「考え過ぎ」か「深慮」か、その往復運動

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その70)

シンボルあるいは象徴を、この章に論じられているほどに受け止めることは、正直なところ「考え過ぎ」とか「こじ付け」ではないか、と思わせるところがあります。しかし、例えば英語には「numerology」(数秘学)といった用語があるように、数字占いの意味付けとなる数字の謎をさぐる研究分野があります。言ってみれば、数学だって、そうした関心を出発点としてきた経緯があるのでしょう。だが現在では、それは科学扱いはされてはいません。本書を含む二部作のテーマである「エソテリック」も、科学界からは、せいぜい「疑似科学」としか扱われていない分野です。

しかし、もし科学を、科学となしえるために不確かな部分を切り落とした骨格のみだと見なすなら、その血や肉についての考察は、すくなくとも可能性として、科学の未開拓分野を含む、将来的なエリアと言えなくもないでしょう。

個人的関心ですが、そうした「考え過ぎ」と「深慮」間を往復させられる運動が、本書を訳読している面白味です。

それにしても、シンボルにそれほどの意味を持つとすること自体がシンボルのシンボルたるところなのでしょうが、それに比べ、例えば日本の家紋については、デザインとしての特徴はあれ、そのデザイン自体には、さほどの意味付けはないようです。むしろ、そうしたエソテリックな意味付けは、自然界の事物に託されているかに対比されます。そんな、東西文化の違いもにらみながら、この往復運動はエンジョイできます。

 

それでは、本章「聖なるシンボル(その1)」へご案内いたします。

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