今回もコロナについて考えるのだが、議論を進めるにあたって二つの設定を置きたい。ただし、この設定には、余りに極論だとの異論があるはずだ。しかし、そもそも設定とはそういうもので、そういう条件をあえて与えて考察の位置を明瞭にし、議論をより精密にするためのものである。そして結論では、そうした設定から得たものと、その設定のないものとを見比べ、私なりの見解を見出したい。
まず、そのひとつ目の設定とは、世の大勢に反して、その感染による危険性について、それは「大したことはない」というものである。ことに、それを「致死的感染」とするのは過剰反応で、そこには可能性として「恐怖心の植え付け目的」を疑うべきものがある。そしてその恐怖心がゆえの、感染制圧のための経済活動の停止と、その結果の「生活破壊」までもが容認されている。すなわち、感染の危険度とその対策による社会生活の制約度に、アンバランス――平たく言えば「コスパ」の悪さ――がある。
二つ目は、さらに、この過剰反応は意図的とする設定で、その目的が、世界の投資家にとっての投資効果の確保、拡大にあるとするものである。それは、片やで世界の実体経済の行き詰まりがあり、他方でじわじわと進む企業活動の社会的責任を問う締め付けが広がるなどの収益環境が変化しており、そうした流れを変えるために、むろん「資本の論理」に立った、《超法規的効果》が期待される手段としての疫病利用とするものである。次元は違うが、そうした感染対策にあたる政府にとって、疫病の恐怖は、国民を従わせるには都合よく働く。