異次元への「移動」の手掛かり

越界-両生学・あらまし編(その5)

この「越界-両生学」において、私が《宗教》という言葉を用いて扱いたい事柄は、「宗教」との言葉で連想されるような抹香漂う分野というより、むしろ、「科学」という明示的な分野におけるこころみのつもりです。ただ、科学者でもない私のなす立場であり、その科学性について、心もとなさが伴うのは自認の上です。しかし、ある意味で、そうした素人性、いうなれば平板性には、それなりの意義もあるかと自負し、この独りよがりな議論を進めてゆきたいと思います。

思い起こせば、読書という面では、私がそれに意欲的に取組み出したのは17歳の頃で、かなり“おくて”な出発でした。ただ、そういう私でも、中学生のころ、子供向けに書かれたガモフの理論物理学入門書や、「すい、きん、ち、か、もく、どっ、てん、かい、めい」を英語でなんと言うのかとの興味から、洋書の初歩の宇宙ものにチャレンジした記憶もあります。

そういう体験からいえば、私の少年時代は、文学少年では決してなく、あえて言えば科学少年で、ことに、その知識面より実技面にいっそう熱中し、自分でいろんなものをこしらえる模型工作少年でありました。今の言葉でいえば、「オタク」系だったということになりましょうか。

こうした自己習性にそい、この“宗教めいた”分野にあっても、そのアプローチを、いわゆる経典や宗教指導者像といった人文系の観点によるのではなく、先に書いた『新学問のすすめ』のように、数学的、あるいは、物理学理論の系譜をさぐるといった方式をとってゆきたいと思います。

 

そうしたアプローチにおいて、「越界-両生学」の「越界」という観点について、それをこの稿では、自分の死にまつわる境目自体に関してはひとまず先のこととします。そして、平均的余命として与えられるだろうそれまでの十数年間ならではの、もっと「こちら側」での考察に焦点をあててみたいと思います。それはむろん、その旅立ちの準備の意味も含めた序盤戦でもあるのですが、その時をいきなりに迎えるのではなく、そうした“異界”との遭遇を、それなりに段階を踏んでスムーズにする予習でもあります。

 

そこで話題は飛躍するのですが、オーストラリアの人気ギャンブルのひとつに、ドッグレースがあります。競争用に訓練されたグレイハウンド犬が、獲物に仕立てた作り物のウサギを追いかけて展開され、犬たちは、その長円形トラックを、与えられたとおりに従順に競い合って走ります。

そこでですが、私の知るかぎり、そうしたレースの途中で、カーブを曲がってゆくレースを見越し、トラックから外れ、長円内を真直ぐに横切って「近回り」して走る犬を見たり、聞いたりしたことはありません。そんなずる賢い犬も、犬のことだから一匹ぐらい居てもよさそうな気がします。

むろん、そうしないように厳格に訓練されているのでしょうが、犬たちにとって、目先に見える獲物との直線距離が関心事で、その獲物がその先で円弧を描いて走ることなどは、関心外のことなのでしょう。

この例に続いて、さらに別の話題に飛びます。

それは、地球に関する「測地学線」についてです。これは、球体である地球の表面上の位置を精密に測定する学問=測地学において、用いられる思考的道具のひとつが「測地学線」です。ことに、地点Aから地点Bへの移動に関し、その最短直線を「測地学線」上の最短距離と呼びます。ただし、この最短直線は、正確には、球曲面上に引いた最短線としての“曲がった”直線で、実際には円弧をなし、本当の直線を引くとすれば、地球内部をもぐって引かれたその円弧の弦としての直線ということとなります。

 

以上の二つの異なった事例は、いずれも、同じ「直線」でも、それらは「ゆがんだ面や空間」における見かけ上の直線であったということです。

つまり、ドッグレースの例では、獲物と犬との間の一次元的直線は、実は、トラックが長円形に“ゆがんで”おり、「近道」を可能とする「真の直線」が引けうるという話です。言い換えれば、平面上に描かれた円形線という「二次元上のゆがみ」についての「直線」です。

また、測地学線の例では、二地点間の地球表面上の平面的な最短直線も、それは曲面上の円弧であって、その円弧の弦に相当する「真の直線」があるということです。言い換えれば、三次元の球面上の線という「三次元上のゆがみ」についての「直線」です。この際の「近道」は、地球内部をもぐらのように進むのが最短距離ということとなります。

 

さて、ここで、以上の二例を延長して、私たちの生きる三次元の世界プラス時間という四次元時空間と、さらにそれ以上の、五次元、六次元・・・との関係という、宇宙的な次元を考えてみたいと思います。

上の第二の測地学線の例では、地図という平面上の直線も、三次元上——時間を加えれば四次元——では曲線にゆがんでいて、真の近道の直線は別にあったという話です。

いま、私たちの世界である四次元上で、直線と考えている話は、それ以上の次元ではこうしたゆがみはあるのでしょうか。

それが実はあるのです。

たとえば、太陽の光は、まっすぐ直線をえがいて、地球に到達すると考えられています。おそらく、太陽系内部では、そう考えていてもよい話でしょう。

しかし、それを銀河系やさらに別の星座系にまで広げるとします。そうしますと、たとえば、本当は、太陽の向こう側のかなたにあって、本来なら太陽にさえぎられて見えないはずの星が、実際には地球から見える現象があります。

これは、太陽のもつ強力な引力が天体間空間をゆがめ、その向こうの星からの光が曲げられて、地球に届く現象です。

つまり、引力はその強さによって、それぞれの天体が独自の《ゆがんだ》空間を形成しているということです。

ここで本稿にとって重要なことは、それぞれ次元を異にする、異次元への移動を想定する時、低次元では直線に見えたものが、高次元では《ゆがんで》いるということです。

いうなれば、異次元間においては、直線的な距離などあてにならない、ということです。

ちなみに、宇宙に存在するそうした《ゆがみ》を利用すれば、「ずる賢い」犬に近回りが可能なように、見かけの星間の直線距離を近回りする、ショートカットした宇宙飛行が可能となるはずです。

どうやら他の星の宇宙人たちは、UFOに乗って、地球人のロケット技術なら例えば何万光年もかかる距離を、こうしたショートカットを利用して、短時間のうちに地球にやってきているようです。

宇宙とは、そうした異次元の世界であり、その世界から見た地球上の常識とは、ドッグレースの犬が作り物の獲物しか追っかけられない、そうした有り様に等しいようなものなのです。

 

さてここでですが、私は、こういう異次元間の《ゆがみ》を発見し、それに気付いた以上、それに親しみ、それを大いに活用してみたいと、荒唐無稽に、考えています。 

 

たとえば、私は、人の死をきっかけとする旅立ちの根底には、それが地球上の事柄としては収まり切れない、異次元間の旅にわたっているとにらんでいます。つまり、その旅とは、こうした《ゆがみ》の旅であることは間違いなく、それは地球上で見られたり考えられたりするものとは、決して同じでないことです。そうです、それは、何万光年もの旅を、ほんの短時間ですませてしまう類のことなのかもしれないのです。

人の死にまつわり、その地球上の通念にもとづいた見かけ上の終末観は、そうでいながらその反面、永遠な霊魂の存続を前提とする死後世界観を伴っているように、それを「宗教」と呼ぼうと「科学」と呼ぼうと、いずれにせよ、《脱地球》的な領域を示唆していることは確かです。

そしてこうした手掛かりをもとに、本稿でいう「越界」に戻って考えてみますと、死にまつわるそうした移動に際しても、どうやら、その要所に、異次元間の移動という、「両生学」な視点がその目の付け所として潜んでいると推察されてきます。

私にとって、個人的には、私自身の「両生学」が、国内での転居や日本からの出国を皮切りに、地理的移動や形而上的移動などのさまざまな移動に関わってここまで発展してきたと自負できるわけです。

そしてその自然な延長として、さらなる「越境」=「越界」という「両生学」の新領域が、こうして差し迫って観測されてきているのです。

 

 

Bookmark the permalink.