今回の訳読をもって、原著者ブラッド・オルセンが「エソテリック・シリーズ」と呼ぶ二著書のうち、その第一巻『「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性』(Future Esoteric)が完結します。
「エソテリック」とは、まさに語義通りに「難解」な概念ですが、そもそも、このうとんじれられきた概念に焦点を当てることが本シリーズの真意で、むろんそれは言葉の問題であるより、視野のすえ方の問題であり、現実世界への実に根本的な問いかけのこころみです。むろん、それが、本シリーズが書かれなければならなかった理由です。
そこでまず、前回に続き、訳語についてのコメントですが、この訳読では、一般では用いられていない、ある特殊な用語を用いています。それは、原語の「spirit」とか 「spiritual」と表現されている概念を「霊理」と訳しているものです。本書の早期の訳読部では「霊性」と訳している箇所もありますが、俗に「超然現象」と言われている《科学では非対象》とされている分野におよぶ、私たち人間のもうひとつの能力です。
こうした訳者独自の用語の使用は、翻訳ルール上は禁じ手行為ですが、あえてそういう私独自の単語を造語してそれを用いています。というのは、原著者もこの「結語」の章の「常に自分の熱意に従おう」の節で強調しているように、本「シリーズ」が「エソテリック・シリーズ」と称されているのも、《非科学的》として排除されてきた領域にあえて焦点を当てる原著者の根源的チャレンジがあるがゆえです。従って、その分野の扱いは、このシリーズ執筆の意図にも関わるもので、その着想を厳密に扱いたいとするのは当然の帰結です。ことに、一般に定着した言葉はでそうした着想を表すには寸足らずで、これが、この禁じ手をあえて行っている理由です。
そういう脈略では、本シリーズの存在理由は、《「非科学的分野」の科学的包摂》にあると言えます。
私も、同様な着眼をもってきており、それがゆえに、その「非対象分野」の存在に注目し、このシリーズの訳読に至ってきているわけでもあります。なお、そうした私独自の分野開拓の経緯については、別掲の『「霊理学」という新分野』で述べてあります。
前回のこの解説「東西ギャップ」で、原著者の言葉遣いについて、ある種の「説教臭さ」があると指摘し、私と原著者の間のギャップの存在を取り上げました。この最終章では、著者もそうした宗教臭の漂う内容に関し、自分自身は、両親ゆずりでもある、無神論者であるとの立場であることに触れ、いわゆる布教的意図から来ているものないことを明言しています。
そういう意味では、そうしたギャップの感覚は生きる世界の違いに由来する表現様式の違いの問題であったことがはっきりしてきています。そして、この最終章を訳読して、私と著者の目ざすゴールには基本的違いのないことが確認できたとの認識に至っています。いわば、互いに隔たった二点より、同じ発想をもって互いに歩み寄っている、そうした印象です。
それでは、「結語」の章へ、ご案内いたします。
なお、今回、原書の末尾の「参考文献」と「謝辞」の章も、合わせて訳読を済ませました。
また、次回からは、同シリーズの第二巻『現代の「東西融合〈涅槃〉思想」』(Modern Esoteric)の訳読に入ってゆきます。ただ、その目次に示してあるように、すでにこの第二巻の一部に訳読済みの章があります。今後、未訳読の各章を、順次、進めてゆきます。引き続いてのご期待を。