裸の王様を「裸」って言おう(第三回)

《多様多彩》 投稿者 幸子

 

「象徴」は「日の丸」だけで十分

 

憲法9条と天皇制はセットだと、よく言われてきたその意味を私はしっかり理解してはいなかった。その天皇制とは漠然と天皇制である必要はなく、アメリカ製の象徴天皇初代一人でよかったのだ。初代死亡で日本が天皇制廃止と戦争放棄廃止を同時にやっても、アメリカは文句を言えないはずだ。憲法1~9条が一掃できる。天皇条項と戦争放棄だ。晴れて国民条項が憲法の最初に躍り出る。やっと本物の国民主権である。

これに気づく人がもっと多かったら、日本は素晴らしく生まれ変わっていただろう。初代死亡は国民蘇生のチャンスだった。武力放棄、交戦権放棄などという国家としては欠陥としか言えないこともチャラになり、まともな国家になるいいチャンス。

初代死亡の前から、私にはそうとしか思えず、それを生かして日本もきちんとした共和制になるという希望を持っていた。皇室は発展的解体をし、まあ、恭(うやうや)しい「○○様呼び」に未練ある向きには宗教法人への道も開いて…

などと思っていたが、共和制のきょの字も出ないまま、当たり前のように象徴天皇制は二代目に突入した。ご存じアキヒトである。象徴二代目など継ぐテマヒマあれば、サッサと皇室たたんで、自身と共に日本を解放させることもできたキーパーソン。若い頃から彼は皇室にうんざりしていたという。不自然な生活、家族との隔離、人々の好奇のまなざし、窮屈なしきたりあれこれ。早くから天皇定年制を目論んでいた人物で、実際30年間の務めを終えて退位したのは、彼が自分の計画を周到に実行したにすぎないのだ。自分はほぼ計画通り、ただ国民は置き去りだ。

彼は天皇という地位や仕事を生涯にわたって続ける気はなかった。結婚前に、こう言ったという。

「ぼくは天皇職業制をなんとか実現したい。(略)毎日朝10時から夕方の6時までは天皇としての事務をとる。(略)そのあとは家庭人としての幸福をつかむんだ」(『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』2015年)

この本の出た頃かと思う。アキヒトの次男がよく天皇定年制を提唱していた。親子そろってあれこれ画策したのかもしれない。揃いも揃って、皇室制度廃止にだけは思い至らず、天皇職生涯制だけを何とか回避するためにあれこれ知恵を絞ったのだろう。

軽いね。国の顔、国民の代表ともいうべき存在を、世襲なんて安易なやり方で選ぶからこんなことにもなってしまう。ローマ教皇(法王)、ダライ・ラマのような、しかるべき識者たちの厳しい審査によって選ぶのではないから。ペットの血統書感覚で君主が決まってしまう。そういう国なんだ、日本は。そもそも、やる気がなくても、その血統に生まれてしまえば、やらなくちゃならんという湿っぽさが付きまとう。初代ヒロヒトの顔にもしばしばそれが出ていた。いやいやながら、しかたなくやってるという暗さが。だが、彼らが居直って、叫ぶのを聞いたことがない。「戦争責任や何や難しいこと言わないでくれ、なりたくて天皇になったんじゃない、気が付いたら、させられていたんだ!」などと、叫ぶのを。そういう精気さえない、どこまでも素朴さに欠ける生き物だ。自室にこもれば叫んでいたんだろうか。

天皇たちはそれぞれ自分の窮地から、いかに脱出しようか、どう身を処していこうか、それを考えるだけで頭一杯だったのだろう。

 

これは、国民の方がぼさーっとしていたということだ。そんな天皇が国民の為に何かしてくれる、ましてや一肌脱いでくれるようなことはないと判っているのだから、天皇定年前倒しをさせるべきだった。天皇ヒロヒトが神から象徴に降りたにもかかわらず、相変わらず敬語づくしで祭り上げ続け、その息子も高御座(たかみくら)に乗せて奉り続ける。思考停止の怠慢としかいいようがない。三種の神器など真っ先に廃止し、天皇がどうしても個人的に未練持つなら、持たせ、大事にしまわせてくれ。これ見よがしに我々に見せないでくれ。その外箱だけでも見たくない、あんな恭(うやうや)しい捧(ささ)げ方自体、見るのも嫌だ。皇室オタクはあれ自体に畏敬の念を抱くようだ。

しかし、そんなこんなが、アメリカを大喜びさせたようだ。自分たちが作り上げた象徴天皇がヒロヒト死亡で終わらず、自動的にその息子に引き継がれて行くので、ほっとしたのだろう。そりゃ付き合いもその方が楽なのに違いない。君主一人を丸め込みさえすれば自国の言いなり、こざかしく口うるさい元首やそのブレーンとすったもんだの交渉に頭悩ます必要もない。アメリカは君主国日本をこよなく愛し、利用し、食い尽くすだろう。

日本人の私でも、ヒロヒトの死で、皇室おしまい、の可能性を考えたほどだから、アメリカはもっと心配していただろう。もはや戦後の食うや食わずの国民ではない、豊かになり、意識も向上すれば、本格的共和国、アメリカと対等な共和国になり、天皇を必要としなくなるのではないか、と。

そんな心配をよそに、日本が共和国にもならず、象徴天皇が二代目に継承されていくというので、アメリカはほっとしたのだろう。即位式に、本当は大統領が行きたいところだったかもしれないが、副大統領が出席した。

そして三代目ナルヒトの即位には、もう、アメリカも安心しきって、感激も薄いのか、大物はよこさなかった。運輸長官が出席。(社交儀礼か最初は副大統領を予定していた)

アジアの国々からの国王たち、国家最高顧問、ヨーロッパから王室の要人たちなどと比べると、ずいぶん地味だ。長官の名前もほとんど報道されなかった。

 

ところで、日本語としてのシンボルは、男性でもなく女性でもなく、無性というところか。

今や日本語化したシンボルという言葉は、まずは、記号、印という意味があり、これだけでも、シンボルは人間ではなく、物でいいことが判る。旗や山でいいのだ。日の丸や富士山で十分だ。なぜ維持費のかかる人間をシンボルにしたのか。GHQがヒロヒトをシンボルにした後、ほとぼり冷めた頃に日本側でやめてしまえばよかった。人間をシンボルにすることを。日本側は敗戦直後は、あたふたと取り乱したお歴々が、まとまらぬ考えでいい加減に丸め込まれたのだろうが、それから70年以上も経てば、進歩もあっていいはずだ。「よく考えたら、我が国に象徴はすでにあった。日の丸で十分だ」くらいのこと言ってみろよ。

敗戦直後は落ち込み、思考力も失っていた日本人の受け入れたことを、今の我々がそのまま受け継ぐ筋合いはない。どこの国でも反省あり、進歩あり発展があるのだ。日本だけそれがないのはただの知恵遅れである。それを、日本の万世一系の天皇制は世界の奇跡、などとおだてる人々もいる。外国人だ。アメリカ人もいる。悪気なく言っているかもしれないが、外野からは何とでも言える。ご用心、ご用心。

 

経費の掛かる人間をシンボルにして、国民の得るものは何か?

 

これをシンボルご自身に語っていただこう。国民が納得できるような説明がなされなければ、廃止してよかろう。どうしても維持したいという向きには、宗教法人へどうぞ、でいい。それには創価学会が大反対するだろうとの意見もある。競争相手が増えるからだろう。

反対されたってそれが正論なら、引っ込める必要はない。いつかは通る。通らなければそこまでの国でしかないというわけだ。そうなれば、私はますます愛国の思いをなくしていく。

皇室の成員、皇室支持者は、しかし、自分たちのあり方を宗教だとはなかなか認めない。宗教ごときの低俗なものではない、とまで言う。宗教以前の、宗教を超越したものだ、とまで。これは神道の人々も神道について、よく言うことで、そもそも神道には教えらしい教えはなく、救済などの概念もない。皇室とよく似ているのだ。祈りはあるが、個人的な祈りは受け付けないとか、神社によって学問専門、いぼとり専門だったりと、総合的受付はしないのが常。さらに祈りが聞き届けられるか否かは神側の責任ではない。お供えだけは確実に受け取る。放置されるのは嫌いらしい。ちやほやと奉ってもらいたく、さもなければ祟(たた)る。

それと神道には教祖がいない。崇拝の対象である神も、唯一ではなく、多種多様。人間までもが死後神になり祀られる。経典もなく、拝礼の作法などについて、見様見真似はあっても、教えらしい教えがない。教えず、奇跡はむろん、救済もなく、罰(ばち)を当て、祟(たた)りはする。それに忘れてはならない、因縁付けてくることだ。

これは自身の、かつての宗教遍歴中にもあれこれ経験したが、ごく最近、息子の婚礼で再認識した。あわよくば、駆け落ちしてくれ、その方が先方の家族親族との煩わしい顔合わせも付き合いもしなくて済む、と願っていたにもかかわらず、お相手女性のたっての希望で、そうもいかず、初宮参りをしたという馴染みの神社で、親も参列の挙式となった。会場への交通費も留袖やモーニングのレンタル料始め、旅費、宿泊費まで、自分が持つから頼む、来てくれ、と息子に泣きつかれては断れなかった。行ってみると白無垢綿帽子の元気な花嫁が、子供のように終始ニコニコしていた。式中、私は着なれない和服(特にギブスのような帯)に気もそぞろ、意識朦朧にさえなりかけたが、それから解放されると、こんなに喜んでもらえるんならこの息子を産んでおいてよかったのかな、みたいな気もしてきた。とにかく嬉しそうだったのだ。

その結婚式の誓詞の中に「新郎新婦の縁は尊き神慮によるものと喜びまつりて…」という件(くだり)があった。よくもまあ息子は、いくら彼女に惚れたにしろ、こんな文言を読み上げることに耐えられるものだ。なんてことない、若い男女は生理的に惹きあうもので、結婚の合意はその結果にすぎないのに、尊き神慮などと因縁を付けてくるのだ。聞き流すのに苦労する。

神道の重要な特技の一つ、因縁付けである。その昔は人身御供(ひとみごくう)もあったらしいが、神道独自のものではない。古今東西お供えにされた人骨などは沢山ある。過去の話はさておき、今の神道の特色は、開祖、教祖がいなくて、教えず、救わず、祟り、因縁付ける。救いの代わりに因縁めいた利益(りやく)で、ちょっと救われた気にもさせる。厄(やく)や祟りを祓(はら)う、またその護符を売る。これが私のざっと見たところの神道。そうそう、戒律らしいものもない。

教えも救いもなく、祟り、因縁付けて来るというのは、ことを未然に防ぐ術(すべ)や、物事の因果関係に暗いということか。平たく言えば行き当たりばったりなのか。厄除けは予防の概念か? それにしても、お祓いの護符などはマッチポンプな気もする。ほとんど商売だ。

こんなにも俗習との差が見分けにくい何でもありが神の道≒神道だ。これに関連して面白いことを言う人がいる。

「神道(しんとう)」の別の表現として「惟神(かんながら)の道」という言葉を使う人も出てきました。

意味はよくわからないところもありますが、何かひきつけられるものがある、それが惟神(かんながら)という言葉なのです。

笑うしかない。綿毛のように軽く、なるほど、世界の諸宗教とは趣き(おもむ)を異(こと)にしている。神道のその他の要素、敬神崇祖(けいしんすうそ)、男尊女卑は独自のものとはいえない。他の諸宗教にも見受けられる。

 

つづく

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