「『私の健康観』 v.2」を発表したのが一カ月前でしかも13年ぶりでしたから、もうその「v.3」とは、ちょっとバージョンアップのペースが早すぎるかもしれません。それに、バージョンも3までに上がってくると、もはや「健康観」の域を越えて、一種の「人間観」と言ってもよいレベルほどに入ってきています。というのは、その「健康観」の延長上で、私は、《ふたつの意識》を発見することとなったからです。
そこでまず手始めに、そのふたつを「A意識」と「B意識」と呼ぶこととします。
A意識は、自分の意識の中でも原初的なもので、個別的あるいは没我的、刹那的、フラジャイルで、どこか依存的なところがあります。主観的で「局所的」〔後述〕と言ってもいいでしょう。
B意識は、そういう自己中心的な意識を外から一定の距離をい置いて見る意識であり、ここまでくるには相当な経験を要し、むろん自立し、客観的で「非局所的」〔後述〕な意識です。位置感覚的には山頂にでも立ったような高所からの意識で、自分の意志すらその下にかしずかせるような、「神的」と言っても大げさではない意識です。
「若」と「熟」の二意識
この二つの意識を、若い頃から馴染んできた、いわゆる「葛藤する二つの自己」のことと見ても間違いではないのですが、そういう若かりし時代の揺れ動く二つの自己を土台に、成熟を遂げてきた末の大人時代の二自己とでも言えるものです。それに、ことに思春期の二自己は、いわば相互交換もおこるほぼ対等なもので、時に二つの自分が入れ替わったりしていて、一定程度までならフィクション物語の恰好なテーマにもなりえます。ただ、それがある線を越えると病的となり、精神科医が対応することとなる分裂あるいは多重化した自己となり、統合の主をもたない「失調」状態に至ります。そういう誰にとっても既体験的な意識がA意識です。
ところがB意識は、一定の人生体験、つまりは、人生という「実験」において、自分という扱いにくく時にわがままな対象をじっくりと観察してきた結果の産物で、出来上がった芸術作品のように、もはやそこにある種の実体として、存在感を示し始める意識です。
そこでですが、目下、兄弟サイトの『フィラース Philearth』でより詳しく述べているように、この世には「二重性」というものがその根底にあって、それは、表層的には経済体制上の矛盾の現れと理解されます。それが近年になって、量子物理学の分野で実証されてきた素粒子の一対をなす特性があり、この「二重性」は、そのような自然界のもっと奥深い次元からの発生理由をもつものと認識し始められているものです。
これを身近な話にたとえて人間を素粒子と見ると、それは男と女という一対の性からなっていて、それが生命を生みだす原理となっています。そのように、この「二重性」は、そういうミクロな世界において発見される、人間の存在に根源的な「二重性」とも解釈できるものです。
こうした角度を変えた視界をもってすると、こうした途上期そして成熟期という二自己を占めるA、Bの二意識は、この自然界をかたち作る構造の根底をなす「二重性」、あるいは「双対性」にも連なっていると考えられます。
〈いのち〉の思想から見て
こうした二意識について、私見ながら、上で触れた量子理論の専門用語を用いて仮説を立てれば、A意識が、自分の個としての特殊性に根差す「局所的」な意識であるのに対し、B意識は、そうした特殊性に左右されたものではない、普遍的で「非局所的」な意識であると見ることができます。
さらに量子理論の最先端の知見に入ってゆけば、それは、素粒子の世界で発見されるある意味で「超自然的」とでも解釈される「量子的現象」に関わったものと考えられます。
たとえば「エンタングルメント」――距離とは無関係に双対性をもった二要素が瞬時につながり合う――とよばれる現象は、それが量子コンピュータに利用され、従来のコンピュータとは比べ物にならない能力を生み出しつつあります。そうしたミクロ次元の原理が、人間の意識というマクロ次元でも作用していると仮説される、そうした分野での視野に立つ見地です。
また、さらに別の見地を求めれば、古くから――宗教的な領域に踏み込んで――、宇宙には「ガイア」と呼ばれる絶対的な意志の存在が信じられてきています。そうした「神」に通じる認識とも関連するものです。
あるいは、「死後の世界」について、科学的な物質基盤の視野からそれを見れば、生命という物質現象が死をもって終わった後は、意識の存在の根拠はないこととなります。しかし、生命をそうした物質現象のみでは捉えず、多様な要素が絡み合った現象として見れば、死後の世界は、個々の物質としての生命が終わった後も、それが存在しつづける場であると考えられます。
生命をこうした他の要素との相互絡み合った関係としてみるバイオホロニクスの見解――それを〈いのち〉と表記する――については、いま、『フィラース Philearth』で「〈いのち〉の普遍学」として論じられているところです。
また、「私の健康観」で終始、健康を身体内外のエコロジーの観点から捉える見方は、人間と環境や地球をこのバイオホロニクスの観点から見たものと同等の受け止め方によるものと言えます。
こうして、B意識が根差す私たちの人生体験についても、それを個々の人間の〈いのち〉の問題として、(生命を物質現象とみる)科学の立場を越える思想体系――すなわち「〈いのち〉の科学」――からも見れるわけです。それは、私たちの意識に潜む根源的な「二重性」の発生源が何なのか、それを、いっそう広い視界から解明してくれるものとなっています。
すなわち、その「二重性」が起こっているのは、説明も二重なものとなりますが、バイオホロニクス的=関係論的には、私たちの〈いのち〉が物質としてしか見られていないという欠陥がゆえにであり、そして量子理論的=存在論的には、さまざまな形で存在するミクロ世界での「一対の原理」が働いているからです。
言い換えれば、ふたつの意識とは、人間という〈いのち〉が持っている、《個別特殊性=局所性》と《「神」的な超自然性=非局所性》という、二重の存在原理が意識上にそう反映したものです。
以上のように考えると、これはもうどう見ても「健康観」の域を越えており、私たち人間は、そうした双対性の原理の上に生きているとの「人間観」の表明に至るものです。