「宗教心=帰属意識」か

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その66)

日本人を、宗教心にあつい人々で無神論者などほとんどいないと言えば、誰もがそれはむしろ逆だと言うに違いありません。ところが、世界中で日本人ほど社会集団への帰属意識の強い人たちはそうはいないと言えば、誰もが賛成するでしょう。しかし、ここでいう「宗教心」と「帰属意識」を同じものだとすれば、上記の表現は意味を持ち始めます。つまり、「宗教」とか「無神論」といった言葉を、少なくとも日本人に関して当てはめれば、それらはどこか違った意味で使われている言葉だと気付かざるをえません。

私は、30代半ばから70を越える現在まで、オーストラリアという西洋社会のひとつで生活してきています。その歳月の中で、回りのオージーたちとの様々な摩擦や同調を味わいつつ、自分のアイデンティティは何かということを当然に考えされてきています。

そうした体験からおのずから発見しているのですが、私自身のもつ日本人としての意識、つまり日本人だというアイデンティティの強さや深さは、どうも回りのオージーたちのそれとはかなり違っていると確信するようになってきています。そして、そういう私の例はそう特殊でなく、また、その比較対象のオーストラリアも西洋社会としてそう特殊でない、つまり、米や英も、ほぼ同じであると推察しています。言い換えれば、日本は独特であるようです。

そこでですが、ここでいう「アイデンティティ」という言葉は、上記の「帰属意識」との言葉に置き換えが可能です。一般に両用語が使われるコンテクストには違いがありますが、その内容はほとんど重なり合います。つまり、自分の周囲の大小――国から家族まで――の諸社会への帰属感において、日本人とオージー(あるいは米英人)とは違っているのは確かです。日本人はそれが強く(つまり集団的)、西洋人はそれが弱い(つまり個人的)であるのは確かです。

そこで、冒頭の「宗教心」や「無神論」に戻りますが、「宗教心=帰属意識」という定義で考えると、日本人の宗教心は、決して薄いものではないとの結論に到達します。

 

今回から始まる新しい訳読の章は、そのタイトルが「喪失する我が宗教心」とされており、こうした自分と宗教心との関係を、ことに、著者が米国人であることから、その社会との関係において論じられています。

著者は、そうした自分と社会との関係が、過去ほぼ一世紀ほどの私有化の趨勢のなかで失われてきたと述べています。

それを、こうして日本語に訳して読む時、日本のそうした社会性は、どうやら西洋のそれとは違うようだと思わざるをえません。

 

では、その喪失する我が宗教心(その1)」へご案内いたします。

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