文明の「グランドキャニオン」、メキシコ

北米大陸-初-旅行レポート(その3)

ふと気が付いてみると、今度の北米大陸旅行は、先に書いた「反歴史》《反事実」といった姿勢に、知らず知らずに入り込むことなっていました。

というのは、日本人は歴史過程をつい単一構造で見てしまう習性があるようで、それがいったん旅に出ると、そんなものではない気配にさらされるからです。

今回の北米大陸旅行のうち、先のアメリカで発見したものは、グランドキャニオン地帯にある重層するキャニオン構造でした。

それにつづいて、このメキシコ旅行で発見しているものは、アメリカのそれとは対比をなして、歴史上のもろに重層する文明構造です。

私のように、訪問地の事情など不勉強のまま旅を続けていても、そこにしばらく滞在していると、その表層の背後に存在する、歴史や文明の地殻構造が感じられてきます。いわば文明の「グランドキャニオン」たるものが、そこここに歴然と存在しているのです。

 

メキシコについてその構造とは、大きく分けると、「コンキスタドール」すなわち、スペイン人の征服によって略奪資本主義の餌食となった激変を境とする、プレ・スペイン時代とコンキスタドール後の二大時代です。

さらに、後者は、この地を植民地支配したスペイン植民地時代と、その支配から独立してもぎとった入植スペイン人による専制国時代、そして、専制政治を打ち倒したメキシコ革命とその後の時代という三小時代があります。

 

私たちのメキシコ体験は、そうしたメキシコの首都、メキシコ・シティーから始まりました。

そしてそこを足掛かりに、まず訪れた先が、テオティワカン遺跡でした。つまり私たちは、歴史の流れに従って、プレ・スペイン時代からメキシコ体験を始めたわけでした。

 

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テオティワカン遺跡の「月のピラミッド」上から「太陽のピラミッド」を望む。

一見、カンボジアのアンコールワットをも連想させる石の造形がみられるものの、ここではそれが、もっと幾何学性を持って宇宙的に存在しています。そういう意味では、おそらく、エジプトのピラミッドに近いようです

紀元前13世紀までもさかのぼる原初文明を発端に、この紀元前2世紀から6世紀までに栄えた古代都市は、日本文明よりはるかに古く、年代的には、中国文明に匹敵するとさえ言えます。この古代都市は10万から20万人の人口を擁していたと言われていますが、いまだに、その全貌は謎につつまれています。その後、アステカ人がこの文明を引き継ぎましたが、馬すら持っていなかった彼らは、侵入してきたスペイン人による繰り返された虐殺によって滅ぼされます。そして、三世紀間のスペインの植民地支配の後、土着スペイン人によるメキシコ帝国設立をへて、1830年代の革命運動によりメキシコ共和国が成立しました。

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メキシコシティ中心部にある革命記念塔。

私たちがメキシコを訪れた時、当地はちょうどハロインを迎える準備で沸き返っており、かわいいような気味悪いような、骸骨人形(祖先をあらわす象徴らしい)といたるところで出くわしました(メキシコでは、ハロインは日本のお盆のようとみうけられます)。

ことにチワワの町を訪れた時は、そのお祝いの真っ最中で、立ち寄ったPalacio de Gobierno(政府宮殿)では、革命で命を落とした英雄たちを祭る式典が開かれたところでした。

その宮殿の中庭には、スペイン軍によってこの地で処刑され、その首がその後十年間もさらしものとされた英雄ミグエル・ヒダルゴの像が置かれ、その足元には永遠の炎がともされています。また、宮殿回廊には、革命の進展を描いた歴史絵巻が中庭をぐるっと囲んで掲げられています。

宮殿中庭の式典会場には、革命に活躍したかっての闘士を祭った祭壇がいくつも設けられ、今でも人々の尊敬を集め慕われている様子がうかがえます。

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銃殺される寸前のヒダルゴの像。「歴史の祭壇」との文字が読め、処刑日の1811年7月30日が記されている。

骸骨人形のメーキャップをして、祭典に参加した娘さんたち。右奥が飾り付けられた宮殿中庭の会場。

 

つまりメキシコという国は、古代先住民を古層に、その上に帝国や独立を勝ち取った土着スペイン人層、そして、今日のメキシコ合衆国という、三層の歴史構造をもっています。

そしてことにチワワでは、派手な色模様の民族衣装をつけたインディオの人たちが、スペイン系の白人たちにまじってたくさん見られ、さほどの人種間緊張を感じさせない共存があるかに見受けられます。メキシコシティやプエブロで見られたインディオたちの物乞いも、私たちの接した限りでは、チワワでは見られませんでした。

 

こうした被征服と外来民族の定着という歴史構造は日本にはありません。

いや、戦後のアメリカの日本占領をそれに同等の歴史経過と見るなら、メキシコの先例は日本にとっても貴重な教訓となるはずです。

また、メキシコと日本は、太平洋を挟んだ海洋国同士という江戸時代以来(日本近海で遭難したメキシコ船の乗組員を家康が手厚く扱った)の近しい関係があります。また、覇権国アメリカと、かつて戦火を交え、不離な関係を維持し合っている同士としても、日墨関係は、思いのほか近いものがあります。

ともあれ、メキシコという国は、先住民と入植スペイン人の織りなす三重の構造をもった歴史構造的「グランドキャニオン」です。

そうした移植されたものとはいえ、ことにメキシコ文化に深く根付いているカソリック文化は、メキシコ人の精神面において、今日においても、強く定着していると見受けられます。

それはまず、フィリピン(この国もスペインの植民地であった)とも似た印象の、教会の存在の重さです。私はそれを、メキシコシティの庶民バスに乗った際、その粗末な運転台にさえ、マリア像が掲げられているのを見て、感心させられました(よく、日本の車の運転席にぶら下げられているお守りのよう)。

さらに、先住民の町の作り変えではなく、スペインがまったく新たにメキシコに築いた町プエブロは(市街が碁盤目状に仕切られ、通りは南北東西の番号でよばれてまるで座標のよう)、ことに教会建築の上で、驚かされるような洗練と技巧の権化となっています。特に私が目を見張ったのは、プエブロの中心広場に面するカセードラル(写真下)です。

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この教会は、その外見は古いものなら他の場所でも見られるようなものなのですが、その内部の絢爛豪華さは他の追随をゆるしません。ことに、平面的に十字状の建物構造のそのクロス部に、その中核祭壇が、建物内建物ともいうべき複雑さで設置されており、また、その飾り付けには思わず息を飲み、一種のカソリックの神的世界構造の具現と言うべき光輝さと荘厳さで、人々の雑念を圧倒しています。

私はそれをなんとか映像にしようと欲しましたが、残念ながら、その内部での写真撮影は禁じられていて、それはかないませんでした。

さいわい、この大聖堂がユネスコの歴史遺産に登録されており、そのユネスコのサイトに、その写真が掲載されていました。それを拝借したのが、以下の映像です。

 

サンドミンゴ大聖堂内部(ユネスコ提供)

 

ただし、この写真でも、建物上の二重構造をなすその中央祭壇の存在は判りますが、その洗練華麗な頂点の飾り物の詳細や全体のスケール感はつかめません。

ともあれ、この大聖堂は、教会の権威とその崇高さを、視覚的も体感的にも、私のような門外漢でさえ、いやがおうでも感じ取らされる、教会建築芸術の完成度として、世界の群を抜いている高度さと思われます。

あえて言えば、それは「人工的なもの」でありながら、確かに「神の気配」を思わされる、人間の創り出した造形物としては一種の極に達しているかの感があります。

そういう意味で、私は、スペインのカソリックの栄華のレベルを、植民地支配の成果の水準という面でも、そこに見出していたのでした。

 

正直に言って、メキシコ料理は、私の舌と胃袋には、あまりしっくりくるものではありませんでした。

しかし、メキシコの歴史的グランドキャニオン構造が醸し出している、その「人間くささ」には、なんとも近しい感じを抱かされたのでした。

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