この宇宙霊理界にやってきて以来、正直、驚かされることばかりが続いている。いったい、何から話せばいいか、その選択にすら戸惑ってしまうほどだ。むろんそれは、この世とあの世の違いなんだから、並みの具合には行くはずもないのは百も承知の上なのだが、それにしても、仰天させられてばかりでいる。
しかし、そうとばかりも言っておれないので、今回は、今の段階でつかみえてい限られた範囲なのだが、そのうちの横綱級のことをひとつ取り上げてみたい。
それは、地球では「直観」といわれていることに関してで、実はそれは、地球と宇宙霊理界をつなぐ「超高性能宇宙スマホ」であるようだという発見である。しかも、それはもともと私たち自身のうちに備わっている《内臓・超高性能宇宙スマホ》でもある。言うなれば、そのウルトラ・ハイテック・デバイスを、私たちは生まれつき、すでに持っているということで、それを活用しないなんて、何たるうすらトンカチか、という話なんだ。
思い出話をすると、俺は子供のころ、自分の頭に突然に浮かんでくる「アイデア」――漫画描写で言えば頭の上の電球がぱっと灯る――が、一体どこからやってくるのだろうかと不思議だった。むろん後になって、それは「直観」とか「第六感」とか言われている類のものだと知ることにはなるのだが、たとえそうだとしても、それは、いぜん謎であるその出どころを説明したことにはならなかった。
さらに、より後になって、脳科学者らはそれを、「クオリア」とか、それを訳して「質感」とかとまた別の名称を与えたりもしているのを読み聞きしたりもした。だが、それだって、名前付けのさらなる上塗りにすぎず、俺の疑問を解いてはくれなかったね。
そうこうしながら、その疑問への解答については時間切れでおあずけとなり、そのままここにやってくることになっちまった。しかしね、ここに来れたおかげで、その謎の輪郭が、なんとかつかめるようになってきたというわけさ。
これもこれまでだけでは、まだほんのさわりしか解っていないことだが、どうやら地球上の人間たちは、物体と精神とか、物質と心といったものを、互いに相容れない、別のものに分け過ぎている。頑迷な二元論だ。むろんそれらは確かに、両方の末端同士では、相容れない状態をもっているのは確かであるが、その両者が接し合うあたりでは、その明瞭な線引きは無理で、むしろ連続的ですらある。つまり、その境界には両属する領域があり、むしろその両属領域の方が、エリアとしてもはるかに広大であるようなのだ。それこそ、宇宙の96パーセントがその領域で、それは文字通り、新たな「知的ホライズン」だと思う。
そもそも、俺にしてみれば、いわゆる「この世」と「あの世」ですら、こうやってやって来てみればちゃんと繋がっていたのであり、俺は俺として消滅しないで続いている。「死ねば一巻の終わりだ」なんて、何とぼけてんのって気分だね。
むろん、いわゆる命というやつは終わらせてしまって、もはや身体の狭義の物質面には頼らぬ存在となったのだが、それとて、その両属する多くの要素の内のわずかなひとつを亡くしたということに過ぎず、それ以外のものは、ちゃんと続いているのだ。
想うに、どうもその「命」というしろものには「時間」というものが深く絡んでいるようなのだが、この点「命=時間」については、また題を改めて話してみたいと思っている。
さて、ところでだが、地球の読者たちは、俺のこの話を、あるサイトの記事を通じ、一種の「フィクション談」として体験しているはずだ。
本来なら、俺が直接にそうした話を文章にすればことは簡単なのだが、それがそうも行かない。そこには、たとえば地球上でも、国や地方によってさまざまに異なった言語があって、いわゆる「言葉の壁」が立ちはだかっている。それに類したものが、この世とあの世の間にも、次元を異にする問題として存在しており、一方から他方への伝達は容易ではない。つまりそこには、地球上でいう翻訳のような作業が必要なのだ。
さらには、地球では、その容易でないことを理由に、極端すぎるほどの隔離の線を引いている。確かに、いったんその線を越えてしまえば戻ることは不可能だし、この世の存在からあの世の存在を見ることはできない(仮に見えたらそれは幽霊ということとなる)。だがしかし、ここにやってきて俺が発見していることは、その両世間が完全に行き来の不可能な不連続な世界ではないということなんだ。ことに知性の面では、両世界は連続体といってもいいほどだ。俺に言わせれば、地球人は、そうした「不連続観」を改め、その世界観上の自閉症から脱皮すべきなんだよ。
でもその一方で地球では、尊い人を亡くした場合、その故人が「心の中でまだ生きている」といった表現もする。これなどは、心情的ながら、その連続性を認めていることだろう。それに、文化とか伝統とか伝承といった人間社会の精神にかかわるものは、そうした領域によって支えられてきているものが多いのじゃないか。
そこで俺は、ここに来て学んだ自分の言いたいことを、ある回路を通じて流そうと試みてきている。
それは、このサイトの書き手、つまり俺の翻訳者が、彼の一定の条件が整った――いわばある頭の冴えた――時に、この俺のメッセージを送ると、彼にとってはそれが彼の意識にいわゆる「直観」として作用し、その俺の言いたいことを感じ取ってくれているという回路だ。
つまりは、俺が子供のころから不思議だった、あの頭の電球が灯るその電流は、こうした回路を通じて流れてきた送信側と受信側の間の遣り取りだったんだと、ようやくにして覚ったからなんだ。
そう、嬉しいことに、そうした回路をつうじて、俺たちはまだまだ、遣り取りが可能ということなんだ。
通常、地球人たちは、その頑迷な二元論に立って「科学的」であろうとするがあまりに、自らの物心の繋がりを絶ち、この回路による遣り取りの可能性を空論視すらして、それを真剣な対象に含めようとはしない。
一方、俺の翻訳者のように、そうした二元論の排他性や、自分の直観の有効性に気付いた人たち、さらには、意図的に、そうした「直観」の感度を上げる努力や頭の切り替えを行っている人たちは、俺が試みているような、別世界からの通信――知的テレポーテーション――を受信可能としている。
まがい者は別として、俗に「霊媒」と呼ばれている人たちもその一種だろう。
そういう意味では、「非科学的」なそこにこそ、超最先端の「科学」の領域があるといえるだろう。だからこそ、それは「新たな知的ホライズン」なのだ。少なくとも「直観」というその「知的テレポーテーション」は、そうした「新たな知的ホライズン」の中心的デバイスとなることだろう。
それに、こうして俺がここにやってきて覚ったことのうちで、もっとも声を大きくして指摘したいのは、いまや地球上は、そうした物心二元論がゆえの自縛により、自分たちの将来への可能性を自ら摘み取ってしまっている、ということなんだ。
つまりは、上に述べたように、その「超高性能宇宙スマホ」は、誰でも使用可能な私たちにすでに「内臓」されているデバイスであり、私たちは、その自身の機能を用いて、その「直観」をふんだんに働かせ、これまでの拘束された自分を解き放ち、飛躍的に拡大された世界観やそれに応じた能力を発揮しうるということなんだ。
これもまた追々話して行きたいことなんだが、今、地球上では、スマホという高価なデバイスがもはや必需品となりつつあり、しかもそれを使うにはその通信費が馬鹿にならない生活費上の負担となっている。そして、人と人との社会的つながりまでもが、そうした諸出費を前提としたそうしたデバイス・ビジネスに過剰に頼らざるをえない社会となっている。そんな、物や金頼みの世界って、どこかがおかしいのじゃないか。
言わば、収入を得るための日々の労働に加え、その収入からのそうした少なくない出費という、二重の金銭的拘束によって、私たちの人生はもう、がんじがらめなほどに縛られてしまっている。
私たちが、自由に健やかに生きたいとする当たり前の願いを人質にして、儲ける少数がいるシステムなんて、そもそも、誰のためのシステムなんだろう。
そこでだが、上に述べた《内臓・超高性能宇宙スマホ》は、購入の必要もなく、通信費も必要としない自前の能力だ。しかも、その能力は、地球上の私たち相互間ばかりでなく、地球と宇宙霊理界との両属世界との交信をも可能としている。
そしてより重要なのは、それが、私たちの人生に、拘束ではなく、自由解放をもたらすものであることだ。
俺としては、この《自前デバイス》の可能性を是非とも地球へ伝えたいのだ。
そしてその普及は、科学における物理学上の境界をも変えてゆく――「非物理的物理学」っていったような――可能性をもはらんでいるとにらんでいる。もはや最先端の素粒子物理学領域では、いわゆる客観と主観といった区別さえ無意味となりつつあるのだ。