量子理論が、世界のパラダイムを大きく変えてきていることは、本サイトでも新設別サイトでも繰り返し述べてきています。そうしたパラダイムの《量子化》は、科学に限らずそれを応用するテクノロジーの面でも、現代の変化の最先端を切り開いています。ただ、そうした《量子化》の奔流も、注目の的となっている実用面の一方、理論面では、まだまだ底深い未解明部をも伴っています。
その未解明な課題の筆頭と言うべきものが、量子理論の「解釈問題」と言われているもの――アインシュタインはそれを「spooky(幽霊のようだ)」と呼んだ現象問題――です。現在時点で、それは二つの「解釈」としてその潮流を分けています。その二つとは、「コペンハーゲン解釈」と「エヴァレット解釈」で、後者は「多世界理論」とも呼ばれています。
この二つの「解釈」を、極めて手みじかに要約しておくと、「コペンハーゲン解釈」とは、時期的には初期のもので、量子理論の実効性を優先し、未解明な問題を「考えすぎ」と除外する立場で、ある意味で守旧現実派。他方、「エヴァレット解釈」は後期になっての解釈で、厳密な実験結果が示す従来の知見ではありえない現象(例えば、素粒子があたかも意志をもっているかの振舞い)の発生理由をめぐり、むしろ、これまでの認識の枠組みを問い直し、そうした未解明部を含めて説明しうる解釈を探り、未知な世界――「多世界」と呼ぶ――を理論的に導き出す立場。
さて、ここで当サイト特有の我田引水となるのですが、期せずしてのある一対の類似性に注目します。
すなわち、本サイトの主テーマである「両生論」とこの「多世界理論」とは、なにやら似通った着眼や発想に立ったもの同士であるようなのです。
つまり、自らの人生上の体験と科学上の実験を、共に世界が何たるものかの《検出行為》であることに変わりないとして同等視、つまり「重ね合う」視点をとると、そこに共に発見されることがあるとするものです。
それは、どうやら社会や世界そして宇宙の最も奥底にあるものは、従来言われてきたような「普遍的」とされる唯一絶対の真理――ましてや神的存在など――ではなく、むしろ、そう見てきた自分たちの持つ認識に、何らかの偏りや独断があって、そうした限りの部分的あるいは局所的なものであった――従って、別の見方の可能性がある――のではないか、と言うものです。
よって、そこに共に帰結として導かれることは、揺るぎなかったはずの従来の基準や慣習への懐疑や見直しと、その検証のための“越境行為”――旧習へのチャレンジ――から得られる新たな認識やその理論化の必要です。
そうした視野で、たとえば、このところの世界を見渡すと、「男優女劣」あるいは「人種差別」など――いずれも人が人を喰いものにする――、旧来の世界観の暴力性発露のもろもろや、それゆえに、勇気を振り絞った、あるいは、怒りに火のついた、受難者の立ち上がりの事例が、もう絶えることなく連続しているかの状況があります。
そこで、そうした世界観を許すその思念上の拠り所について、この「普遍視」が故にかと、その起因に気付かされるところです。
そして、違法どころか、非人道的で醜悪ですらあるそうした行いは、人間文明が一種の臨界状況に達しているかのごとき感慨すら抱かされます。