《時空トラベル》という究極の試み

この先「四分の一」へ向けた“旅”構想

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「私共和国」に掲載してきた《四分の三プロジェクト》の計画作業がようやく煮詰まって、その骨格が《時空トラベル》との呼び方で形をなしてきました。それを契機に、今回よりサブタイトルを「《時空トラベル》時代  =旅立ち編=」と改称し、その進捗具合をノートし始めています。その初回は「《時空トラベラー》という過客」とのタイトルです。

そういう次第で、いよいよここに始まる《時空トラベル》なのですが、何やらSF風な響きのあるそのトラベルとは一体どういう“旅”なのでしょう。まさか、タイムトラベルのことを言っているのではないでしょう。

ところがです、私は本気で、これが、まさにSFで言うタイムトラベルにも通じるその第一歩と考えています。つまり、タイムトラベルはこうして実現するかも知れないのです。

 

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ところでその一方、先に私は『自‘遊’への旅』という本を出版し、これも「旅」への誘いを述べました。

では、その《時空トラベル》とこの『自‘遊’への旅』とでは、同じ「旅」でもどこが違うのでしょう。

その違いの核心は、旅の「人称」の違いにあります。すなわち、前者の旅は、少なくとも「二人称」でなす旅であり、後者の旅は、一人称の旅であることです。つまり、前者の旅は人――大自然はその人の母体――を訪ねる旅で、後者の旅はどこまでも自分が魅かれる物象が目的の旅であることです。

また、その違いをあえて飛躍して喩れば、前者の旅は「東洋的旅」であり、後者の旅は「西洋的旅」です(この議論については機会をあらためて述べます)。

 

ところで、私にとってのその「訪ねる人」とは、時に、人の在りようを訪ねることでもありました。つまり私はこれまでその在りようのひとつ、人の健康について、そうとう念を入れて関心を注いできました。その当初はほんの常識的な意味での健康志向として考える程度でしたが、それが次第に、健康を単に「非病」状態と受け止めるのではなく、健康をさらにアイデアとしての《健康》に進化させることで、人生の意味を新たに創造することと同義であると考えるようになってきています。

そうした私の「健康観」にまつわる見方の移り変わりについては、この一月に〈「私の健康観」 v.3〉にまとめました。

つまり、《健康》を、「非病」状態という受け身なものから、能動的かつ創造的なものへと進化させて捉える時、それはもはや、健康の回復にとどまらず、あらたな「人生観」を生み出すことにさえ至るのです。

さらに、歳月がそれを推し進める加齢あるいは老化を、「不健康」状態の進行であると捉えると、健康から不健康への変転は、時間によって変化する関数との捉え方ができます。だとすると、健康を回復、維持するということは、「時間を取り戻すこと」とか「時間を止めてしまうこと」を実質体験するに等しいこととなります。

言い換えれば、いわゆる「歳相応」といった考え方は、歳つまり時間の関数として人の在り様を捉えているということの証左です。つまり、健康を焦点とすることで、そういう世間常識に「さおさす」ことも可能なのです。

たとえば、私は現在、暦で数える年齢としては75歳ですが、人が私に接して受ける印象としての年齢はもっと若いようで、たとえば仮にそれを65歳としましょう。そこで、この10歳の差は何なのか、ということとなります。

あるいは、日本人のいわゆる「健康寿命」は、男の場合、72.68歳(2019年時)です。その意味では、75歳の私は、もう、何らかの介護を受けていても当然な、越「健康寿命」人間なのにピンピンしています。

そこでこれは私の造語ですが、《獲得年齢》という、実際に自分が持っている身体や知能の総合力として考える歳の数え方です。そして私たちが実際に毎日を生活しているのはこの《獲得年齢》、つまり上の仮の話でいうなら65歳であり、75歳の暦年齢が問題になるのは公的書類上の時くらいという話になります。

すなわち、健康を《健康》とレベルアップして捉え、それを高めてゆくことで、暦上の時間の経過より、事実上、短くさせることができるのです。上の10歳の差とは、こうして縮めた時間が10年間ということです。

こう考えると、何やら、アインシュタインの相対性原理――光速に近い速度の宇宙船で宇宙旅行から帰ってきた人は若返っている(日本の「浦島太郎」の話も同類です)――の話をしているみたいになってきました。

ゆえに、「健康寿命」を伸ばすとは、それだけ、時間を縮めたということなのです。

 

ここで一例をあげてみます。

私は3年前、72歳の時に、ヒマラヤの奥地を訪ねるトレッキングに挑戦しました。それは、世界第3位の高峰カンチェンジュンガ山(8,598m)を氷河越し望むゴチャラ峠――インド、シッキム州にある標高ほぼ5000mの峠(下図)――に登るものです。そしてその結構きつい行程を無事終えた時、案内してくれた山岳ガイドからその達成を祝ってこう教えられました。私はそこに達した、男としては世界最高齢者(女性では73歳のニュージーランド人)だと。

【赤点線が8日間のトレッキングルート】

すなわち、こうした、いわゆる「歳に似合わぬ」体験こそが、暦上の年齢とは異なった《獲得年齢》の言わば醍醐味で、それが、上でたとえた「10歳の差」ということです。

このようにして、《健康》の度合い次第で、人の《獲得年齢》には大きな差が生じるということで、極端な話では、暦年齢100歳でありながら《獲得年齢》50歳ということもありえます。この100歳者の場合、一年を生きながら半年しか歳をとらないということです。つまり、毎年、半年づつ時を縮めている――換言すれば《健康》によって創造されている――ということです。それこそ、50歳にして100年昔を知る者ということであり、これは、50年間を「タイムトラベル」したことそのものです。あるいは、50歳の人生を二つ体験することと考えれば、もう一人の自分を生きるという、まさに超現実を体験する話でもあります。

 

そこまで極端な話に頼らなくても、例えば75歳の者が、45歳の差の30歳の若者と何らかの人生上の接点を持てたとします。すると、そこに《健康》によって維持されている――少なくとも《獲得年齢》上の――シェアー可能基盤をもとに、その両者の間には、それだけの時間の隔たりを越えた接触、すなわち「タイムトラベル相当の体験」が生じているということです。

すなわち、その接点のもたらす触発を通じ、片やの75歳の者は、45年前の自分をその相手をつうじて現在に再体験でき、30歳の者は、45年後の未来の自分をその相手を通じて今に――たとえ「疑似体験」と呼ぼうとも――体験できることです。

このように、《健康》とは、年齢の違いに橋を架ける共通基盤の創出を意味します。言い換えればそれは、その違いの間に通じた《回路》とも表現できるものです。

つまり《健康》がゆえに、それだけの時間を超越できる回路――SF式に言えば「ワープ〔空間のゆがみ〕」を――を作り出しえているのです。

これはまさしく、《健康》とはタイムトラベルのための「スペース・クラフト〔宇宙船〕」でさえある、ということです。

そしてもしそうであるならば、これを使わない手などあり得ないではないか、と言うことです。

あるいは、私は十年ほど前、「共闘」という古い言葉を引っ張り出し、「老若共闘」と称して世代間ギャップを越えた交流や協働の可能性を考えたのですが、こうして見てきた「タイムトラベル」は、まさにその「共闘」の有用性をも表しています。しかも、おそろしく未来的に。

 

さて、以上のように考えをめぐらせて現実の自分に立ち還ってきた時、自分の《健康》に関する私的現実は、別記のように綱渡り状態にあって、確かに、私に許されている健康資源はそれなりに限られてきています。それだけに、果たしてそれをどこまで生かして活用し遂げ、この《時空トラベル》をどれほど楽しんでゆけるのか、容易でない話であるのは間違いありません。そうなのですが、実にわくわくもさせられています。

ならば、まだそんな「綱渡り」の必要すらないはずの若い世代の人たちには、自分の暦年齢に甘んじず、ゆめゆめ浪費なぞすることなく、《獲得年齢》の獲得を念頭に、《時空トラベル》を共有してもらいたいと切に望むものです。

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