MATSUよ、今度のクモ膜下出血からの生還体験は、確かにそのように、ひとつの成功例となった。それはそれで結構なことで、ことに地球上では、めでたし、めでたしの話なのだろう。だが、両界を知る俺としては、それは序盤戦どころかほんの取っ付きで、これからが本番であることを話したいんだ。つまり、前回レポートの「人間エンタングルメント」が実際の現象であるとするならば、その実用や汎用を、量子コンピュータなぞにとどまらず、もっと俺たちだれもの生活や人生の身近な“デバイス”として、活用すべきだし、それができるということなんだ。だから、スマホなどどいう微々たる代用品に目先を奪われる必要はない。言うなれば、“デバイス”を体外装置とする考えを変え、そうした能力を自分自身に取り込んでしまう、《エンタングルメントな生き方》をエンジョイしようってことなんだ。 詳細記事

MATSUよ、周囲も驚く順調な回復ぶりを見せているようでなによりだ。でもご免だが、俺の目論見はまだ終わっていないんだな。クモ膜下出血という手荒な手法だったが、MATSUには《META交信》を通じ、「両界体験」がどんなものかをもろに味わってもらった。でもな、俺にとってはまだ、し残したことがある。つまり、それがじいさんたちの「冥途の土産」話どころか、他の誰にとってもの今世のリアルな出来事でもあると言える、その理由でありその根拠なんだ。それも、科学的な。これまで、後回しにはしてきたんだが、いよいよそれを片付けなくてはならん。誰も車のメカなぞ知らなくても平気で運転できるように、その根拠なぞほっといても、俺にもMATUにも、むろん、何らの実用上の不都合はない。だが、ここへはいま一歩踏み込んでおいた方がよさそうだし、いかんせん、それなしじゃあまるで片手落ちでもある。それにMATSUだって、このままで収まっちまったら、この一連の体験は、馬鹿な失敗から生還できた「ラッキーじいさん」の話で片付けられてしまうんじゃないか。 詳細記事

MATSUよ、その後の回復具合はいかがかな。なかなか危機感迫る体験だったに違いないし、今でもそれは去っていないだろう。地球上ではそれを「九死に一生を得た体験」とでも表現するのだろうが、実は、それこそが俺が伝えたかった《両界体験》の醍醐味なんだ。そもそもそれは、たとえそのきっかけが「年寄りの勇み足」だったとしても、その本質は、生と死が背中合わせの境界体験のひとつだったがゆえなのだ。

そこで、俺のレポートもいよいよ佳境に差し掛かってきた感があるのだが、前回の「共同合作の第一歩」に続くその第二歩目として、今回のMATSUの体験をひとつの“成功例”として、それが具体的に示している実効性をレポートしたい。

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MATSUよ、ここ黄泉の世界にきて以来、レポートNo.3でも報告したように、地球時代とさまが違う事の筆頭が、ともかく《時間が存在しない》ということだ。時間がないから寿命もなく、従って命もなければ、誕生も死もない。常に今であって、今が限りなく広がっている。時間がないから過去もなく、そういう「時の彼方」を惜しんだり、またそれを逆手どってそこに物事を隠したり、嘘を言ってしらばっくれることもしようがない。つまり、あらゆることが限りなく透明で、見え見えなのだ。 詳細記事

MATSUは、眠っている間、自分は何をしているのだと思う? おそらくその返答は、「夢を見ているか、夢も見ないで熟睡しているか、そのどっちかだ」などというのが一般的なところだろう。

そこでその夢なんだがね、俺も地球時代を思い出して言うのだが、たとえば、夜中にふと目を覚した時のこと。横で寝ている連れ合いや子供だのが、何やら誰かと話しているらしき寝言をはたで聞いて、確かにやつらの身体はそこにあるのだが、その心というか意識というか、そういったものはそこにあらずなんだな。そして、どこか全く別の所に去って行ってしまっていると、妙な現実味を伴って感じさせられたものだった。 詳細記事

俺がこの霊理界にやってきてもう半年以上が経過した。だが、そのわずか半年少々の期間ではあっても、長くいた地球時代とまるで勝手の違う“暮らし”を続けてきて、実は、ある、恐ろしいほどに対極的な認識に至りつつある。むろんそれは、地球時代の俺にしてみれば、想像を絶するどころか、あってはならない話ですらある。そうした話を、今回は、実はそれが、今日のこの混沌極まる地球をもたらしている元々のリアリティーではないかと、こちらの世界の通説をお伝えしたい。 詳細記事

前回のここで、俺は「霊理的オーガズム」についてレポートした。実は俺、その言葉を使ってはじめて、これが「ことだま」作用というのだろうか、自分が肉体的死を経験する際、なんとも言えない心地よい感覚が伴っていた、それが何だったかが、ようやく解りはじめている。

《肉体的オーガズム》をもって命に炎がともされ、

《霊理的オーガズム》をもってその炎が消える。

《オーガズム》とは、あたかも、この生命界へ出入りするその両門における、《霊理》に触れる高鳴りなのだ。

そうなんだ、俺たちの死とは、そうした「霊理的オーガズム」を伴って次の“生命態”にのぼりつめる登頂なんだ。だから、人間、死のその瞬間、それまでの身体苦がどれほど辛かったとしても、微笑むような――いかにも「仏」のような――表情をしてそれを迎えうるのだ。そう、あたかも、未踏峰の初登頂者のように。

そして、MATSUもどこかで書いているが、そのようにして、俺たちは「し」というタイムマシーンに乗り込んで行くのだ。 詳細記事

今回は、前回以後につかめてきたことを伝えたいのだが、テーマとしては、前回の「宇宙版セックス」と題したレポートの続きとなる。しかも、前回がそうとうに理詰めであった恨みを取り払い、今回の話はむしろ具現的でもあるかと思う。

そこでまず、このレポートの送り先の相手を、昔の地球時代にならい「MATSU」と呼ばしてもらおう。

そして最近、そのMATSUの作成するサイト、「両生歩き」の 2015年10月22日(No.192) 号で、美的なんだが、どこかこの世離れした、下の写真を拝見させてもらった。 詳細記事

俺は、地球を後にしてこの「あの世」にやってきて以来 Moteji をやっているのだが、ここでは、既報のように「目からうろこ」の経験をいろいろさせてもらっている。そしてさらに、その「此岸・彼岸」級のどえらい違いを物語る、これまた新たな「目からうろこ」に出会っている。

それは、前回のこのMOTEJI レポートで予告したように、地球の東アジアの伝統でよく出くわす「陽と陰」とでも言おうか、この宇宙霊理界にある一種の《対》なのだ。そしてそれは、地球生命でいう「雌雄」とか「男女」の違いにも似て、何やら「セックスじみた」とでも表現できそうな、対交換関係がありそうな代物なのだ。 詳細記事

地球時代、たしか聖路加病院の日野原重明先生がそう言ってたと思うのだが、「命は時間」だった。あの先生はまだ生きてられて、もう105歳にもなっているはずだ。たいした長寿だしその活躍ぶりだ。

一方俺は、その命を早々と収めちまってここに来てMotejiとなり、いまは、その「時間」の無い生活をエンジョイし始めている。ただし、それが「生活」と言えるものかどうかは判らん。

ともあれ、時間というものが無くなってみて初めて、「目からうころが落ちた」感じを多々みつけている。そう胸を張って言えるのは、ここに「先に」やってきた、そういう強みがゆえだろうね。 詳細記事