最近、とある機会を得て、日本伝統医学を根本的に再認識し、その可能性に目覚めさせられる体験をしました。しかもそれがさらに発展し、この世界を認識する方法論について、それがこれまでの〈科学という方式〉に“対案”をもたらす可能性を秘めているのではないか、そんな発想へのヒントとさえなっています。
それがどういう機会であるかは他に書きましたが、その医学とその適用である同医療の心髄は、〈物質ではない何か〉――伝統的に「気」(古字体は「「氣」)と呼ばれている――が「この世」の摂理をなしており、それがもたらしている計り知れない〈関係性〉による体系を想定しているところにあります。
そこでもし、その医学と同医療の有効性を認めるとするなら、それは、その有効な施術例を積み重ねた体験的実証として、その方法をも含めて認めることを意味します。ということは、その医療は、長い歳月――おそらく数百年の長さ――をかけて同医学の臨床適用を繰り返すという〈実験とその反復確認(記号的な確認ではなく具体例同士の質的確認)〉を行ってきたことを意味します。そしてこれは、二つのさらなる意味を示唆しています。
すなわち、第一には、それは、科学としての原則に立って、仮説を実験をもって立証してきたに等しいことです(医療という人間相手の探究においては、治療も実験もその行為に事実上の差はない)。第二には、その仮説とは、〈物質ではない何か〉が摂理を形成しているというものです(これは最先端の科学である素粒子物理学が踏み込もうとしている考え)。
つまり、その医学と医療の有効性を認めることは、科学として、〈物質ではない何か〉が摂理をなしているとの認識に同意するということを意味します。
ゆえに、日本の伝統的医学や医療は、いわゆる西洋医学やその医療とそん色なく肩を並べうるレベルの学であるだけでなく、互いの弱点を補い合える、働きと実績を持っていると考えるにいたっています。
以上は、あるきっかけから、そうした医療実践の実態に接した一人の部外者による私的見解です。
その一方、実際の日本伝統医療の実践者にとっては、以上のような意味はすでに重々に解ってはおり、そのように外形に悶着して本道から外れないよう、患者救済の実践に徹しているのであると拝察し、その謙遜で使命に集中する姿勢は、それも日本の伝統のひとつと思われます。
現代の計算高く利己に固執しがちな風潮にあっては、まさに脱帽の極みです。