村上春樹に「移動」する

両生学講座 =第三世紀= 第3回

本講座の第一回で、移動と固定にまつわる様々な二元論をあげ、様々な移動に伴う様々な両眼視野が世界認識の有力な方法となった体験を述べました。続く第二回では、「動か、不動か」という分岐を通じて、「移動」と「自由」という二つの姿勢が、同義とは言わなくとも、類義ではあることを発見しました。そして、共に同じ想念を志していながら、「移動」ではその実現方法上の、「自由」ではその概念上の選択に、それぞれが焦点を当てたものであることを見てきました。

そこで今回では、そうした移動体験主の立場自体を対象とし、その「自明性」そのものに移動を与えてみたらどうか、そうした想定に取組んでみたいと思います。

ただし、こういう試みは、観測主の自意識すなわち自我を、部分的にせよ、否定ないしは変質させることに通じます。つまりそれを完全に実行してしまえば、自我の空白化が生じ、観測者としての存在を失い、観測それ自体が実行できなくなってしまいます。そこで、その崩壊が生じない範囲で、移動部分と固定部分をミックスする必要が生じます。

この試みは、言うなれば自我構造(あるいは認識構造)に変動を加える作業でもあり、そういう意味では、精神病理学上の異変を――少なくとも部分的に――想定する作業と言えるかもしれません。

そこでここでは、その目的を、誰か異なった自我に自らを重ね合わすという方式で実践してみたいと思います。そしてこの方式を、具体的には、特定の著者の作品を読むことで行いたいと思います。

そもそも読書の醍醐味とは、本来、こうした自我上の移動、あるいは、重ね合わせ体験であるはずです。

 

作家が創作に向かう動機には様々なものがあるでしょうが、私が注目したいそれは、生身な人間として限界にさらされる自身が、作品を書くことを通して、その壁に立ち向かおうとしている試みの足跡です。

そのような見方から、私はここのところ、村上春樹の諸作品に接してきています。とは言っても、この多産家の作品を網羅するまでには至っていません。デビュー作の『風の歌を聴け』から最近の『1Q84』まで、飛び石状に、いくつかの作品を読んできている程度です。

そして、それがなぜ村上春樹であったのかと言えば、その出会いのいきさつからの面では、彼が作家であるだけでなく、ランナーでもあったことでした。また、着目の理由から言えば、彼の作品自体への興味というより、その著者のプロファイルとして、私よりやや若いものの、私とは広義の同世代であったからでした。

ただ、同世代と見なすとしても、彼は1949年生れで、私とは3歳の開きがあります。還暦を過ぎた今でこそ、この3歳の開きはほとんど個体差ほどの違いにすぎません。しかし、人格形成途上にある思春期やそれ以前の時期においては、この3年の差は、充分に大きな違いです。

そういう「同じであって、同じでない」、微妙にずれ合う同世代者の世界に私自身を移動させ、そこに両生学の原理的手法である両眼視を適用し、そこから生まれる“精神病理学的”ステレオ視野を見出してみたいと考えるわけです。

つまり、上に述べた「移動部分と固定部分をミックスする必要」において、そのふさわしい対象として村上春樹を選んだわけです。そしてそのミックスへの期待値は、固定度7割、移動度3割程度といったバランスでしょうか。

 

さて、まず結論から先に述べますと、本稿記述までの限りでは、村上春樹体験とは、《浮遊と実直》の世界との出会いです。

そして、《浮遊》の世界は彼の小説に、《実直》の世界は彼のエッセイに、それぞれ、あえて使い分けられているかのように表現されています。

そしてさらに、これまでのところの村上春樹体験から言えば、彼の《浮遊》は私の「動」に、彼の《実直》は私の「不動」に、それぞれ対応しているかと見ます。

また、私には、彼がどうして、それほどまでの人気作家であれるのかとの設問があります。

そこでですが、彼の作品をのぞいてみた多くの読者の持つ第一印象は、その特異な登場人物や際限なく変転する場面に引き回されて感じる、現実味からは隔たった異次元感覚でしょう。しかし、それを読み込んでいくうちに見出す部分的な共感――ことにいずれの作中でもの豊富な音楽への言及は、その道の人には着実な手掛かりとなる――を頼りに、ストーリーのつかみどころのなさのその先で到達する結末があります。すなわち、実に素朴な、男女の情愛の世界への帰着、あるいは憧憬です。その意味で、不安や反抗や偏奇を掻き立てられた割には、その落しどころは、意外に普通な世界です。私は、そこに、彼の作品の人気の秘密があると見ます。つまり、そういう混迷あるいは動から、普通あるいは静へと導かれる、そうした安堵への帰着があるからだと見れるからです。

(次回へ続く)

 

 

 

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