多くの対称性をもっているのに、現実の世界はなぜこれほど複雑なのか。対称性の自発的破れの原理は、これを理解する鍵となっています。基本法則は単純ですが、世界は退屈ではない。なんと理想的な組み合わせではありませんか。(大橋博司著『素粒子論のランドスケープ2』、数学書房、2018年、p.203。尚、本稿は同書より多くを得ました。)

こうして南部は、自分のアイデアである「対称性の自発的破れ」を「鍵」と称して、なにやら特別な含みを託している気配があります。そこに私は、彼が、「理想的な組み合わせ」と称して、この「自発的破れ」を、素粒子論上のそれと、人が対象に立ち向かう際のそれという二重の結合として受け止めている、いわば「かけ言葉」としての、「自発的破れ」ではないか、との含みを感じます。視角を変えれば、ここには、南部陽一郎自身の人生上の意味と素粒子論上の意味を合体させて提起している何かがあります。これはまさしく、上述の「関係論」的方法の実践であり、しかもそれを、素粒子とその周辺ばかりでなく、自分自身と対象との間の関係性においても行っている、ダブルの「関係性」の実践ではないかと受け止められます。そこに、この「自発的」という擬人的用語が使われている、人の能動的関係への含蓄が込められていると考えます。

言うなれば、人間も素粒子も共に、「自発的」に、対称性つまり既存法則やそういう壁を破るという「高い能動性」を発現しているということではないのか。

このダブルの関係性がゆえ、「対称性の自発的破れの原理」は、発表当時にはあまりにも学界常識とかけ離れた仮説であって、それが認められるまで、半世紀も要したわけです。

 

「女性水平登山家」

さて次に、私が「同じもの」とするその相手方である「女性水平登山家」に話を移しましょう。

その日本女性については、先にもその話題を取り上げたのですが、その人となり――むろん私の理解する限りの――は以下の通りです。

彼女は一人っ子だったのですが、二歳の時に母親が癌で急死し、バスの運転手をする父と祖父母の手で育てられました。片親という寂しさはもちろんのこと、母無しがゆえの他の子との違いからいじめにもさらされ、自殺も考えた暗い子供時代を送ります。だからこそ、自分には遠い幸せとは何かを求めて、当初は好きな絵を描くことに熱中し、やがて自分の髪を染める――つまり自分の髪に色を塗る――のをクラスで最初に始めることにもなります。そしてそれに留まらず、身体に紋様を描くタトゥーへの興味から、自分でデザインした絵柄を体に描くものの、その特殊技術の自分での習得までには行きませんでした。だがそれに代わって、同じく好きな爪を飾るネイリングを学び、これには半ば成功し、自分の店をもつことをめざします。しかし、家族の健康問題がそれをはばみます。やむなくその現実的必要から、“キャバクラ嬢”の仕事を選び、やがて自分の目標とした店一番の地位を達成して一定の蓄えをえることもできます。しかし、そうしたお金とて求める幸せには結びつかず、かくして、そのお金の有効活用の意味でも、英語もさっぱりなのに国外へと目を広げ、単身でカメラ片手に海外へと旅立ち、5年間で80カ国を見聞します。しかも、それら訪れた国々は、人気を集める観光地というより、むしろ貧しい国々や地域で、そこに暮らす人々への関心が中心でした。

こうした旅の途上、今年9月、パキスタンのラホール国立博物館で、私たちに遭遇したのでした。そして、彼女にとっては未経験のトレッキングなるものを体験するため、数日間、共にフンザ渓谷を旅することとなったのでした。

この程度のあらましで、彼女の人となりをもれなく紹介するのは無理ですが、ことに私が彼女を「水平登山家」と呼ぶのは、私を含め、ある種の人たちが山に無性に興味と熱意を掻き立てられるように、彼女は、自分にとっての幸せとは何かを求め、人知れずに暮らす世界のふつうの人たちに、強い関心を抱く人物であるらしいからです。

 

違って見えるが同じこと

さて、こうして二者の要所を示し終えたのですが、私は、このような彼女を、ノーベル賞受賞者と同列に並べ、両者の成した、あるいは成しつつあることを、結局、同じことではないかと扱おうとしています。

というのは、私は、この扱いがいかにも突飛なこととは百も承知ながら、「キャバクラ嬢」になったり、世界の巷の人々を知るため一人旅したりする決心と、世界の物理学者から認められることとなった先駆的な物理学原理を見出す精神との双方に、人の働きとして、どれほどの違いがあるのかということです。それは、たとえ、学歴の甚だしい違いとか、たずさわる世界に天地の違いとかを伴っていようとも、共に、自分に許された立場と全能力を活用して自らの可能性を探る「高い能動性」を、他の誰にも代われない独自さをもって実行するという意味で、何らの貴賤も違いもないと思うがゆえにです。

そこでです。こうして私はこの両者に同じものを見出すことで、個人の前に立ちはだかる「対称性」といういかにも万全かに見える壁を眼前にする際、そうした能動性によって見出される何らかの糸口、つまり「自発的破れ」をこうした両者が実践がしているという同等性を見ます。そして同時に、南部陽一郎がこの「自発性」に二重の含蓄を持たせたように、その同等性は、片や素粒子の振舞いと片や人間の発想との両領域上でもの同等性におよんでいると見ます。つまり、二重の同等性です。

そしてこうした素粒子と人間の成す、すなわち、ミクロとマクロの両世界にわたる同等性こそ、「実体論」では決して発見されえない、「関係論」のもたらす目下の顕著なブレークスルー、すなわち、「パラダイム変化」の提示ではないか、と考えるものです。

しかも要は、こうした「関係性」の概念を、物体の素の素である素粒子の本性が支えているということです。そう、「素粒子だって、けっこう人間風なんだ」、そして「その逆も真なり」ということです。

それに加えて、こうした二者の一方が女性であることも偶然ではない気がします。つまり、実態上、「実体論」が男的、「関係論」が女的な視点を代表しているかの、これまた「関係論」的関係を指摘できそうです。

 

私は、こうして両者に同じことを見、現代物理学の最先端の成果と一人の人間の独自の生き方の間をつなぐ「関係性」に目を留めます。というのも、今や世界は、目を覆いたくなるほどに混迷し、自然の猛威も容赦はなく、あたかも終末の淵に迫りつつあるかの暗たんさを呈し始めている時、「対称性を破る自発性」がそのように実践され発現されていることに、明るみを見ます。

片や、そのアイデアが理解されるまで半世紀を要したそうした独創性において、他方、巷の無名な人の生き方の独自性において、両者のそうした高い能動性が現に見られる。このように、専門分野でも巷でも、あるいは、ミクロ次元でもマクロ次元でも、この世の両端において同等に、壁を突破する「鍵」が働き、「結合」が開始されている。それを希望――あるいは「パラダイム変化」――とせずに何であると言うのでしょう。

 

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