私の「気候変動」への取り組み

「ヘルスファースト」が不可欠

「私の健康観」の数バージョンを通して述べてきているように、自分の健康を、地球環境と連続している《自分環境》の産物と考えるならば、私にとっての気候変動問題との取り組みの核心は、自分の健康を“持続可能”に維持増進する――少なくともそれを起点にする――以外に、親身になりうる関わりなどありえない、と考えるものです。

健康という、誰にとってものもっとも切実な財産の保全が第一に、そして何よりも本気に取り組まれることなくして、CO2排出ゼロ政策が前面に出されてくるメリットなぞ、いったい何なのでしょう。それとも、私たちの健康と地球温暖化の問題は、まったく別個の問題とでも言いたいのでしょうか。それこそ、地球も私たちも、共に発熱しているというのに。

そういう意味で、目下の私のスローガンとして、「ヘルスファースト」を掲げたいと思っています。

たとえ将来、世界中の車がすべてEVに置き換わったとし、石化燃料による発電所が地球上のどこからも姿を消したとしても、人びとがもっとも身に迫るリスクへの対策として、民間健康保険だの、ひいてはガン保険だのに加入せざるをえないような状況が続いているとすれば、それは結局、私たちのもっとも大切なものが、大挙してかすめ取られている――誰かの体の良い金儲けの餌食とされている――ということが、相変わらずに続いていることにほかなりません。つまり、本当に大事なことが、ないがしろにされ続けているということです。

 

もちろん、「ヘルスファースト」と言っても、人間、生きものである限り、いつかは死ぬことにはなります。

しかし、そういう死と、今日の社会における死とは、似て非なるものです。

自然界を見渡してみて、たとえば、そのもっとも過酷な現実とよく引き合いにだされる「弱肉強食」の動物の世界においても、自分の命を失うことは、誰か他の命を持続させることと、即、イコールです。

見た目は確かに残酷ですが、弱い動物はたとえ食い殺されても、強い動物の胃袋をへて、その命の維持に直結します。

もし、私の命と引き換えに、誰か、たとえば、難病をかかえてあと数年の寿命というひとりの子供を助けることができるのなら、私はもう、喜んでその役を果たしてもいいとは考えられます。

そういう、即、イコールな、直接なやりとりが、その自然界の「弱肉強食」にはあります。

しかし、人間世界の「弱肉強食」と称される社会では、ほとんど知らず知らずのうちに、巧みに強制されて巻き込まれている人間同士間の競争があり、それが「弱肉強食」と広く一般に解釈されています。その結果は、長い辛苦の生活を送らされたあげくに、誰の命にも役立たない――医者や製薬業界の収入増には役立つのでしょうが――、ただのガン死を遂げるだけです。

これはもう完璧に、動物以下です。

 

そういう次第で、私はこの先、少なくとも十年くらいは、この「ヘルスファースト」で、やってゆこうと思います。

しかし、その先にある、いよいよの「命とり」の問題には、まだ、どう取り組んでゆくべきか、そのスローガンは見出されていません。

確かに、よく言われる「ピンピンころり」も、大外れではないのですが、そこまで、あなた任せでやってゆけるものでもありません。

そこで、この「ヘルスファースト」のうちの早い時期に、自分の命が、即、イコールに、誰かの命の持続に直接役立つ、そんなシナリオくらいは描かなければと思っています。

 

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