歴史再考(その1)

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その21)

 

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【新版(Second Edition)に基づく】

 

 

歴史再考(その1)

「歴史は、嘘のミシシッピーである。」 ――ボルテール

今日のエソテリックな対抗言説は、部分的だが、私たちの既知の歴史を全面的に再考することに貢献している。私たちはすでに、西洋社会の学校で教えられている歴史は、無知に充たされているばかりか、地球の実際の出来事の大きく検閲されたバージョンでしかないとの疑念を抱いている。その近視眼的で編集されたバージョンでは、人間はサルからヒトへと長い進化を経た後、文明はメソポタミアで約7千年前に「開始」され、しだいに分岐していったが、それでも、他の文明はすべて西洋の「後続版」としている。しかし、圧倒的な考古学的、歴史的証拠に基づいて、1万4千年以上前――おそらくもっと以前――に、地球上に高度な文明があったことが明らかになっている。古代の起源について学ぶことから、キリスト教のさまざまな宗派に至るまで、明らかにされていないことが多々ある。おそらく、まずバチカンの図書館を世界中の学者に開放することが、その解明に必要な第一歩だろう。

人間が地球上の自分たちの真の歴史を知らないという批判は、長い間行われてきている。もし私たちが、別のレンズを通して文明の歴史を再検証することができたらどうだろうか。失われた世界、神秘的な文明、古代の技術など、神秘的な過去についてのすべての証拠、写真、証言、変わった発見を通じてそれを見直したとしたらどうなのであろうか。結果は、私たちが誰であるかの集団的見方を変えるだろうか。人間性を進展させるために地球を遍歴した多くの啓蒙主義者たちの意図は何だったのか。彼らは私たちに何を教えてくれたのだろうか。私たちが地球上の生命の歴史に無知でいた場合、過去を知らずして、一体、どのように未来に進むことができるのだろうか。

ロイド・パイ〔Lloyd Pye〕、マウロ・ビグリノ〔Mauro Biglino〕、R・A・ボウレイ〔Boulay〕のような先駆的研究者の人類学への探究は、人類への全く異なる歴史観を示している。彼らは、私達が類人猿から進化したものではなく、神々らによって操作された奴隷人種であることを示唆している。 何十年にもわたって、多くの奇妙な発見があったが、それらのほとんどは、意図的に隠されたり、あるいは、神秘的にも消えてしまったりしている。私たちの受け止め方と共に、私たちの人類生物学、過去の生命の知識、抜本的技術変化の可能性、そして単に私たち自身の理解の深化は、既存の歴史文献には大きな再考察が必要なことを示している。歴史へのエソテリックな探索を始めるに当たって、その最初に、いまだに専門家が手を焼いている、古代技術のいくつかの成果から見て行きたい。

 

古代技術

古代技術の不思議にはいっそう迫るものがあり、古代の建築現場の巨大な石が実際にどのように切断され、加工され、動かされたかを考えると、その謎をいっそう深めている。そうした信じられないほどの精巧な石切りは、まさにミステリーであり、(巨石時代という太古の)そのとてつもない重量を考慮すれば、さらに神秘的なものなる。どのようにして、古代の普通の人間が100トン以上の石塊を持ち上げて輸送し、それらを正確に配置できたのであろうか。そうした工事には、驚くべき労働の工夫が駆使され、明らかに今日でも十分に認識されていない何らかの原理が採用されていただろうことを思わせる。その原理には、何らかの浮上術が用いられていたのだろうか。古典的な文献には、音の力や、歌と音楽と音色を使って物を軽くすること、つまり音響浮揚術を暗示する引用が続いている。労働歌は、リズムを作り、高揚させることを可能にし、ついには、労働者たちがそれほどの大きな労力なしでも巨大な重量物を動かすことができるかのような超人的能力をもたらしているのかもしれない。

 

この写真は、ペルーのオリャンタイタンボにある驚くほど精密に切られた石である。インカでは、この5万トンにもなる5個のピンク色花崗岩を、谷の片側から反対側の山腹にどのようにして据えたか。しかも岩の間には、人間の髪も通らないほどの精密さで。さらに岩の間にはくさびがはめ込まれ、地震に「乗る」こともできる。誰が、なぜ、こうした方法をインカに教えたのか? こうした建設技術は、今日可能な建設機械をもってしても難しいだろう。(with permission, (c) Brad Olsen, 2017)

 

 

 

ペルー、クスコのサクサワマンの壁にある石は、完璧にフィットして、草も、銀や鉄の刃もその間を通すことができない。モルタルも使われていない。石は複雑で不規則に結合されることが多く、石工たちには悪夢のように見える形になっている。(with permission, (c) Brad Olsen, 2017)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1900年の復活祭の頃、地中海東部の水面下40メートルから、古代の最も神秘的なもののひとつが引き上げられた。それは、クレタ島の近くの小島アンティキティラ島沖で働いていたギリシャ人海綿採りダイバー、エリアス・スタディアトスによって発見された。その時、彼は古代ローマ貨物船の一部を発見し、それは紀元前80年ころに遭難したもので、その中には彫像やその他の品々が含まれていた。そのうちの最も興味をそそられる回収物が「アンティキュラの機械」と呼ばれるもので、その後49年間、謎のままに置かれた後、エール大学の科学史のディック・プライス教授によってそう名付けられ、計算能力を持っている機械であることが発見された。彼はそれを、さかのぼること2千年前の機械式のアナログ計算機であると断定した。同教授は1959年6月号の『Scientific American』誌の記事に、「それはツタンカーメンの墓にターボジェットを見つけたのと同じようなもので、古代ギリシャのコンピューターであった」と書いた。彼はことに、そのアンティキュラの機械には、1500年代半ばに発明された差動歯車が用いられており、月の満ち欠けの周期を計算するために、恒星月の動きの影響を除き、それによって星と惑星の動きを計算するものであると認めた。この機能により、その機械は、16世紀の差動歯車よりもはるかに高度なもので、そのアンティキュラの機械の技術は、宇宙時代にも匹敵するものであった。その機械は、当時のどんな船員や航海士にとっても、計り知れない価値をもつものであった。

別の不思議な古代装置はムーのGolden Sun Discで、それは最近になってLooking Glass技術――過去やおそらく将来をも垣間見ることができる――として逆工学された。ペルーのエルダー・レースの記録によると、もともとのSun Discとは、アインシュタイン=ローゼン・ブリッジによって記述されているように、自然に発生する重力ゼロ交点――渦とか「デッド・スポット」とも呼ばれる――や、従来の科学で言う「ワーム・ホール」の使用によるものであった。こうした古代と現代の双方にわたる装置は、振動の制御――古代では、歌、詠唱、マントラ、楽器を通して行なわれた――によって、単に時間座標領域へアクセスするものであった。また、Sun Discは、「遠隔視」――アストラル旅行の目的地を決るため司祭によって使用された――できる機能があった。司祭は、実際のその旅立ちの前に、曲、マントラ、音楽を使って、その特定の場所にその装置を微調整した。その装置は、時間座標で作動していたので、音楽、マントラ、詠唱、歌などの波形によって制御された。

2013年1月、ボイス・オブ・ロシアや他のロシア・メディアは、シベリアの都市ウラジオストクで、3億年前のアルミニウム機械が発見されたと報じた。専門家は、この歯付きレールは製造さたもので、自然の力の結果ではないと語った。この製作品は、寒い冬の夜にウラジオストクの住民が火をおこそうとしていた際、研究者らの注目を引いたものだった。その住民は、家の暖房に使用する石炭の塊の中にまじっているレール状の金属片に気づいた。彼の発見を知った所轄の職員は、近くのプリモリー地方の科学者たちの助けを求めることにした。こうして、ロシアの専門家によってその金属物体が研究された後、その住民はその発見物の推定される年齢について知ってショックを受けた。その金属レールは3億年前のものとされたが、科学者たちはもう一つ衝撃的情報を伝えた。それは自然に創造されたものではなく、製造されたものであり、地球外産である可能性が高いと話した。この発見物は一般的には歯付き金属レールと言われており、間違いなく人工的に作られたものである。そのような先史時代に、このアルミニウム製歯車をどのような文化や人々が作ったのかとの疑問は、依然として謎のままである。

 

逆進世界

地球文明の素晴らしい展開を描く一本の時間線系上には、地球を襲った大洪水の科学的証拠があり、それはノアの箱舟の物語にも描かれている。しかし、そのような世界的な洪水は200万年以上も起こっていない。 初めから終わりまで、人類の旅の一巡りは、全き完璧性をもって終始している。つまり、高度な「人間」たちは、アトランティスとレムリアの大洪水以前の文明の間、もしくは、おそらくもっと早い時代に、高い生存状態にあったが、その後急速に原始的な状態――私たちが自らの歴史に経験してきたような――に落ち込んだ。 南極の氷の数マイルの下には、以前の文明の証拠があるかもしれない。その場所は、化石記録が示すように、極移動が起こる以前は温暖な気候であった。

歴史をさかのぼればのぼるほど、最も洗練された形の「完成された社会」が出現し、それが長い落ち込みの軌道を降下し、他の文化と混合してきたことが分かる。エジプト、インダス、シュメールの文明はすべて、先進的な知識を備えており、すでに発足して以来の文化的発展の頂点にあった。エジプトの場合を見ても、スフィンクスや大ピラミッドのような最古の建築物は最高の品質をもち、時間の試練に耐えうる、最も良い保存構造を持って残ってきた。その後に築かれたピラミッドは品質が低く、実際にはデザインが悪いために文字通り一部が倒壊してしまっている。 シュメルの場合、現代のベドウィンの祖先が登場したエリアを取り巻くアクカディア人のグループがあったが、そのすべてはシュメール人と文化的に関連していないようである。

古代シュメールでは、非常に短期間に、数多くの科学的成果――車輪、筆記言語、高度なカレンダー、音楽や歌、地図作成、標準交換システムなどの目覚ましいイノベーション――が突然に出現したことが認められている。古代インドのインダス川の文明にも、非常に初期の文化的洗練の兆候が見られる。これは、最も古代のエジプト、インダス、シュメールの社会が、その子孫よりも高い知識を保有していたことを示唆している。これは、技術が他の文化から継承されたもので、独自に発達したものでない――得られた高度知識をどう使用するかの情報が後世代に伝承されなかった――ことを示唆する重要な兆候である。一言でいえば、最も古い文化遺産は初期段階で最高レベルの進歩を遂げたものの、いずれも集団的記憶から忘れ去られた太古文明の遺産に過ぎなくなった。エジプト人、インド人、シュメール人のエソテリックな探求は、この惑星には、文明化した人々が何千年も存在し、その内には何百万年もさかのぼものがあることを示唆している。

 

古代構造物における神聖幾何学

エジプトの3大ピラミッドの建設は神聖な幾何学の原則に基づいている。たとえば、それらは黄金分割比――レオナルド・ダ・ビンチによって再発見され、そう命名された――によって数学的に配置されている。黄金分割比は、古代幾何学の一般原則にひそむ螺旋級数で、神聖な建築の設計に使用されている。それは自然な形のパターンを表現したもので、最も望ましい割合と評価されるものである。それらには、動物の角、海の軟体動物、人間の胎児の形成、惑星軌道間の比であるコミック〔ママ〕星雲、メンデルの遺伝の法則、向日性と呼ばれる太陽に向く花の動き、そして渦巻きに見られるなど、自然界で何千もの例が観察される。黄金分割比は、オウム貝の外壁が除去されて渦巻き状の内部が露出すると見られる。これは、通常の考古学者を信じるべきとしても、大ピラミッドの石器時代の建築家が考案したにしては、あまりに意外な洞察ではなかろうか。

大ピラミッドの建設は、アトランティスの遺産であり、それは、次の章で見るように、4百万年以上にわたり地球上に存在していたレムリア文明の延長線であった。 エソテリックな伝統では、アトランティスは今日の人間よりもはるかに進化した秀でた人類とみなされている。フリーメーソンの大部分が派生したエジプトのファラオの本当の秘密は、「イルミナティ」という言葉が由来する解明組織の達成である。これは、大ピラミッドの奥深くにある謎めいた部屋であるキングズ・チェンバーの秘伝を授けられた最高の教えであろう。この奥義たる知識はエジプトからモーセによってユダヤ教に導入された。それは後に銅のスクロールに記録され、おそらくエルサレムの神殿の下に隠され、数世紀後にテンプル騎士団によって発掘された。

神聖な幾何学のもう一つの表現は、毎年12月21日の日没時、第2ピラミッド(カフレのピラミッド)が大ピラミッドにおとす影である。その冬至の影は、大ピラミッド南面中央を走る垂直線と、同ピラミッド側面に意図的に作られたなわずか数インチのへこみと一体となって実際に浮かび上がった時、金色の三角形を作る。こうした垂直線は、幾何学者がアポジアム〔辺心距離〕と呼ぶように、その冬至の影が完璧な金色の三角形を成すための直角を形成する。 この影が大ピラミッドの各冬至に「完璧な金の三角形」を形作っていることを考えると、偶然の一致はまず考えられない。加えて、その3つのピラミッドがすべて統一された計画をもって、同時に建設されたのである。

〔ピラミッドのある〕ギザ高原からさほど遠くはないが、後の紀元前280年から247年に建てられたのが、エジプトのアレクサンドリアにあるファロス島のファロス灯台(アレキサンドリアの灯台とも呼ばれる)である。それは280年続いた王国ロイヤルキュービットのために建てられ、146.5メートルの高さで、それは大ピラミッドと同じ高さである。 このような際立った関係はほとんど偶然ではなく、そうした建造が何千年も隔たっているにもかかわらず、両方の構造が神聖な幾何学の同じ原理に従って作られたことを示している。この組織的な統一は、すべて、ギザ高原の3つのピラミッドから始まった。

 

エジプトの伝統

ギリシャの賢者ソロンはエジプトに行き、そして再び国に戻った際、アトランティスの存在を報告した。その情報は、97人のエジプトの大祭司――たとえばヘリオポリスのペソフォスとサイスのソンキスといった、その地で共に学んだ二人の賢人――から受け取った。 プラトンのアトランティスへの言及は、ギリシャの哲学者ソロンの執筆から引用された。ソロンはアトランティスをケプチュ――クレタ島の人々がエジプトを呼ぶ名前でもある――と呼ぶエジプト司祭の情報を与えられた。ミノア火山災害の生き残りは、エジプトが地中海世界で高水準の文化を持つ唯一の文明であったため、その紀元前1500年の災害の際、エジプトに助けを求めた。

エジプト、ギザのピラミッドとスフィンクスは私たちに何を教えているのだろうか。エジプト全土で発見されたオシレイオンと他の荘厳な巨石遺跡の役割は何であったのか。スフィンクスへの深い水による侵食は、その地帯に大雨が一般的であった約7千年前以降には生じておらず、その建設は一般的に考えられているよりもはるかに古いことを示している。大ピラミッドと近隣のオシレイオン寺院には、まだ専門家を困惑させている巨石建築がある。オシレイオン寺院には、非常に重要な一片の情報以外には、文字はほとんど見つかっていない。それは、「生命の花」と呼ばれる64エネルギー単位の、非常にかすかではあるが、明らかで正確な図柄である。それは、岩にエッチングしたものでも、彫り込まれたものでもない。それは、何らかの特別な方法で岩の原子構造に焼き付けられたものである。約12,500年前の最後の氷河期の終わり――エジプトの死者の本にゼップ・テピまたは「最初の出来事」と呼ばれている時代――に、初期の文明の生存者によって高度な知識と先進的な建築技術がナイル河岸にもたらされたのであろうか。ギザ高原の古代のモニュメントは、先の時代からの非常に高度な失われた文明――アトランティスを参考にした――の可能性を示唆している。はるか古いこの時期は、エジプトとサハラの大部分が肥沃な土地であった時代で、前砂漠時代エジプトのオシリウス帝国と呼ばれている。

ギザのピラミッドは、人類がアトランティスの遺産であるオシリアン帝国の一部を作った銀河連合に加盟していた時代の証である。ギザの3つのピラミッドは、正方三角錐に造られている。 各側面はそれぞれ正確に3:4:5の比率をなしている。 その古代の起源がよく判らないたくさんの手がかりがあり、そのうちの多くの証拠がその実際の時代と機能を証明しているが、「エジプトゲート」と呼ばれるスキャンダルによって隠蔽されれている。例えば、スフィンクスの直下には、ソナー技術を使って、トンネルや大規模な部屋――ギザ高原の下のいくつかの階層につながっている――が発見されている。そうしたトンネルは最近探検され、撮影された。その映像が公表されると、その入り口は速やかに封印された。その入り口が発見された鳥の寺院には、もはやアクセスできない。

大ピラミッドとスフィンクスの下には、「記録の部屋」を含む多くの神聖な部屋があり、それは極めて古いが未だに使われているET基地(Kamagol-IIと呼ばれている)で、その最下層には大きな円盤型の飛行体さえある、という噂がある。スフィンクスの右足の真下のはるかに深い部屋の中には、神話上のアカシックレコードがあるが、一般の人々が従来の考古学者からこれを聞くことはない。ギザのピラミッドは、過去に建てられた事例がない素晴らしい記念碑であり、唯一の論理的結論は、より古くより偉大な遺産に違いないということである。

大ピラミッドの隣にあるエジプトのスフィンクスは、人間の頭を持つリ横たわるライオン像である。それは、現代のカイロに近いナイル川西岸のギザ高原に位置している。その横たわるライオンの体を持つスフィンクスは、レオの時代に刻まれ、真東を見て位置している。それは世界で最も大きい一塊の石像であり、世界で最も古い記念像として知られている。長さ73.5メートル、幅6メートル、高さ20.22メートルに及ぶ。スフィンクス、「ライオン人間」と解釈され、レオとアクエリアスの星座を表している。スフィンクスが約1万2千年前に建立されたレオの時代には、それが向いている真東とは、つまりレオの時代の春分点にあった。アクエリアスの新時代に、スフィンクスは元の位置から180°回転した天空の星座に直面し、今はアクエリアス〔みずがめ座〕に直面している。

スフィンクスに関連した3つのギザピラミッドの位置は、オリオンのベルトの3つ星に対応している。また、ギザ高原の地球上に対する主要な星座の位置に関連して、観測されたその配列は、12,500年前――オシリウス帝国の時代に一致――の建造の時の春分点の日の出時に対応している。

女神崇拝は旧石器時代にまでさかのぼる。多くの人類学者は、人々の最初の「神」は女性だったと推測している。これは古代の創造神話とも一致し、世界の創造は自己受精によって達成されたと信じられている。最も初期の創造コンセプトの中で男性要素の参加はまだ知られも認識もされていなかった。女神が自分自身で宇宙を創造したと信じられていた。(with permission, (c) Brad Olsen, 2017)

古代エジプト人のアビドスのセティ神殿の天井梁に彫られた絵は、飛行機や他のタイプの軍用車両のように見える。 ヘリコプターやタンクと潜水艦形の象形文字。 ツェッペリンに似た2種類の機体やグライダーは同じ方向を向いている。こうした無傷の絵文字は、天井に向かって床から12メートルの箇所に示され、ひとかけらも損壊したという証拠はない。 何ものも、床から5メートル以上は未来を表していた。(with permission, (c) Brad Olsen, 2017)

1902年から03年の冬、エジプト学者マーガレット・マレイは、エジプトのアビドスにあるオシレイオン――セティI寺院の発掘のための瓦礫に埋もれていた――を再発見した最初の人となった。これらの写真は、1903年に撮影された可能が高い。上の写真は、オシレイオンがこのように砂で埋まっていたことを示している。砂の下に何世も埋まっていたこのような記念碑と、いきなりに出会った瞬間を想像してみよう。(with permission, (c) Brad Olsen, 2017)

 

中米のピラミッド文化

今日のボリビアにあるティワナクの歴史的建造物は、卓越した技が施された大きな石が特徴である。後のインカ文化の石造様式とは対照的に、ティワナクの石造建築では、通常、規則的に並んでいる長方形の石灰ブロックが使用されており、歴史的な構造はしばしば精巧な排水システムを持っていた。大きな石塊を所定の位置に固定するために、ブロンズまたは銅の「Ⅰ」型クランプが頻繁に使用されていた。ティワナクを造るために使用された石は、切り出され、その後40キロ以上を所定地に運ばれた。石塊の運送の一部は水が利用されたものの、車輪の助けを借りずに運ばれた。ティワナクのアカパナ・ピラミッドは、インカ帝国より何世紀も前のテラスピラミッドである。それは正確に切り取られ、芸術的に結合された石塊面を持っており、イースター島で見られる石塊に匹敵している。この発見は、インカの建築家がティワナクの先人たちから印象的な石積み術を学んだことを証明している。この未完成のピラミッドの面積は、エジプトの大ピラミッドの寸法よりわずかに小さいだけである。

インカ文化の偉大な成果はマチュピチュである。マチュピチュはケチュア語で「古い頂き」を意味する言葉である。このコロンビ以前のインカの遺跡は海抜2,400メートルに位置し、その技術の驚異性を表している。ペルーの古都クスコの北西80キロのウルバンバ渓谷の上部の山頂に位置している。よく「インカの失われた都市」と呼ばれるマチュピチュは、おそらくインカ帝国の最もよく知られたシンボルである。ペルーのもう一つの不思議なインカ都市、オリャンタイタンボ市は、その巨石遺跡で最もよく知られている。細かく刻まれた岩やプランテーションのテラスは、スペインの征服者にとって非常に大きな障害となった。この要塞は、リマに拠点を置くFフランシスコ・ペザロや他の征服者に対する攻撃を成功させるために、インカ反乱軍マンコによっても使用された。最後に、ペルーのリマから南東に40km離れたパチャカマクのインカ寺院は、ルーリン渓谷の考古学的な場所である。それは少なくとも一つのピラミッドを持っていた。インカは主にパチャカマクを創造の神パチャ・クマクを崇拝する宗教的場所、あるいは重要な行政センターとしても使用していた。

この写真は、1911年、探検家のヒラム・ビンガムが、ペルーのアンデス山脈の高地のマチュピチュにある失われた都市を見た際に撮影したもの。 この城市はインカの首都クスコからわずか80キロメートルほどの地点にありながら、スペイン人はマチュピチュを発見することなく、その結果、彼らは、他の多くの場所で行った略奪や破壊をそこではしなかった。 何世紀もの間に、周辺のジャングルが生い茂って、その存在を外来者にはほとんど分からなくさせていた。(with permission, (c) Brad Olsen, 2017)

中米を意味するメソアメリカの独特な先史文化は、何千年もの間比較的孤立して発展した。約3500年前にさかのぼるオルメック文明は、石によって大きな都市と巨石彫刻を建造した最初のものであり、すぐに後の文明に影響を与える文化の始まりとなった。 オルメックの興味深い側面は、その独自のネグロイド〔黒色人種〕の特徴で、後に残された多数の像に見られ、アフリカとのつながりを示唆している。オルメックはまた、マウンドピラミッドの形態を残した。サポテカ文化は、オルメック文化から借りたもので、マヤ、トルテク、アズテクもそうであった。 オルメックに続くすべての先史時代の文化の1つの共通の糸は、儀式のボール・ゲームであった。プレイヤーは、武器や手ではなく、腰、腿、肩の重いゴムボールを巧みに操作する必要があった。ボール・ゲームはスポーツでも神聖な儀式でもあり、人間の犠牲がしばしば最終結果に伴った。ボール・ゲームはメゾアメリカ全域で、そして北アメリカの南西部でさえ、多くの重なった文明で行われた。石の彫刻されたボールコートは、中米の多くの神聖な都市に作られた。現在はアメリカの四州境界地域〔ユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナ〕となっている。

大規模ピラミッド文明の最後の遺跡は、紀元前200年ごろに建造された、メキシコのテオティワカンである。このアステカの名前は、「神の場所」または「人間が神になった場所」を意味する。エジプトのギザのピラミッドの天文学的な構成と同様に、その遺跡総体は太陽系の正確なスケールモデルである。 木星、土星、天王星、海王星、海王星、さらには冥王星の軌道距離を正確に反映している。 地球人には、天王星は1787年まで、冥王星は1930年までは「発見」されなかったため、こうした遺跡の建設者には「地球外部」の情報源があることは明らかである。さらに、テオティワカンは赤道の北緯19.47度の緯度にあり、数学的には、球面内の四面体の対応し、底の先端が南極にあり、コーナーは北19.47度で出会うことになる。

 

つづく

 

 

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Modern Esoteric: Beyond Our Senses,  by  Brad Olsen

http://cccpublishing.com/ModernEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2017



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