それは情念か信念か

想像 : ある有力政治家の自死

エッセイ

ねえ、バエさん、あのソウル市長は、なぜ、自殺したんですかね?

韓国の政治家って、しかも大物が、よく自殺しますよね。

2009年の盧武鉉〔ノ・ムヒョン〕大統領もそうでした。あの場合、最初は、てっきり政治的暗殺かと思いましたよ。

以下は私の勝手な想像話なんですが、聞いてもらえますか。

 

メディアによれば、このソウル市長の場合、彼へのセクハラ告発がその引き金じゃないかと報じてますよね。 

それにしても、彼のような、女性の権利の擁護者の代表と、自他共に目されてきたような人物がそれで自殺なんて、これまでの意義ある業績も台無しです。いやそれどころか、果敢に取り組んできた法的あるいは制度的な前進すらをも、まるで偽善者を自ら任ずるがごとくにドロドロに汚しかねません。そのようなこの行いを、どうしてしえたのでしょうか。

その辺のとんでもなさには、公私に関わる不気味な人的深淵も感じさせられます。ひょっとするとジキルとハイド流の二面人物だったかもとの憶測もできなくもない。

そんな関心が私のこの些末な想像の出所です。

その告発が事実であったのかどうかは、社会的にはもう表沙汰になることはなくなって、そういう意味では事実上は葬られました。ですが、やはり自ら死ぬのは、そのセクハラ行為を認めないとするには逃避に等しく、自死という煙幕中にすべてを隠して自沈したのも同然です。後は「ご想像に任せます」ってわけでもないでしょうが、多くの女性たちにすれば、「男の世界って、結局、そんなもの?」と、どうにも扱い切れない深い落胆を残してしまったのは確かでしょうね。

それにしても、この表と裏に大きく乖離した、哀れさえにも見える、いかにも食い違いの甚だしいその顛末は、一体、何を物語っているのでしょう。

やはり、正義の味方を任ずる大物の政治家といえども、男女の問題となれば、ただの人間だったということなんですかね。

そこでこれは私の一縷の望み的創作なのですが、考えようでは、彼は、それこそ評判を裏切らず、情念を込めて、男女の平等を地で行く生き様を示した人物だった、とも言えるんじゃないですか。

 

部下だったという告発者の女性の、名前も年齢も、職務内容も公表されていませんが、報道では「元秘書」とされています。だとすると、市長の執務室とそれに隣接する秘書室といった、それこそ、二人が密室を共有するのも同然な職務状況がありました。言ってみればそれが、温床ともあるいはアダともなってしまった、そうした背反二面はありそうです。

昔、確か1970年代末頃、これも韓国のやはり革新系の大統領となった金大中〔キム・デジュン〕が言った言葉を思い出します。それは、何かの集まりに参列した彼が、そこで面会した若い女性たちを、「花のような娘たち」と表現していました。ちょっと古風な言い方ですが、それを聞いて、まだ三十台初めだった私は、彼のような年齢や立場の人でも、やっぱりそういう風に見ているんだなと、妙に納得したわけでした。

 

そこで、この「事件」について想像するのですが、秘書だったという職務から判断すると、その女性は、おそらく、学歴も申し分なく、知性もそなえた人物であったと推測されます。そしてその日常の振舞いには、旧習にはとらわれないどこか洗練した風のあるもので、ただの有能な部下を越えた魅力があった。そういう彼女と日常的に接する上司、ことにフェミニストを自称すらする同市長にとっては、常識を越えた一種の型破りな二者関係を開けるかと期待できる密域があったのではないでしょうかね。

そんな理知的な脱俗界的発展性がその二人の間に漂っていて、少なくともそうした今後の成り行きを上司たる彼が夢想するに足る雰囲気があったとするならば、それが、上司部下の関係を越えた関係に踏み込んでゆく、彼にとってのプライベートながら確かな動機をもたらしていたのかも知れない。

むろん彼は、自分の立場は重々に心得ていたでしょうから、そうした自分の夢想については、大いに慎重であったはずです。ですがいかんせん、そこが男と女の関係であり、しかも上記のような特徴をたずさえたユニークな女性を日々、眼の前にしていたとするならば、そうした慎重な制御も、しだいに変調していったこともあり得ます。

 

ところがです。そうした市長の夢想の一方、その秘書の側では、彼女がそうした気の利いた人物であればあるほど、韓国社会の通念である、上司や年配者を丁重に敬う姿勢や態度においても行き届いていたのは確かでしょう。そうした彼女のそつのない身のこなしが、時には彼女を好意的に映らせ、さらには、双方間の誤認を生む要因ともなりかねなく作用していたかも知れない。どう思います、バエさん。

ただし、その社会的には実に微妙な分水嶺上のドラマは、結局の発展は、彼女のセクハラ告発となってしまった。

 

以上のような現実上の結末は、どこの社会や国にでもある話で、韓国特有の物語と言い切れるものではないでしょう。

ただ、そこで見逃せないのが、それが、政治的にも社会的にも、明らかに権力をもった人物によるセクハラ行為疑惑であった場合、通常、いわゆる「握りつぶし」が行われ、日本の「伊藤詩織さん」のケースのように、その権力をフル動員した事件抹殺が行われるのが常であることです。

ところがです。韓国のこのケースの場合、その権力者の側が自ら命を絶ってしまったのですから、そういう意味では、実に異色で並の事件ではない。そこが私の想像が色めき立たされるところなのです。

そこでその「異色」をもたらした要因が何かを想うのですが、このケースでは、その市長が革新系で、しかも女性の権利擁護者である、「自称フェミニスト」であったことは注目する必要があります。つまり、その彼が、もし保守系で、しかも権力を笠に着るような俗物であった場合、ほぼ間違いなく、上記のごとき、よくある抹殺ケースの別例となっていたでしょう。

つまり、彼が、信念をかけて、そうした赤裸々な人権抑圧とは逆の立場に立とうとするような人物であり、しかも、通俗的ではない一種進んだ男女関係の醸成が進みそうなお膳立てを受け止めていた場合、それが韓国的風土とアンビバレントに絡み合いつつ、実に人間味あふれる行為となっていった可能性が想像されます。

私の想像は、そのあたりに、この事件のとんでもなさの核心を置こうとしているのですが、どうでしょう、バエさん。あまりに情念小説的ですかね?

 

韓国からの報道によると、そう聞くと旧態依然な響きがあるのですが、韓国ではある種の自殺を決意の自死として特別視し、それを一種受け入れる風土が、法制度の上でも未だに残っているといいます。つまり、刑事事件の捜査も、その被疑者の自殺があれば、その追及自体がそれで終わってしまう。

日本でもかつて、武士社会の風習が生き残っていた時代までは、自死をもって自らの潔白を証明する――あるいは「罪を晴らす」――という行為は存在していました。おそらくその最後の例は、1945年8月の敗戦前夜の、例えば阿南陸軍大臣の自決でしょう。

ところが昨今の日本の有力政治家には、下級官僚や勤労者を自殺に追い込むことはあっても、自らは、それを利用さえして、自分の罪業を闇に葬り去る事例があまりに多い。

だが、韓国社会では、そうした古式ゆかしい慣習が今なおどこかに残っているようで、しかも、この事件のように、ことに革新系の政治家においてそれが行われたという特徴を持っています。

 

私には、韓国に限らず、信念強固な政治家が自分の誤りを認めざるを得ないところまで追い込まれたような場合、自死やそれに等しい結末をもってそのピリオッドを打つという行為に、ひとつの清廉な――“西洋的合理性”の洗練なぞ受けていない――人間性を見、それが期待される人間観があってもいいとしたいところがあります。

むろん現実ではどす黒い政治的背景もつねに伴うわけですが、この想像談の限りでは、そうした要素はむしろ周囲の雑音としてすっ飛ばしたいところです。むろん、そうした政治的暗部が無視できないからこそ、そうした自死を浄化行為と見せたり受け止めたりする美学めいたトリックも演じられるのでしょうが、ことに韓国では、明白に白黒を付けたいセンチメントが強いような気もします。

そこで、結論を急がせてもらえば、東アジアには、どうやら、そうした究極の行為を特別視する文化がまだ残っているとしたいところですね。

西洋社会からは、このソウル市長のようなケースは、単にミスコミュニケーションあるいは熟達には程遠い未熟な人的ミステークとして放置されるのが落ちでしょう。そうした合理性が機能的に働かない社会、それが東アジアとも断言されてです。

かつてのクリントン大統領と秘書のモニカ・ルインスキーのスキャンダルも、政治的合理性の中で、落ち着くべきところに落ち着かされました。

 

そこであえて東アジア性なるものがあるとするなら、この故ソウル市長を題材にした想像物語では、たとえ地位ある人物であろうとも、男女の間がらでは、それこそ男女対等に、ただのひとりの男になり切ろうとした。そうであるからこそ、その主人公は、いくら韓国でも社会常識的には信じ難い、愚かとすら刻印されかねない行為に意味を与えるため、他のいかなる可能な手段に訴えることもなく、ただ一身をもって受難し、話を決着させた。そういう想像上の物語ということです。

 

日本の「伊藤詩織さん」のケースでも、山口某というメディアのボスも自死に等しく自己始末できれば、男をあげれたのかも知れない。

私はどうも、そうした東アジア人の、しかももはやけっこうな古参として、どうやら、古式ゆかしい話にこだわり過ぎているようです。

それは古いしきたりの名残かに見えますが、ここに著したような想像上のストーリーに基づく限り、醜態をさらしまくり、あくどいまでもの手段に訴える今日の権力者たちより、はるかに上質な、少なくとも恥を知る人間の品性をそこに見ます。

そうですねえバエさん、近松門左衛門風に言えば、その元秘書の女性も自ら命を絶って、今風心中事件にでもなっていれば、まさに絵に描いたような東アジア的情念劇となって、世界のメディアが驚異の眼を注いだに違いありません。

 

 

 

 

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