MATSUよ、先にここで、俺が「もと空海」と名乗る男に出会ったという話をした。その「もと空」に、このところ、いく度もコミュニケートしているのだが、実に興味深い話を聞かせてもらっている。

「もと空」がこの世界に来たのは、もう千年以上も昔のことだというが、ここでは、千年だろうが万年だろうが、そんな時間的長さという次元は意味をなさない。ともあれ、彼が言うには、彼がかつて暮らした地球上の東アジアで、千三百年ほどをへだてた間ながら、よく似た情況が生じつつあるというのだ。
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MATSUよ、ここに来て俺は、奇妙な意識の違いを発見している。それを説明するのはいささか面倒なことなんだが、それを手短に言えばこういうこととなる。すなわち、俺が地球にいたころ、俺は俺の主で、その自らの主人意識には、いささかの曇りはなかった。むろん、時にはその自信が揺らぐことや、逆に普遍的人権なぞと大上段に振りかざすことはあったが、それも、その主たる意識があるがゆえのことであった。それがここに来て思えてきているのが、どうやら、俺は俺の主であるどころか、俺という身体を借家して住んでいるテナントに過ぎなかったということなんだ。つまり、家主に出ていけと言われればもうそこには居られず、俺がここにやってこざるをえなかったのも、その家が老朽化し、どう修繕しても、もはや住んではいられなくなったからだと言える。どうだ、面倒どころかえらく突拍子もない話だろう。だが、それが真実のようなのだ。 詳細記事

なあ、これはMATSUの持論――「《し》は通過点」――にもからむ話だが、それをちょっと別の角度からアプローチしたい。と言うのは、いま俺がここに来て残念に思っていることのひとつ――これはその内でもことに大事なこと――だが、いわゆる晩年にさしかかった自分が、あるバランスある視野を持てず、無念なことに――まあ常識的でもあるんだが――、老境と終末の感覚にとらわれたまま、ここに来てしまったことだ。

その説明のために、ちょっと回り道を許してもらいたいのだが、これは誰しもそうだったと思うが、若いころにはよく、いわゆる《理想と現実》のジレンマに悩まされたもんだ。そしてその悩みは年齢を加えるにつれ、人生経験によろしくもまれて鍛錬され、《観念と因果律》の対立にも至った。そしてさらに、それを人間社会の制度や概念上の対立項として集約すれば、《宗教と科学》とさえ規定しうる人間社会の最大の詰問にまで発展してきた。そうした、結局、解決にはほど遠い地球的問題を置きっ放しにしてきた、などとほざけば誇大癖すぎるが、せめて、俺の「残し忘れてきた遺言」くらいの気分は持っている。 詳細記事

ニュージーランド・トレッキング報告を見たよ、MATSU。健康上の懸念はもうほぼ解消したみたいだな。おめでとう。俺もうれしいよ、俺の仕掛けたドラマが成功裏に終わってね。

そこでなんだが、こうして達しえた新たな高みを足掛かりに、それだからこそでき、また、それだからこそしなくてはならない、新たなプロジェクトを提案したいんだ。言ってみれば、幸いに目下、命取りの病気の脅威のない人向けに、その「後期高齢」人生を、いかに自由かつ果断に全うしようとするのか、といった計画だ。むろんそのポイントは、繰り返して言ってきている、「連続する旅路」のその《通過点》の意欲的越え方、といったところだ。 詳細記事

MATSUにとって、今回のくも膜下出血体験はひとつの臨死体験――俺なんぞは臨死どころか“実死”体験――だったわけだが、一度それを体験してみると、確かに、これまでの世界観なぞは吹っ飛んでしまう。そして、それまでの自分の長い人生も、あるいは膨大で複雑な現実社会も、その体験を境に雲散霧消してしまい、自らやこの世の存在の背後に潜んでいたとてつもなく巨大な深淵に、いきなり放り出されてしまう。それこそ、これまでの自分や現世界が、まったく砂粒のようにちっぽけで、かつ、スクリーンに映じた画像でしかなかったことを覚ってしまうわけだ。 詳細記事

なあMATSUよ、今回のお前の体験は、脳外傷による一種の臨死体験であったわけだ。ただ、確かにその外傷の重症度の軽さのお陰で、この世とあの世の境をなす一線を越えるに至らず、現生に戻ることができた。俗世界的には、それはそれでめでたいことだろう。だが、俺に言わせれば、その一線など、ある連続する旅路の一通過点で、現生に戻れたこと自体は、さほど祝福するほどのことではないのではないかと見る。

ちなみに、そうした通過すべき一線は、どのみち確実にやってくる。つまり、こんどの体験の本当の意味は、またそれがめでたいと言うのなら、現生にうまく戻れたということではなく、その際どい体験を通じて、その旅路の連続性を垣間見れたという発見ではないのか。 詳細記事

MATSUよ、今度のクモ膜下出血からの生還体験は、確かにそのように、ひとつの成功例となった。それはそれで結構なことで、ことに地球上では、めでたし、めでたしの話なのだろう。だが、両界を知る俺としては、それは序盤戦どころかほんの取っ付きで、これからが本番であることを話したいんだ。つまり、前回レポートの「人間エンタングルメント」が実際の現象であるとするならば、その実用や汎用を、量子コンピュータなぞにとどまらず、もっと俺たちだれもの生活や人生の身近な“デバイス”として、活用すべきだし、それができるということなんだ。だから、スマホなどどいう微々たる代用品に目先を奪われる必要はない。言うなれば、“デバイス”を体外装置とする考えを変え、そうした能力を自分自身に取り込んでしまう、《エンタングルメントな生き方》をエンジョイしようってことなんだ。 詳細記事

MATSUよ、周囲も驚く順調な回復ぶりを見せているようでなによりだ。でもご免だが、俺の目論見はまだ終わっていないんだな。クモ膜下出血という手荒な手法だったが、MATSUには《META交信》を通じ、「両界体験」がどんなものかをもろに味わってもらった。でもな、俺にとってはまだ、し残したことがある。つまり、それがじいさんたちの「冥途の土産」話どころか、他の誰にとってもの今世のリアルな出来事でもあると言える、その理由でありその根拠なんだ。それも、科学的な。これまで、後回しにはしてきたんだが、いよいよそれを片付けなくてはならん。誰も車のメカなぞ知らなくても平気で運転できるように、その根拠なぞほっといても、俺にもMATUにも、むろん、何らの実用上の不都合はない。だが、ここへはいま一歩踏み込んでおいた方がよさそうだし、いかんせん、それなしじゃあまるで片手落ちでもある。それにMATSUだって、このままで収まっちまったら、この一連の体験は、馬鹿な失敗から生還できた「ラッキーじいさん」の話で片付けられてしまうんじゃないか。 詳細記事

MATSUよ、その後の回復具合はいかがかな。なかなか危機感迫る体験だったに違いないし、今でもそれは去っていないだろう。地球上ではそれを「九死に一生を得た体験」とでも表現するのだろうが、実は、それこそが俺が伝えたかった《両界体験》の醍醐味なんだ。そもそもそれは、たとえそのきっかけが「年寄りの勇み足」だったとしても、その本質は、生と死が背中合わせの境界体験のひとつだったがゆえなのだ。

そこで、俺のレポートもいよいよ佳境に差し掛かってきた感があるのだが、前回の「共同合作の第一歩」に続くその第二歩目として、今回のMATSUの体験をひとつの“成功例”として、それが具体的に示している実効性をレポートしたい。

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 きっとまさかと思うだろうが、今回のMATSUの「クモ膜下出血」からの生還体験は、実は、俺が用意周到に仕組んだものだと言ってよい。

自慢するわけではないが、俺にだってこのくらいのことは可能だ。つまり、俺とMATSUのコミュニケーションがいったん成立すれば、そこではこうした芸当も可能となってくるということだ。

いうなれば、両界を股に掛けた両属分野をフルに活用することができるというわけだ。

そこで俺が何を意図していたのか、以下、説明しておこうと思う。 詳細記事