本章を読んで、私は改めて、量子理論に潜む、その隔世的なダイナミズムを見出しています。量子理論の可能性については、私の理解できる範囲ではこれまでにも述べてきましたが、それはどこか、突っ込み不足感は拭えないものでした。しかし、ここで改めて、その着眼については誤ってはいなかったと、自信を新たにしているところです。
そうした至らなさをカバーするだけでなく、そうした独自の視点を支援をもするように、本章は、極めて大胆に、現行科学への対抗言説も含め、その未来性を展開してくれています。
私の視野の限りでは、これだけ集約できたものは、本書の右に出るものはないと思います。
ことに、私が「死という通過点」とか「越境問題」とかと題して取り上げてきた、自分の身体的死の後の自分の非物体的存在について、それにまつわる所説は、やはりどこか、宗教臭い伝統的な発想を抜け切らないところがあり、ある種の不満を抱かざるをえないものでありました。
そういうもの足らぬ認識を、本章の議論は、量子理論のダイナミックな解釈を通して、みごとに突破してくれています。
私が別の機会で述べている「氣Qui」の視点も、「東西の融合」も、そういう議論をもってすれば、実にすんなりと飲み込める地点へと到達させてくれます。
そういう視点から、私は本章を前回訳読の「キセル読み」後の、次の筆頭にあげるべき必須部として、ここに採り上げました。
ただ、表記のタイトルにしたように、原書の「Übermind(ウーバーマインド)」については、その本意がくめないところがあります。いまのところ、そのÜberはドイツ語のoverであるのは確かで、Übermindを邦訳すれば「至高精神」とでもなりましょうか。今後、他の章も訳読が進んで行けば、それに応じて、その真意は明らかになってくるでしょう。
なお、この章で、著者が議論のひとつの焦点としている「百匹目の猿」という現象については、私の知見の限りでは、それは科学的事実ではないとの見解が一般的であるようです。ウィキペディアでは、「生物学者のライアル・ワトソンが創作した架空の物語」と解説しており、また、その現象の発祥地日本でも、九州の野生サルを調査していた研究者の間で、そのような「閾値」現象は見られていないとしています。
確かに、それが文字や交信技術なぞまったく持たぬサルの間に生じていたとなれば驚くべき現象で、大いに興味は引かされます。しかし取り上げられたこの現象に関する事実認識については上記引用のごとくで、本書の議論への傍証としてのこの話は、著者に至るニューサイエンス的立場を取る研究者たちの“確信犯行為”というところにはなりそうです。しかし、そうとしても、それはサルを題材とした場合の話です。
しかし本書の議論は、極めて多彩かつ複雑なコミュニケーション手段を発達させた、人間についてです。そこにおいては、むしろ、野生サルの話は、たとえ事実であったとしても、動物実験的傍証の域を越えるものではありません。
そこで、著者の議論の焦点である、「ウーバーマインド」とか、意識に先駆ける「アストラル」な意志の働きの重要性については、傍証されるそうした従来の科学的論証には限定されぬ、むしろ、科学そのものの概念を修正する新規な論点に根拠を定めての議論です。
そういう意味で、本章で展開されている量子理論上の開拓こそ、本書の主張の根幹になっているものです。
では、本訳読の第4回へ、ご案内いたします。
追記ですが、8月13日に『フィラース』上にアップした記事「量子的人間観」は、この本書で展開されている、いわゆるニューサイエンス的領域の知見に力を得ての成果です。両記事を合わせて読んでいただければ幸いです。