《伏魔殿》たるアメリカン・デモクラシー

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その18)

前回にケネディー大統領暗殺にまつわる私の17歳以来の模索について触れましたが、この訳読を通して「アメリカの本性」に踏み込めばふみこむほど、いわゆる「アメリカン・デモクラシー」がいかに複雑、怪奇で、底なしの泥沼のごとくに足をすくわれるもの――その最大例がケネディー大統領暗殺――であるのか、そのまさに《伏魔殿》たる実像がしだいに浮かび上がってきています。

一方、ドイツは、日本に似て、人には恵まれていても資源に乏しい国です。そんなドイツが、一度ならず二度も世界大戦を起こしえたのはなぜなのか。日本が火をつけたアジア太平洋戦争は、南進して石油資源を確保することがまず条件でした。そうしたドイツに、石油資源のみならずその資金を供給したルートはあったはずです。

ここに、そうしたアメリカの《伏魔殿》と、ドイツへの資源供給をめぐる謎が、一つの事象の二面ではないかとの推察として浮上してきます。

今回の訳読は、そうした、ドイツにはアメリカとの結び付いた背後のリンクがあったという、そうした歴史の暗部をひも解いてゆく考察です。

繰り返しますが、それほどの《伏魔殿》であるからこそ、前回で引用されている暗殺2年前のケネディー大統領の警戒の言葉の意味合いが、以来半世紀も経た今さらながら、いっそう深く納得されてきます。

それを認識すればするほど、同大統領やその同調者はさぞかし無念であったかが推し量れますが、そうした経緯や実情を内部から知るアメリカ人ならなおさら、この無念の気持ちは深淵であるはずです。

それと対比すれば、日本の民主主義は、自家製ではない舶来ものですし、ケネディー並みの政治家を選んだこともなく、暗殺されるに足るリーダーがいないどころか――ただ、田中角栄は「半暗殺」にはされた――、戦後、天皇を生かしたままで取り込んで、日本社会の丸ごと属国化に成功している「ダブル・フィクション」の定着を思えば、まだまだこの国は、地球家族の一員としては、高齢化先進国どころか、思春期以前的であるとも自任すべきであるのでしょうか。

他方ドイツは、ナチの戦争責任を明瞭に清算し、みごとに戦後国際社会へのデビューを果たして、今では、EUを率いる近未来的国際リーダー国となるに至っているかに見えます。

ちなみに、ドイツの「母さん」たるメルケル首相の堂々かつ包容力あるリーダーシップを遠望するとき、日本に彼女に相当する女性首相が誕生するのはいつのことかと、一度のみの敗戦体験――国家的挫折と復興との意で――しか持たず、かつ「思春期以前」の日本の、育った環境や歴史の違いの特性を目の当たりにさせられる思いを強く抱かされます。

しかしです。そのドイツも、その経済を担う自動車産業の冠たる主役の一人、フォルクスワーゲンが、実に奇態な産業スキャンダルを自ら起こし、ドイツ経済の屋台骨を揺るがしかねない事態すら生んでいます。この軌道を逸した企業奇行の起こりは、いったい、単なる経営判断の誤りの次元の問題なのだろうか、と「エソテリック」な疑問がわいてきています。

ひょっとすると、そうした産業と政府(VW株の2割は州政府所有)との関係をはじめとして、過去の歴史がいまだに巣喰う、悪しき遺産という背景がドイツに“も”あったのではないか、との憶測をもってしまいます。《ナチの亡霊いまだ消えず》とでもいった具合に。

そうした、今日まで顧みられてこなかった、戦後の世界形成の見落とし面を見る思いで、今回の訳読は読めて行けるはずです。

では、そうしたドイツとアメリカをめぐる見えないリンクたる「第四帝国としてのアメリカ」へとご案内いたします。

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