本書へのイントロ(その2)
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「オッカムの剃刀」〔訳注〕という思考法は、ウィリアム・オブ・オッカム(14世紀の英国の論理学者、神学者、フランシスコ会修道士)によれば、それは彼のはるか以前よりとなえられていたという。だが、オッカムの言葉とされるそれは、現存の文書には残されていないが、「命題は、必要以上の多要素をもってはならない」というものである。この哲学および科学上の原則は、基本的には、二者から選ぶ際、最も単純なものか、それのもつ仮定の最も少ないものが、最も正確な選択である可能性が高い、とのものである。この「オッカムの剃刀」によれば、他の要素が同等なら、ただ、説明が簡単であればあるほど、それはいっそう真実性が高い。
〔訳注〕オッカムの剃刀とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針。オッカムが多用したことで有名になった。20世紀にはその妥当性を巡って科学界で議論が生じた。「剃刀」という言葉は、説明に不要な存在を切り落とすことを比喩しており、そのためオッカムの剃刀は思考節約の原理や思考節約の法則、思考経済の法則とも呼ばれる。またケチの原理と呼ばれることもある。(ウィキペディアより)
この原則は、エソテリックな考察に適用した場合、少し考えるだけでも、おそろしく不適切であることが解る。というのは、実際上、この原則は一般に、論争における証明負担を減らすことに焦点を当てている。言い換えれば、そこでの「剃刀」とは、単純化が説明力を増しているかぎり、より単純な説明に向かうべきであると示唆する原則である。逆に言えば、多義多様な説明が可能であるケースでは、可能なかぎり単純にしたとしても正確さが増しているわけではない。従って、「オッカムの剃刀」は当たり前な議論に使われるはずもなく、むろん、エソテリックな知識の分野でも然りである。批判者によると、「オッカムの剃刀」はあまりにも頻繁に反駁されているという。しばしばその用途は、それ以上の精査を否定することにあり、「対抗言説」に対する反論としてもよく使われている。哲学者はさらに、最も単純な説明のなす的確な意味が、なによりも深いニュアンスを表しうるとする。バートランド・ラッセルは、「オッカムの剃刀の一法」と呼んでこう提案した。「可能な限り、既知の命題にもとづく解釈を未知の命題への推論とせよ」。
「オッカムの剃刀」は、あることが表面上で生じていながら、他の何かがその下に隠されている場合、その謎解きには役立たない。その例が、CIAがプロパガンダを広めるためにジャーナリストたちを雇った、「ものまね鳥作戦」である。1948年、CIA工作員のフランク・ウィズナーは、アメリカ国内のメディアに影響を駆使する計画として、CIAのスパイおよび反諜報活動の部門として「ものまね鳥」を設立した。そしてウィスナーは、1950年代初めまでに、ニューヨークタイムズ、ニューズウィーク、CBS、その他の通信社で尊敬を集めている人々を秘密裏に「所有」した。 CIAの「ものまね鳥作戦」の途方もない触手は、今日までも、容易には信じられない規模で私たちの認識に枠をはめ操作する任務を遂行してきている。この場合、〔「オッカムの剃刀」が言う〕最も簡単な説明とは、ジャーナリストたちは自ら真実と信じることを報道していた、となる。しかしその背後にある事実はまったく異なっている。「オッカムの剃刀」はこのケースでも当てはまると言いはる者はいるだろうが、批判者はそれには同意しない。もしそれが当てはまるとされるなら、それはまるで「オッカムの剃刀」の悪循環におちいっているかの如くである。私たちは、ある事がいったん真実とされると、それは実際には完璧な意味として適用しがちである。しかし、実際にはそこには裏面がある。そして、特定のトピックをさらに深く掘り下げていくと、表面上は恐ろしく思えた真実に、やがて元の話のからくりが見えてくるようになる。それが、現実というものの性質でもある。公式発表や科学的物質主義に基づく現実性は、不完全なものである。そのベールの背後に存在する本当の現実は信じられないように見えるものだが、それも、人々がそれをより良く理解し始めるまでの話にすぎない。
「オッカムの剃刀」への秀でた挑戦のもうひとつの例は、いわゆる「やらせ作戦」〔をあばく場合〕である。よく知られ、歴史的に受け入れられてきているその見解の一例は、ヒトラーのポーランド侵略である。表面的に作り上げられた話は、ナチス政府がテロに応じたということだが、実際は、侵略のための口実を作るために、すべてが計画されたものであった。さらに、ゴッドウィンの法則と言われる「オンラインの議論が長くなるにつれて、ナチスやヒトラーへの類似性を引き合いに出すことが増える」との見方があるが、今日の批判者はこの法則に訴える人を認めないだろう。あるいは、米国のイラク侵攻のための鳴り物入りのプロパガンダも、もう一つの例と言えよう。当初、誰もそれを陰謀だとは見なせなかった。米国が侵攻を導いた公式の理由は、サダムのイラクには隠された大量破壊兵器が存在し、自由な世界への脅威があるというものだった。「オッカムの剃刀」によれば、これが正解である可能性が高いということとなる。だが今や私たちは誰も、それが真実ではなかったことを知っている。そして実際に、同戦争に批判的だった人たちは、どんな教科書的定義をもってしても、この説明を陰謀と見なすだろう。
多くの人たちは、陰謀(利己的で破壊的な目標を持つ秘密計画)が実際に存在し、それが今までに頻繁に実行されてきたことを知っている。しかし、世界で起こっていることのどれが陰謀であり、どれほどが不明のままなのかは分かっていない。結局のところ、私たち与にえられた公式発表の中に、真実の何らかの断片でも見つけることは、大きな挑戦となる。したがって、そこから情報を調べるあげることは、異例なことと映ろうとも、私たちの研究があくまでも真実の探求である限り、崇高な追求そのものである。
ところで、本書がさらに争点の多い主題におよんだ場合のために、ある種の免責を表明しておく必要がある。そうした主題の中には、読者の多数に完璧な意味を与えるものもあれば、逆に、奇異に見えるものもある。従って繰り返しておくべきことは、それらがエソテリックな主題であり、誰もが信じられる類のものではないことである。最終的には、たとえ研究しつくされた情報をもってしても、自身の信念体系が脅かされたくない人たちを確信をもって説得することは事実上不可能である。メッセージは常に至るべきところに落ち着くものであり、まさしくそれが、たどるべき道なのだろう。聞く耳、見る目、理解すべき心がある人こそが、そのメッセージを理解するだろう。植えられた種は、そうした数少ない肥沃な土壌で、力強く育つことだろう。
触媒作用は信じられているようには働かない。それは、現実について、知っているとあなたが「考えている」ことに、あなた自身が挑戦する時にのみ働く。それが触媒作用の意味するすべてである。本書が採り上げる主題を探究するためには、「オッカムの剃刀」であろうと、誰かの論理であろうと、誰からの影響も受けぬ研究を採用し、かつ、物事が実際には見える通りではないという考えにオープンな心を維持するところにのみ進展があるだろう。知恵はあらゆるレベルの存在に見いだされることを忘れないでいよう。それは常に、壊れた何かを繕うことではない。おそらく、初めからやり直して、より良いものを創ってゆくことなのだろう。
目で何かを見ることができないという理由だけでは、それが存在しないという証明にはならない。例えば、人間は電磁波スペクトルの約0.0035パーセントしか知覚することができない。残りの99.99パーセントで何が起こっているかを想像してみよう。何かを見ることができないことは、人々が色々なもの――霊媒、故人、あるいは他の不可視な人生の守護者――の存在を否定する一般的な理由である。しかし、そのような存在に遭遇した人は誰でも、私たちの息が寒い時以外は見えなくても確かに存在していることを証明できるように、本当にその存在の事実を証言することは可能である。風も存在しているが、私たちはそれを見ることはできない。だが、私たちは、それを肌に感じ、それが木々の葉を通って動く音を聞いている。私たちの周りに、そして私たちの中に、私たちが目で見ることができないものがあるが、それらは私たちの足下の地面と同じように真実の存在である。
私たちは、心が脳の内部に位置していると信じて育てられてきた。そして思考は、単なる認知活動とされてきた。しかし、ルパート・シェルドレイク博士によると、この見解はあまりに限られたものとする明らかな理由がある。最近の実験結果は、たとえ人の背後から見、かつ、あらゆる感覚的手がかりがなくても、遠くの他人に影響を与えることができることを示している。同博士のもう一つの珍しい発見は、人間の意図が何キロも離れた動物によって感知されることである。ビデオに録画されたペットの犬は、オーナーが家に帰ることを決めた瞬間にある反応を見せる。動物が、仲間を感じたり、捕食・被捕食関係――被捕食動物は捕食動物のえさとなる――によってその一団が見られていることに気付く能力は、餌食になることから逃れ、その動物を長生きさせ繁殖させている。テレパシーは動物群の間では自然なことである。多数の事例を伴う厳密な研究は、こうした能力が多くの人間にも存在していることを実証している。誰もが、こうした潜在能力を開発することは可能である。それは単にトレーニングと動機づけの問題である。
私たちの心は、脳や体の境界以上におよぶ。心は身体から放出されるという既成の視点ではなく、実際は、身体が心の放出(実質的には投影)であることを示唆する信頼できるデータがある。人間にとって、最もよく起こるタイプの心の非局部的相互作用は、電話をかける際に関連して生じる。ほとんどの人は、電話がかかってくる直前にそれが誰からかを考える経験をしている。そうした電話テレパシーに関する制御された無作為試験は、非常に有意な結果を示している。テレパシーについての新しいテスト方法では、距離は無影響である。市内通話と国際通話との違いはない。その結果は、慣れ親しんだ発信者の方が高い的中率を示す。研究技術は現在自動化されており、電子メールと携帯電話を使用してインターネットを介してテレパシーの実験が行われている。これらの技術は、何千もの被験者、特に大学生の参加を、可能としている。母親と新生児もまた、テレパシーの一形態を交わしている。赤ちゃんが母親を必要としている時、母親は、離れた所にいて赤ちゃんの泣き声が聞こえなくとも、「うずき」感を覚える。
身体現象のより完全な理解は、全体としての存在の探究への道を開き、これまでは宗教やその関連の思考の一種とされていた非身体的な領域をも含めつつある。私たちのまわりの――近代科学が私たちに信じさせてきたような――物質世界は、それが存在の全体ではないことは明らかである。それはもっと大きな全体のほんの一部――おそらく極めて小さな部分――に過ぎない。
他者を断定したり絶対的真実を主張する以前に、あなたが電磁波スペクトルの1パーセント以下しか見えず、音響波スペクトルの1パーセント以下しか聞こえないことを考えてみよう。また、これを読んでいる瞬間、あなたは銀河の中で秒速220キロメートルで動いている。あるいは、あなたの体内の細胞の90パーセントは独自の微生物DNAを持ち、それらは「あなた」ですらない。あなたの体内の原子の99.99999999999999999パーセントは空のスペースで、そのいずれも、あなたと共に生まれたものはなく、星の深部で発生したものである。人間は46の染色体を持っているが、普通のジャガイモよりも2つ少ない。
虹の存在は、あなたの目の中の円錐形の受光体に依っている。つまり、この視覚円錐のない動物には、虹は存在しない。ゆえに、ある意味で、私たち一人ひとりは、虹を見るだけではなく、それを作成しているということになる。ことに、その美しい色は、合わせても電磁波スペクトルの1パーセントにもならないことを考えれば、実に驚くべきことである。ギリシア神話ではその虹は、使者イリス〔虹の女神〕によって作られた地球と天国を結ぶ道であると考えられていた。だが、空気中に水滴があり、低い高度の角度で背後から当たる太陽光がある場所であれば、虹を見ることができる。太陽光は、電磁波スペクトル内の可視波長帯で構成〔ママ〕されている。太陽光が成分色に分解されると、赤、黄、オレンジ、緑、青、紫の色が見える。可視光線波は、私たちが実際に見ることができる唯一の電磁波である。私たちはこれらの波を虹の色として見ている。各色は特定の波長を有し、赤は最も長く、紫は最も短い波長である。空気中の水滴は小さなプリズムとして働く。光が入ると、そのプリズムが作用し、その側面に反射して外に出る。異なった水滴の異なった角度は異なった色となり、あなたの目に届き、空に多色の丸い輪が形成され、それを虹として私たちは見ている。
私たちは光を、その波長すなわち波の頂点間の距離、またはその周波数すなわち秒当りの波の数のいずれかをもって説明することができる。可視光線の場合、波長の範囲は、青色光では400ナノ〔10億分の1〕メートルであり、赤色光では700ナノメートルである。私たちの目の網膜がこれらの波長を感知するため可視光線となる。可視光線は電磁波スペクトルのごく一部であり、電磁波には、ガンマ線、X線、紫外線、赤外線、電波なども含まれる。天文学では、観測を目で見えるものに限定する必要はない。検出装置はあらゆる種類の電磁放射線を記録するように作られている。天体は様々な種類の電磁放射線を放出しているが、その大半は地球の大気によって遮断される。通過できない排除物については、地球を回る軌道上で天体情報を収集する衛星天体観測に頼ることになる。地球表面からでは、私たちは本質的に可視光と電波に限られている。
あなたは、70億人のうちのひとりであり、その70億人は8つの惑星のうちのひとつの惑星に存在し、その惑星は1000億個の星座系のひとつの太陽系に存在し、その星座系は1000億個の銀河系のひとつの天の川銀河に存在しているという事実を考えてみよう。この限りでは、あなたは恐ろしいほどに些細な存在でしかない。だがしかし、あなたは、1000億個の銀河のひとつの天の川銀河にある、1000億個の星座系のひとつの太陽系の、8つの惑星のうちの1つの惑星の、70億人のうちのひとりにしかない、あなた独自の遺伝子構成を持っている。あなたの指紋はあなただけのものである。あなたは、あなたの自由意志を養い、あなたの芸術を創造し、あなたの歌を歌うことができる。あなたはあなたを愛している他者と共にあり、あなたは他の誰にも代えられなく重要である。まさしく、あなたは宇宙そのものを体験しているのである。
以上の視点は、私たちを神秘的な、あるいは霊理的な領域に導いてくれる。霊理とは、信念体系やイデオロギーではなく、それが宇宙である無限の知恵と知識という、はるかに膨大かつ包括的なものに、有限である自我が降伏することである。あなたがもの事をことごとく真剣に考え始めるならば、私たちは宇宙の膨大な広がりを飛ぶ低次元宇宙船を操る、話す猿に過ぎないことを覚ることとなる。
量子物理学を学ぶことは、一部の科学者が提起する「元々の原因」――「神」の概念ともとれる「全一性」――を認識することである。そうした科学者たちは、科学的方法に関して一種の壁に行き着いたため、神秘主義者の見解をあおいだ。こうして、客観と主観の双方におよぶ新しい科学が生まれた。そうした量子思考者は、意識には主観も客観もないと仮定し、他の者は、意識や二元性のもとは分離の起源――そこでは、「全一性」あるいは総体性に先立って、客観と主観の「二元」が存在した――にまでさかのぼれると示唆する。
現実の本性については、宗教でも学校でも教えられてはいない。すべての宗教は、同じ質問について違った答えをする。私たちの身体の微妙な多面性とその非共有性は、それを内部化する。私たちは、心を物のように計ることはできず、どの宗教にも共通するような上向きや下向きの因果応報も持たず、また、霊理の真の本性についても測定することはできない。
しかし、それらのすべてをあつかう科学はあるのだろうか。多くの科学者はそれがあると確信し、「意識とは何か」といった難問に挑んでいる。科学はもともと、物的意識に基づき、脳内のどこでどのように認知過程が起こるのかを〔その視点で〕特定することに取り組んできている。しかし、意識は物質ではないと結論づける人もおり、意識が存在の根拠と見る。従って、私たちは、意識とは何なのかとの問いに戻ることとなる。もし意識が物質でないなら、科学はそれを研究する手法を持っているのだろうか。物理学者は量子測定の限界――可能性に基づく確率の無数のパラドックス――をすでに認めている。そうしてより主観的な領域にシフトすると、意識の最も重要な経験は我と呼ばれ、そこにおいて、その微妙な領域への転換の可能性が生まれうる。そうして、全体性とのつながりが生じる。
唯我論は、我々が直接に知覚するものが唯一の現実であると考えることを盲信しがちであることを示しており、それが高じれば、想像力の幻想や虚像をもたらす。しかし、現実を作り出すのは意識である。おそらく、「統合意識」――非局所的観点からなされた選択――と結びついた後の意識が、全体を包含する。量子物理学における非局所性は、時空の超越を意味する。瞑想したり非局所的に交信している2人の人は、実際に脳内で電気的活動をしているが、目に見える信号は発していない。だが彼らの意図を通じて、彼らは非局所的につながっている。このような実験は過去10年間に繰り返されており、ルパート・シェルドレークの結論と同様に、測定可能な接続がなくても2人の人が離れて交信することができることから、意識は非局所的であるという結論に達している。
読者は、本書を読み進むにつて、その内容が、私たちの物理的世界をつかさどるエソテリックな力の存在を前提にしていることを認識することだろう。読者が、宗教的で霊魂的な人でも、専門家でもアマチュアな科学者でも、ただ興味本位であるだけでも、そうした誰もが、目に見えない力についての多くの説を認識しうることであろう。 確かにそれが何であるかを正確に証明することは困難だが、本シリーズの研究では、それに肯定的または否定的な見解を持つ選択肢があることを示唆している。
あなたはそれを信じたくないかもしれませんが、支配エリートはオカルト儀式を致命的な真剣さで取り組んでいる。そして、彼らは私たちが知らないものを知っている可能性が高い。 この可能性について心を開いているだけで、実際に見たり、聞いたり、嗅ぐことができたり、味わったり、触ったり感知したりすることができるようになる。現在の科学は、見ることとは可視光線スペクトルが明らかにしているものだけを示している。これは理論的には全エネルギースペクトル内で見ることができる最も小さな割合にすぎない。どんな気付きであっても、それは、不可能よりも可能が多いという希望ある認識のひとつである。
本書の副題のように、私たちの目標は「私たちの感覚を超えて」見ていくことである。体内と体外をめぐる条件付けがその微妙な身体(私たちに不可視な「エネルギー体」)を形成している。私たちは物質的な条件を超えてどのように発達しうるのか。そこではまず、心を意図的に駆使し、選択をもって現実化を追求してゆく。私たちがそうして非局所的意識におよんでゆく時、私たちはより大きな現実に同期しえて、その意図が実現される可能性がある。これはしばしば私たちが「これだ」と気付く瞬間であり、疑問を抱きもっと学ぶようなの確信へとつながってゆく。
人生におけるこうした情熱を伴う領域にアプローチする時、ここ地球上に天国すら出現しうる。おそらく意識とは、私たちを神の完璧な気付きへと到達させる道であり、すべての人生の源であり、それゆえに、私たち誰もがつながってゆく動機となる。物質的な世界観は、こうした気付きから私たちを引き離す。 団結意識は、自然界を守るための結びつきと願いである。私たちが愛をもって近づくと、人はそれを受け止める。私たちは自分自身、つまり私たちの姿勢を変えることができ、それを打ち出すことで、同時に世界を変えることができる。これが量子思考者の理論である。分離性を取り除くことで、自分自身や宇宙との相互関係をより深く理解することができる。そして、私たちは、すべての物質が低振動に凝縮されたエネルギーであることを認識するようになる。私たちはすべて、自覚的に自分自身を体験している一体の意識である。死すらない。人生は夢だけであり、私たち自身が自分の想像力の産物となる。
私は選択する、
偶然ではなく、選択によって生きることを
言い訳ではなく、変わることを
操られるのではなく、動機づけられることを
使われるのではなく、役に立つことを
競うのではなく、秀でることを選ぶ。
自己恋慕ではなく、自尊心を選ぶ。
私は自分の内なる声を聞くことを選び、
他の人の無作為な意見は選ばない。
私は、あなたが、黒人、白人、ストレート、バイセクシュアル、同性愛者、レズビアン、背が低い、背が高い、太っている、痩せている、豊かな、または貧しい人であろうとなかろうと、気にはせず、親切であり、あなたの優しさに触れあっていることを目指す。
死ぬ時は、ただ微笑んで。
女王エリザベス1世の最高顧問は、カブバリストでブラック魔術師のジョン・ディー卿であった。彼はまた、オカルトの上層部で非常に人気のあるエノキアンを創設した。これらのタイプの「魔術」はすべて悪魔を呼ぶプロセスを教えている。ジョン・ディーは、彼のカバラ、ブラック・マジック、エノキアン・マジックのテクニックを使って悪魔を呼び寄せた。そうして呼び寄せている間に、自分自身を彼に示した悪魔の絵が描かれた。彼が描いたは姿は、「グレー」タイプのETと同じに見え、それは今日映画以で見るETとそっくりで、かつそれは、100年以上昔、ブラック魔術カバリストのアレイスター・クロウリーが儀式の最中に描いたものと同じだった。 ブラック魔術の儀式を実行している間、クロウリーは薬を飲み、 “Lam”と名付けられた現代のグレイETに著しく似たその姿を見た。クロウリーはこれが魔王だと言った。
【本章完結】
参考文献
Booker, Christopher, The Seven Basic Plots: Why We Tell Stories. Continuum International Publishing Group Ltd. 2005.
Crowley, Aleister. Book of the Law. Red Wheel; Reissue edition, 2011.
Hitchens, Christopher. God is Not Great: How Religion Poisons Everything. Hachette Book Group, New York, NY, 2007.
Ouspensky, P.D., In Search of the Miraculous: The Definitive Exploration of G. I. Gurdjieff’s Mystical Thought and Universal View. Harvest Books.
Sheldrake, Rupert, Dogs That Know When Their Owners Are Coming Home. Broadway Books, 2011.
Steiner, Rudolf, Esoteric Cosmology. Kindle Edition.
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Modern Esoteric: Beyond our Senses by Brad Olsen
http://cccpublishing.com/FutureEsoteric www.bradolsen.com
with permission, (c) Brad Olsen, 2016