これは私の感傷にすぎませんが、連載の訳読をしてきて、年甲斐もなく、しかもなお、この年に“ふさわしく”、その数々のくだりで、大いに発奮させられたり、視野を新たにさせられたりしています。前回の「科学か疑似科学か」で述べたように、本訳読に展開されている議論は、そうした境界領域に属する、まさに“超”先端的分野です。つまりその多くはいまだ検証の過程にあり、だからこそ、「疑似科学」と呼ばれ、それですむならまだしも、「まがい物」扱いさえされています。しかし、それは私にとっては大した問題ではありません。私にとっては、逆算段階に入った人生の限られた時間のなかで、自分が「これはいける」と判断される、そういう内容であるかどうかがポイントです。終盤にかかりつつある人生への、いうなれば、一種の《媚薬》としての働きに、内心、強く期待されるところなのです。
そしてことに今回、DNAの量子としての性質に言及する部分では、実に刺激的な議論がみられます。
その第一は、従来の科学の新たな科学への脱皮が「量子力学」によってなされているという、そうした注目が、私の着眼とも重なっていることです。
第二に、そのターゲットがさらにピンポイントに絞り込まれて、DNAに当てられていることです。そして私の目からうろこをはがしてくれるのが、「超コミュニケーションとDNA」で議論されているように、DNAがどうやら、宇宙すらふくむ、外界との《送受信装置》の“導体素子”であるようなのです。
そして彼は、「量子DNA」のセクションで、膨大な資源がつぎ込まれた人間ゲノム・プロジェクトが、結局、何も発見しなかったとさえ述べています。つまり、このプロジェクトは、DNAの世界を量子の世界として見ることに失敗していると言います。少なくとも、3.5パーセントの事実しか発見していないと言います。
以下の点は、あたらめて議論するつもりですが、私は若い頃から、自分の考えていることの発端が、どこか外からやってきたとしか考えられない、そうした経験を幾度もしてきています。そしてそれがいったい何であるのか、ずっと疑問でありました。そうした問いに対する解答の糸口が、少なくとも一つ、ここにこうして見つかりそうな気配なのです。
それは、広くは直観と言われるものですが、ではそう呼ぶとして、その直観は、いったいどのように私の意識の中に上ってきたのか。その自分であって自分でない《境界》部分の存在なのです。
だからこそ、もし私たちがそういう「超コミュニケーション」ができるとするなら、それはドエライことだと、年甲斐もなく、コーフンしたりもさせられているのです。
では、今回の訳読、「身体・心・霊性(その1)」にご案内いたします。