「共亡」の世

この「両生歩き」は、今号で300号を迎えました。

本来なら、記念の特別企画でも掲載したいところではあります。しかし、そうにもならないのっぴきならぬ事がおこり、その対応に追われています。

というのは、東京杉並高円寺に、私が日本にいる当時に住居にしていた、もう築45年をこえる古いマンションがあるのですが、それが火災に会い、その後始末や今後への復旧のために、急きょ日本に帰国する事態となっているためです。

事情を聞けば、その火事とは、その部屋の現在の住人が、幼なじみのよしみから友人を泊めてやっていたところ、その彼が部屋に火をつけてしまったとの一見奇怪な“事件”です。そしてその彼は逃げ出して無事だったのですが、部屋は半焼してしまいました。

その部屋の住人もその幼なじみも、どちらも私よりは少々若い60歳代半ばで、私も含め、みな老境に入りつつある世代です。

なぜ、その友人がそんな行為におよんだのか、その詳細は不明ですが、警察によれば、「前途をはかなんだ行為」とのことです。

その放火におよんだ人は近所のアパートに住んでいたのですが、その建て替えのために退去を求められ、代わりの部屋も見つからず、手持ちの金も尽きて行き場に困り、幼なじみをたよってこの部屋に仮寓させてもらっていたという経緯のようです。

つまりこの事件を総じて言えば、いわゆる「下層老人」問題に、私も巻き込まれたケースということとなります。

 

こうした社会から落ちこぼれた――あるいは、そういう社会に置かれた――老人の問題については、私は報道などで見聞きはしていた問題でした。そして、そういう話を、自分もまかり間違えればその一員なりうると、他人事にはできない切迫感をもって受け止めてきていました。

そしてかくして、それは確かに自らの問題とはなったのですが、まさか、こうした形でその当事者になろうとは思いもよりませんでした。

不運な災難と片付けてしまえばそれまでですが、しかし、それは「運」の問題ではなく、そういう社会に日本が変貌してきている、そうとらえるべき出来事であるように受け止めています。

私たちが一度でも生存能力を失ってしまえば、もはや二度と救われることのない社会となってきているばかりでなく、幼なじみに人相応なよしみを与えた人にすら、それがゆえに、こんな形で社会の毒気の返礼にさらされる、そういう、「絆」や「共栄」どころか「共亡」の社会にすらいたっている、その実証の一つを、こうして実体験しているかのごとくです。

 

 

 

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