エコロジーとしての宇宙

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その58)

今回の「失われた大陸」と題された章のまず冒頭で、私たち人類、あるいはこの地球の歴史そのものに関する、おそらく、もっとも大規模かつ、それこそ「神をも恐れぬ」、大胆不敵な仮説が展開されています。それは、地球上の生物の歴史は、何者かによる実験、すなわち、意図的遺伝子操作による非自然的進化の結果であるというものです。つまりそれはあたかも、聖書にある「創世記」というこの世の創生の物語を、「神」によるものではなく、どこかの高等知性による生命の進化実験のレポートであると言い替えるに等しいものです。

そこでですが、それを「神」と呼ぶか「高等知性」と呼ぶかは、言語上では、単なる名詞の違いの問題にすぎません。しかし、この二つの名詞の間には、それこそ、「天と地」と言ってよいほどの開きがあります。その違いは、前者には、それを私たちの認識の対象にはなりえない無限無謬の存在とする絶対的不連続性が前提とされているのに対し、後者には、アプローチ可能な――その道のりは遠いですが――連続性が前提とされています。

言うなれば、この違いを分けたものが、過去においては、ルネッサンス期、あるいは中世と近代の違いです。そして、人類史におけるこの史的区分を、本章の仮説が提示する大胆不敵性な試みに適用して見れば、それは「近代」と「ポスト近代」――すなわち現代と未来――を区分する、新たな知性的姿勢を示していると思います。

それを別の言い方で表せば、「近代」は私たちの知性を「グローバル」へと広げたのに対し、《ポスト近代》は、「脱地球化」し、その領域を宇宙空間へと拡大している違いがあります。

また、「グローバル化」の時代の到達点を、エコロジーとしての地球の認識であったとすれば、来る「脱地球化」の時代のひとつの到達も、宇宙をエコロジーとして捉える知的姿勢にあるのではないかと予感されます。つまり、それを「非地球的な高等知性」と呼ぼうと、「エコロジーとしての宇宙」と呼ぼうと、両者の認識には、さほど大きな隔たりはないと思われます。

さてもしそうだとすると、地球時代のバチカンと同じ働きが、CIAやNASAといった宇宙時代のバチカンに移り代わって機能しはじめているのも、ある意味で、納得できる話かとも思われるのですが、いかがでしょう。

 

それでは、「エコロジーとしての宇宙」時代への手がかりをさぐる、「失われた大陸」の章へご案内いたします。

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