俺の“真言” (MOTEJIレポートNo.17)

両生“META-MANGA”ストーリー<第23話>

なあ、これはMATSUの持論――「《し》は通過点」――にもからむ話だが、それをちょっと別の角度からアプローチしたい。と言うのは、いま俺がここに来て残念に思っていることのひとつ――これはその内でもことに大事なこと――だが、いわゆる晩年にさしかかった自分が、あるバランスある視野を持てず、無念なことに――まあ常識的でもあるんだが――、老境と終末の感覚にとらわれたまま、ここに来てしまったことだ。

その説明のために、ちょっと回り道を許してもらいたいのだが、これは誰しもそうだったと思うが、若いころにはよく、いわゆる《理想と現実》のジレンマに悩まされたもんだ。そしてその悩みは年齢を加えるにつれ、人生経験によろしくもまれて鍛錬され、《観念と因果律》の対立にも至った。そしてさらに、それを人間社会の制度や概念上の対立項として集約すれば、《宗教と科学》とさえ規定しうる人間社会の最大の詰問にまで発展してきた。そうした、結局、解決にはほど遠い地球的問題を置きっ放しにしてきた、などとほざけば誇大癖すぎるが、せめて、俺の「残し忘れてきた遺言」くらいの気分は持っている。

こうした地球的課題を俺なりの軌道修正をほどこし、ことにMATSUの「《し》は通過点」の視角から言うと、《この世とあの世》についての両眼視野の欠如だ。だからこそ、バランスの視点なぞとの均衡感覚が働くはずもなかった。つまり、地球上で生きているうちは、「死」がまさか「通過儀礼」であったなんて夢でさえ考えられず、首尾よく葬儀屋と坊主ビジネスの恰好のお客となる――あるいは、そうはならじと時間稼ぎに精を出す――ことぐらいが関の山だった。

つまり、俺の言わんとすることは、《し》を前にした晩年だからこそテーマにすべきことは、すべての終わりが来ることではなく、それを通過点として、その後をいかに展望できるか、少なくとも、「全巻の終わり」などではないということだ。そう、思春期と成人期の境にイニシエーションの儀式があるように、この世とあの世の間にあるべきなのは、葬式ではなく、《再・誕生》式なのだ。

遠い昔を思い起こせば、むろんそれは、記憶以前の記憶の話だが、俺は母親の胎内より地球に産み落とされてきた。つまり、上で言う《現実》も《因果律》も《科学》も、すべて、地球を前提とする議論であり、その環境をその出発条件としたものであった。

そうした俺が、先に実際に経験した《し》とは、こんどは地球という胎内から、宇宙という環境に産み落とされることだったのだ。つまり、これは地球上の言葉を借りて言うしかないが、地球上では《理想》であり《観念》であり《宗教》とされたものが、この世界では、それが《現実》であり《因果律》であり《科学》となるものなのだ。このスライドは、実に意味深長だと思わないか。

たとえば、精子時代の俺の半分と、卵子時代のもう半分が、人間界ではけっこう意味ある合体の祭礼をへて、その半分同士が組み合わさって俺が始まった。そうした胎内で起った通過儀礼と、その結果の俺が、こんどは地球上での生命が終わったとしてこの宇宙に放り出されてきた通過儀礼と、むろん形や場は大いに異なっているが、連続しているのは確かなことじゃないか。

問題なのは、そうした一切を、別のものと分断してしまっている、地球上の人間たちの意識や観念のおかしさじゃないのか。

むろん、いっそう想像をたくましくすれば、この宇宙界での生をへてその晩節に至り、そこでの《し》がやってこようとする際には、さらなる《理想》や《観念》や《宗教》がさらにやって来るのだろう。

まあ、神ですらそれを神と呼ぶ、そんな超々次元はさておくとして、ここにひとつ付け加えておきたいことがある。

最近俺は、ここに来てもはや千数百年になるというある大先輩に出会った。彼は地球時代には「空海」と名乗っていた御仁とのことだが、彼はなにやら重々しく俺にこう言った。「その誕生観こそ即身仏で、そのアイデアが真言だ」。

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