科学か疑似科学か

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その12)

連載中のこの訳読に展開されている諸議論は、突き詰めて言えば、「科学か疑似科学」と取りざたされる、各々の境界上の分野です。そして、もし私がもっと若かったら、また実際に若かった頃には、そうした一連の議論を、「まゆつばもの」として一蹴していましたし、大いに権威に無防備なところもありました。

しかし、そうした若気の時代を通過し、今に至って感じていることは、「科学」が扱っている領域はどうも狭すぎるという到達であり、またその科学の世界も、自身でそうした狭さを破って、かつては疑似科学として扱われていた分野にもどんどん広がってきています。

そうして、むしろ今ではそうした狭さが故に、一般に科学といわれている分野が、ことにそれがビジネスと結びついた場では、こんどはその科学自身が「擬態科学」――多くはごまかしに乱用される「ご都合科学」――に変貌し、信用に値しない代物となるに至っています。

そうしてとどの詰まりは、何ものも信頼できず、それらを信じないことがむしろ賢明となってきており、ついには、一つひとつを、自分の目や耳で確かめることが必至とすらなっています。

当訳読が扱っている二冊の本(『Future Esoteric』『Modern Esoteric』)は、いずれも「エソテリック」をそのタイトルに挙げており、私より20歳近く若い米国人の著者のブラッド・オルセンは、「すべてを疑ってかかれ」という心構えをその語に託しています。ここに、言わば「本源に立ち返れ」という、国や年齢をこえた共通の姿勢が見いだせます。

こうした同時代性に加えて、来年は70歳の大台を迎える年齢に至ってきた私にとって、与えられた時間は限られてきており、早い話が、「科学か疑似科学か」の結論が下るまでは待っておれず、自分の必要に応じて、自らの結論を実用本位で下してゆかねばならない要請があります。これはいわば、科学がまだなかった時代への立ち返りにも似て、根源的な《自頼》へともどってゆく道の追求です。これは、上記の「エソテリック」に注目する姿勢と重なります。

そしてさらに、こうした年齢的な限定とは無関係に、《し》という、人間ばかりか、あらゆる命ある存在にとっての避けられない重大な事実を考えると、いまの「科学」という道具は、あまりに“寸足らず”な物差しであることを感じざるをえません。この面は、ある意味で西洋的な知性の限界とも観察でき、この点では、東洋的知性の有効性を俄然見出すところです。

そういう見地に立ってみると、時代はますますと、《し》を「死」として疎外し、あまりに「生」に固執、偏重した、限られた短絡的思慮に陥っているとの感を深めます。《し》とは、もっと身近なこちら側の自分自身もので、諧謔も含めて言えば、むしろ楽しみすら期待しうる、他に代えがたい「通過点」であるはずです。

この訳読への解説シリーズを「グローバル・フィクション」と副題付けているのも、そうした「短絡的思慮」こそ、今日の全地球をおおう壮大な「フィクション」と映るがゆえです。

 

それでは、今回で完結する「意識の科学」の章(その3)へご案内いたします。

 

 

 

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