感激と落胆

アンナプルナ・トレッキング(その3)

ベースキャンプに無事到着

【第7日】デウラリ(Deurali 3200m)からアンナプルナ・ベースキャンプ(ABC 4200m)

この日の行程は、いよいよ大詰めの標高差千メートルの登り。高度もあって確かにきついのだが、天気もこの上なく、思わず風景に誘われて足取りも軽くなる。

 

日も西に傾くころABCに到着。眼前にアンナプルナ南峰の山肌が迫って圧倒される。

ついにやってきたアンナプルナベースキャンプ(ABC)は、先にも述べたが巨大なお椀の底である。そのお椀の直径はおよそ20キロメートル、その縁までの高さは2、3千メートル。まさにぐるりと岩と氷の壁で取り囲まれた奥ふところである。

そんな地形のため、そこにたどり着いた印象は、展望のきく山頂や峠のような解放感とは異なり、どこか閉じ込められたような圧迫感がある。

もし自分がクライマーなら、その圧迫感をむしろバネとしてアタック心を奮い立たせるのだろうが、むろんそんな筋合いどころではない。

また、午後ともなればその峰々は雲に隠されてしまうはずなのだが、このお椀の底からでは、午後になってもほぼその全貌を見渡すことができる。その峰々の連なりが雲の侵入を防ぐ壁となっているのだ。まさに山ふところの内側からの秘められた光景でもある。

ただ、そこが前進基地であるだけに避けられないのか、なにやら工事現場のような雑然さをかもしている。行ったことはないが、エベレストのベースキャンプも同様な有様であるフィルムをみたことがある。南極基地もそんな感じがある。ただし、このABCで、しかもトレッキングシーズンの真っ只中となれば、そこは基地というより、むしろ景勝地の一種と化している。たとえ一般向きではないとしても。

 

地球温暖化の爪痕

こうしてたどりついたベースキャンプだったが、そこで目にした光景に思わず暗澹とさせられた。

そこには、あるはずの氷河が何キロにもわたって消滅しており、しかもそれが短期に生じた証拠に、氷河の運んできたデブリが氷河末端に達してそこにモレーンを形成せず、河床にそのまま残されて谷を埋めていた。

氷の消えた氷河の底を埋めたデブリの山々。

 

【第8日から第10日】

帰路は、ほどんど往路を引き返す道だ。しかし、たまたま同行することとなった英国人の二人の女性の一人が足をくじき、馬を使って下山することとなった。こちらも、その下山の無事を見守るため、最後の部分をショートカットして、全日程を10日に縮めた。つまり、往路7日、帰路3日である。

 

 

高齢トレッカー

今回のトレッキングは、コロナのため過去3年間の空白後の試みであり、その間のブランクが大いに気掛かりとなっての挑戦だった。

それが、そのしょっぱなから、その不安が現実化した。まず、悪路を行くバスでのギックリ腰、次に、歩き始めるやいなや、山靴のスポンジ部の硬化から、ソールが完全に剥がれだすという二重の予期せぬ災難にみまわれた。

それが、後に書くように、二人の実に親切なガイドに助けられ、山靴の応急修理や毎日の腰のマッサージなど、この二つの災難の克服の突破の糸口を作ってくれた

 

私なぞとの見るからな老人が頑張って歩いているのは、どうやら目につくらしい。そこで、長い行程上、先になったり後になったりして顔見知りとなり、やがてお互いに声を掛け合うようになっていった。

かくして、多くの人たちから、どことなしか、いたわりというか敬意というか、そんなミックスした対応をうけることとなり、それはそれで歩く励みとなった。

むろん、年寄りは私ばかりでなく、ことにヨーロッパからの参加者には、少なくない同年配者かと見受けられる人たちがいた。

ことに、スウェーデン人のご夫妻とは、ロッジで親しく会話を交わすようになった。76歳の夫と77歳の妻という。たがいに同い年と意気投合して、誕生日を尋ねると彼は6月だから、2カ月の年上だと言って胸をはっていた。彼は医師だという。

 

そういう次第で、初日の不安はしだいに解消し、やがては、けっこうやれるではないかと、自信めいたものに変化していった。

帰路でも、故障もおこさずに順調に下山でき、じつに爽快な達成感を得ることができたのだった。

細かい点だが、今回はじめて、バランスが悪くなってきた危険対策として、二本ステッキを使った。それも私の場合、I型のグリップの先端を(棒を握るようにではなく)手の平でくるんで握る方法をとり、しかも、ステッキの長さをやや短めにして後方に押し出すようにして使い、推力の補助をはかった。そうすると、登りの際、弱まった足の筋力を両腕の力で補う事ができ、全体のパワーを補助できたように思う。ただ、一日の登りを終えると、やはり、使った腕力のため、けっこう肩こりがした。だがこれも、毎日、ガイドがマッサージをしてくれたので、翌日まで持ち越すようなことはなかった。

 

ヒマラヤ山中の“社交場”

世界に名高いネパールのヒマラヤは、ともあれ、人気がある。それをそれぞれの流儀で歩く人々なのだが、その面々は文字通り世界各地からやってきている。そういう各自が、道中の休憩中や、一日の苦行を終えての夕方の団らんの際、思い思いの会話をやりとりすることとなる。

私がことに印象付けられたのは、こうしたヒマラヤトレッキングという、言わばちょっと並の人では取っつけない楽しみに魅せられいる人たちには、ざっくりと言って、知的職業の人たちが多い。それらは、医師、弁護士、教授、会社役職者、公的機関管理者などなど、ちょっと驚かされる面々である。

そこで私などへそ曲がりは、ヒマラヤを「エリートのテーマパーク」などと皮肉ってみたくもなる。すなわち、一定の暇と、金と、そしてそれだけの意欲を持ち合わせるという条件のそろった人たちが、彼らということなのだ。都会の本物のテーマパークやら、大衆化したクルーズ船なぞにはさほどの興味は持たず、それよりもっと健康充足に旺盛な人たちなのである。

2022年10月14日早朝、プーンヒル(3193m)頂上にて

ただし、そういう人たちであっても、それが数百人と主だったスポットに集中してみるや、それはまた、実に異様な光景となる。3千メートルを越える山頂で、数百人のパーティーが開かれているかのごときその様相は、どう見ても、周囲の神々しいほどの自然景観に対比して、まるで場違いそのものなのだ。私なぞは、やはり大自然は、一人静かに接したい趣味の方である。そこで出来上がったのが、別掲の記事となる。

 

天井世界の地下世界

今回のトレッキングは、むろん、ガイドやポーターの助力なしでは成し得ない。つまり、彼らは自分たちの同伴者なのであって、決して下男や召使ではない。

そこで、トレッキングを始めるにあたり、カトマンズやポカラの町で、何十軒とも数えられるツアー代理店のいくつかに当たってみて、その相場を下調べした。結果、おおむね、ガイドの日当が25(米)ドルほど、ポーターは15ドル前後というところがわかった。ただし、彼らがコミッションとしてどれ程取っているかは分からない。

そしてポカラの町で、宿泊したホテルが営んでいる代理店で、いよいよ話をまとめることとなった。ところがなんと、ガイドが35ドル、ポーターが20ドルという吹っ掛けである。いくらコロナ禍からの挽回に必死とはいえ、それはやり過ぎだろう。

そこでまず、信頼できるポーター兼ガイドを二名選んでくれと頼み、彼らと面接することにした。翌日、ホテルに出向いてきた彼らに会って見たところ、誠実で信頼できそうな若者たちで、彼らを雇うことに決める。

かくして、この二人のガイドの実収入としていかに多くを手渡せるかの作戦が始まることとなった。

ここにその詳細を記してはみたいのだが、それはなかなか微妙な情報で、当然、その出所として当人たちに迷惑が及ぶ恐れがある。当方としての趣旨は、下記のように、実によく働いてくれた彼らの実名と連絡先を明らかにして、今後の彼らの仕事に協力したいことである。不要な摩擦は避けておきたい。

ともあれ、結果として彼らの日当は一人25ドルとし、その実質額を彼らに支払った。

こうしてトレッキングは始まり、二人のガイドと私たちの関係が発展してゆくこととなった。

私は、自分の年齢がゆえの弱点、ことにふとした時のバランスの崩れがあると告げておいた。すると、彼らは、私に付かず離れずの距離を保ち、ちょっとぐらりとすると、すかさずそっと手が伸びてきて支えてくれる。

また、山靴の問題では、心配はないからと毎日のようにその修理に当たってくれた。あるいは、私のギックリ腰には、毎夕、たっぷりとマッサージをしてくれて、数日もすると、もうほとんど痛みも伴わなくなっていた。

道中、彼らは、7年間ガイドをしてきたが、こんなふうに扱われたことは初めてと話してくれた。

そういう彼らとは、Abi(+977 9749433098)とDil(+977 9806573499)である。もし、アンナプルナ地域でガイドが必要な時、彼らに直接連絡(ただし英語)をとってみることをお勧めしたい。

 

 

 

 

 

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