先に「EDを“カミングアウト”する」との副題で、「ようやく枯れてきた」と題して近年の自らの感慨を綴ったのですが、そういう話には、「おいおい、そんな情けない話はよしてくれ」との反応が予想されるところです。そして本稿は、この言わば一種の“敗退宣言”に関連したその発展版です。つまり、興味深いことに、その「敗退」の境地はその聞こえの悪さに反して、その当事者にとってはやけに心地よいのです。そしてさらに、断言さえしたいところですが、自分が「男」として当然と信じ込んできたもろもろに、そのようにして一線を引くことに、予想もしていなかった爽快感が、とにもかくにも格別な味わいをもたらしてくれているのです。確かに、《男という役割》に決別してみることは、ED告白どころの話ではなさそうです。
そこでなのですが、そうした個人的出来事に関する感慨に加えて、社会的な趨勢に対する感慨についても、合わせて述べておきたいと思います。
それにはまず、世界的な「#MeToo」運動に見られるような、いわゆる「セクハラ」行為への女性たちの勇気をふりしぼった告発の広がりがあります。そして、それに伴ってあぶりだされてきている、ことにその極である「レイプ」の認識について、とくに男と女の両者のそれの、気味の悪いほどのギャップが露呈してきています。
それは、例えば、自分の娘に「レイプ」を繰り返した父親に無罪判決(2019年3月26日、名古屋地裁岡崎支部判決)が下されるという、日本社会のいかにも“異常”とさえ受け止められる現状に触発されての視点でもあります。
こうした自らと、世界や日本社会との両面にわたる性をめぐる認識や受け止めの隔たりについて、本稿は、そこにはなにやら、見過ごすわけにはゆかぬ、誤認――まして自分の性別への盲信――やからくりがあるのではないかとする見解です。
「男」という役割
まず私自身の「枯れ行く」感慨から手を付ければ、それは間違いなく、私の健康維持の自流の取り組みの産物と言えるものです。つまり、その「枯れ行き」が、加齢による健康悪化に伴なうものとするなら、それは一種の病的状態で治療行為がほどこされるべきものであって、ことさらな感慨や、まして「爽快感」なぞとして注目できるはずもないことでしょう。
それが私の場合、幸運も手伝って、まもなく70台も半ばになろうとするのに、ことさらな病的症状は、今のところ、到来してきておらず、平均以上の健常状態をエンジョイすることができています。
この健康も維持できながら「男という役割」にも一線を引けるという同時進行が、どうやらその「爽快感」の源泉であるようです。
そしてこの「男という役割」というのは、どうやら、これまでの人生の過程で、そうとう人為的かつ巧妙に植え付けられてきたもののようであることです。
そこでですが、自らの過去を振り返り、この「男という役割」をめぐるその震源とも言うべき、自分の性的関心の強さが念頭に浮かびます。そして、子供の時分から、自らのもつおそろしく旺盛なその知識欲にもかかわらず、それを満たす機会がほとんどゼロに近かったことが思い出されます。ことにそうした機会は、風習的に、あるいはもっと明示的に「成人向け」と称して、あの手この手の禁制がありました。そしてだからこそ、そうした知識欲はその禁制をぬっての闇ビジネスの餌食とされ、その結果、いかにも不健全で歪んだ、時には暴力的でさえある一連の情報や行為によって汚染されてきました。
こうした性の情報の歪んだ実態について、まず、それを「官製の統制」との角度から論じた、以下の引用を紹介したいと思います。坂爪真吾著の『男子の貞操――僕らの性は、僕らが語る』(ちくま新書)からの引用です。
僕たちの社会は、「何がわいせつに当たるかは、国家が決める」という、特殊な社会です。国家が、司法の場で「わいせつ物」と「そうでないもの」の線引きを行い、その基準に従う形、あるいは反発する形で、民間の企業や個人が、性に関する作品や商品、サービスをつくり出すという構造があります。(中略)僕たちは、一見、自分の意志で、自分の好みの〔裸体やヘアーと言った性的な〕記号を選び、自分の手で射精をしている、と考えています。しかし、現実には、お上によって、直接的・間接的に産みだされた記号を、無意識のうちに選ばされ、勃起、射精させられているのです。〔p.23〕
この本は、読んで明瞭なごとく、国家と闇の勢力が結託して、若く尽きないそのエネルギーを、あらぬ方向へと向けさせる、その異様さを指摘するものです。
この書をこの分野の一例として挙げ、さらには、それこそ多数の分野におよぶ無数の書物があって、実用書、ビジネス書、人生指南書、健康相談書、そして深みを装う思想書などなど、現実社会に適合する処方を説いた情報の膨大な蓄積があります。もはや、個人の力量として、その圧倒的物量に抗しうる可能性なぞ、望む方が非現実的というものです。
つまり、そうした一連の仕組まれた情報操作によって、男たちの「射精」というひそかなプライバシーはおろか、その人生そのものも、「お上による」統制を脱せない状況下で演じられているわけです。
実は、私が自分の人生において、やむにやまれぬ自分の性的衝動を伴って体験してきたことも、あるいは、そうした行動にもとづき、自分の伴侶の選択の一部をなしてきた姿勢や振舞い――顕著に恋愛ストーリーの糖衣をまぶしていた――も、すべてがそうした環境と無関係には形成されえないものでありました。それがまさに、自分の人生についての、それこそ「情けない」宣言へと到達する道程でありました。
もし女だったら
さて、そのようにして成人し、「男」たる定形を身に着けて社会に出、仕事というものに従事し始めたわけですが、そこで遭遇したのは、今の言葉で言えば「パワハラ」の世界でした。つまり、ある使用者の下で労働する契約は結んだ意識はあったものの、その契約以外のこと――例えば無給の時間外や休日労働とか、上司の私的な作業に使われるとか――をさせられることを承諾した意識はなく、したがって、そうした一連の理不尽さへの自ずからの反発でした。
そうした体験から、私はやがて、そうした理不尽に取り組もうと労働組合の仕事をするようなったのですが、要するに、そうした体験とは、男社会がひとりの男に加えた権力行使、つまり「パワハラ」でありました。
さて、私は「男」でしたからその程度で済みました。しかし、もし私が「女」であった場合を考えてみると、私に加えられた「パワハラ」に、さらに「セクハラ」の要素が含まれていたとしても、それは決して異例なことではなかったでしょう。
例えば使用主たる会社が行う何らかの宴会の席で、上司に酒を注いで回わらなければならない――あるいはそう推奨されている――ことは、それが“仕事”に含まれていることとは受け止められず、“変人”を装ってそうしないでいました。これがもし、私が女であった場合、酒酌はおろかはるかに際どい役割も、大きな当然視をもって強いられていたことでしょう。
また、最近の「就活」に際して発生しているという、男の先輩による後輩女子学生へのセクハラも、その先輩が、日々、自分も体験させられているパワハラに無頓着――あるいは、当然としての忍従――であったなら、単なる日常体験の延長として、より弱者にそれが強いられるという、当然にありうる行為なのでしょう。
さらに、国家の権力執行機関の一部である裁判所において、当然、そうした国家パワハラ組織にとことん鍛錬され、選び抜かれた裁判官らにとって、娘をレイプする父親の行為についても、自分の努力や忍従と比較して、違法とすべきほどに特異な行為とは考えられないのでしょう。
どこに消えた積立金
さて、そうした時は流れて私も今は「高齢者」と呼ばれる域に達し、自分の弱みとして逆手取られてきた性的衝動もようやくにして枯れつつあって、冒頭の「敗退宣言」へと落ち着くに至っています。
加えて、健康維持について、幸運とその大事さへの気付きもあって、その維持に努めてきた積み重ねが、いまや、少なくとも薬や通院に頼る必要のない、「元気高齢者」として結実しています。
しかも、私が現役時代、言わば長期間の勤労への褒賞――当時は「えさ」と聞こえました――として構想された年金についても、そのうたわれた支給年齢に健康状態とともに達して、その「褒賞」をフルに享受できるに至っています。
そこでですが、この文章を読む若い世代の人たちは、そうした年金受給者をうらやんだり敵視する前に、どうか、そうした「褒賞制度」すら廃止あるいは事実上無用にし、欲しければ自前でそれを準備せよと、自分の健康までをもいっそう犠牲にしかねない仕組みへと誘導する企てに目を向けてください。そして、そうした仕組みには、くれぐれも用心して臨んでください。
ちなみに、現行の年金制度にしても、私が就職した頃(1960年代末)に設立されたもので、その際、当時の労働省はそうして月給から保険料を強制徴収する理由を、それは国が責任をもって管理し、長年にわたって積み立てられて利子がつき、将来に定年退職した時、年金として死ぬまで支払われるものだ、と説明していました。それが今や、現在支給される年金の原資は、現在の若い世代の支払いに拠っています。即ち、私たちの世代が幾十年にもわたって積み立てたはずの膨大な資金は、いったい、どこに消えてしまったのでしょう。
こうして私は晩年へと入ってゆきますが、上記のような、自分の「敗退宣言」と自分の健康状態の共存は、けっして偶然の一致ではないことです。つまり、もし自分が雄々しい男として、「敗退」ではなく「勝利宣言」を当然視してきた者であったならば、そうした共存は難しく、その雄々しき宣言も、不健康と背中合わせのバイアグラ依存者の空文句に等しいものになるに違いないのではないか、と想像します。
そこで至る結論は、「枯れること」でようやく見えた来た、「性という役割」のからくりへの気付きと、それによって、様々なハラスメントの自己版である「自分ハラスメント」をどこまで自己回避しうるのか、それに尽きると言えましょう。
性とはどこまでも自分の内の微妙に「移ろいゆく季節」であって、国家機構の役割を代行する勇ましい道具なぞでは決してないでしょう。