本書へのイントロ(その1)

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その14)

 

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本書へのイントロ(その1)

 

「準備ができると、人々は変わり始める。それ以前には、そうはならないし、時には、そうする前に死んでしまう場合もある。だが、人々が、望んでいない時と同じように、変化を望み始めた時には、誰もそれを止めることはできない」 ――アンディ・ウォーホル(アメリカ人芸術家、1928-87)
 

本書の主題であるエソテリックについてのこのイントロでは――本エソテリック・シリーズ全体にも拡大して――、まず最初に、用語を定義しておく必要がある。エソテリックの単純あるいは字義上の定義は、極めて少数の選ばれた者だけが知っている秘密かつ理解し難い知識や情報のことである。本シリーズでは、エソテリックとは、隠されたものや禁じられたもの、ことに科学に敬遠され、一般的な文化的パラダイムによっても脅かされている情報であり、それには、架空のもの、幻想的なもの、または奇妙なものといったレッテルが付けられている。エソテリックな主題を探索する者は、すでにそうした定義からして、少数者である。〔エソテリックな視点からは、〕学校で教えられ、マスメディアに取り上げられる普通の言説でもって世界を厳密に理解している人を、エクソテリック〔通俗的、理解しやすい〕と定義し、そうした人たちはこれらの〔エソテリックな〕主題を信じられないとするか、ことさらには探求しようとはしない人たちである。この本は、私たちの起源、歴史、主要機関の腐敗に関する極めて重要な情報が意図的に否定されていると考えている人々に、その視野を拡大するために提供される。

私たちが学校で教えられている科目は単に「事実の断片」であり、他の疑似事実と混ぜ合わされ、ほとんど、迷宮同然化している。それは、人間の知識が意図的にこれらの迷宮に導かれ、強固な壁で囲まれており、人々はその埒外に置かれているようなものである。法人企業によって乗っ取られた事実の追求は、利益のための――普遍的な理解のためではない――手段と化している。屋根裏や地下室やガレージで開発された新知識をもち、それを公開しようとしている(そうした利権にかかわらない)独立した研究者――通常、企業に買収されるか、「国家安全保障」の名の下で黙らされるか、嘲笑のうちに無視されるかのいずれか――は、ほんの数えるほどである。

秘密の操作技術をこきおろす情報をブロックし、一般的な人々のエクソテリックな心から特定の高度技術の利用可能性を隠したままにしておこうとする “ファイアウォール”――強力なエリートによって支配されている――が設置されている。結局のところ、グローバル化計画は、暴露によって敗北の可能性にひんしている。そうした グローバル化計画に効果的に抵抗するためには、まず第一に、その主権と自由を奪う制度を自分たちに知らせなければならない。次に、強制を感じる人は、これらの破壊的な意図について、友人、家族、隣人を教育し、米国憲法を守るための支援を求めなければならない。そして、常に知識は力であることを忘れないでいよう。

今日の現実の世界は、私たちが、主流のメディアや既成の教育を通じて教えられてきた世界には、ほど遠いものがある。私たちのほとんどは、単純に、働き、食べ、呼吸し、そしてまるで夢遊病者のように現代生活を送っているという世界に生息している。 私たちはそもそも、現実には最初から存在したこともない「幻想」現実の共有の中で生きている。私たちは集合催眠状態に引き込まれている。

包括的な視点を得るためには、私たちは、自分が知っているあらゆることに疑問を呈し、初めから出直す必要がある。例えば、宇宙はどこに位置しているのか? まず、すべてを問うことから始め、周知されているような人生の「通常の物語」として現在受け入れられているすべてのことに疑問を呈しよう。あなたが今読んでいるこの本のこのページは、単にひとつ認識にすぎない。言語や慣習は、それがすべて私たちの外の外界に存在するとされる。その一方、私たちは意識と相互作用していない認識は何もないと主張できる。知覚された画像は、現実であって想像ではなく、ある場所で物理的に起こっていることである。人間の生理学の説明はこれをあいまいさなく論じている。目と網膜は電磁力負荷を運ぶ光子を集め、実際に画像として知覚されるまで、脳の後部に通じる重負荷回線を通って伝えられる。そうした画像は物理的には脳後部で発生し、特別な――天の川銀河の星のマトリックスと同じような膨大で迷路のような――部分をなす松果体のような周りの部位によって増強される。エステリックな説明によれば、脳のこの領域は、実際の色や形や動きが「発生する」場所である。これが、知覚されたり認識されるということである。ただそうではあるが、それらは単なる画像である。あなたが意識的に、その輝きエネルギーで満たされた脳の視覚的な部分に意識的にアクセスしようと試みている限り、それは容易なことである。あなたはそれを一目見るだけで、すでに即座に認識しているのである。

 

対抗言説

本書に述べられたすべては、人々の想像力の産物であり、かつ、今日の時代思潮をなし、今の時代にあっては古代ギリシャがそうであるように、将来の時代には、豊かな民間伝承の遺産として記憶される可能性がある。ただ、これらの主題のなかには、「灰色の」虚偽情報として作成されたものがあり、それらは、エリート権力、マインド・コントロール、ジェノサイド、優生学、秘密の宇宙計画などの問題を、狭く抽出したり広範な真実を隠蔽することで、紛らわせたりそのごまかしを意図したものである。

虚偽情報とは、反対側の議論を混乱させたり弱めたりするために、問題の一方の主張者による、故意に歪められた情報のことである。「DDT」すなわち 「Decoy、Distract and Trash〔おびき寄せ、混乱させ、くずにさせる〕」テクニックは、抱かされた疑問を解くための手がかりとなる。金を受けとっている数千のDDTブロッガーは、政治的キャンペーンに関わり、通常、真実を明らかにしようとする者を混乱させ、信用を失墜させるためにブログしている。その手法は、そうしたDDT一味たちがあたかも真実めいた情報を流しはするが、それは完全な真実ではないことである。かくして、そうした情報は真実から人々の目を「そらし」「混乱」を作り出す。そうした「くず」同然とされた情報こそ、目下攻撃にさらされている問題の情報である。そうしたDDTの目的は、その話題の信用をなくさせることで、知識人をいわば信者の教団として一般世論――情報の洪水に漬っている――から分断し、反情報を引き続いて拡散することである。公然であろうと非公然であろうと、政府の権力者が、民衆を惑わせ、なだめて地ならしし、自分たちが望む方向に彼らを向けるために、反情報工作者を使うのはなにも新しいことではない。それはいかにもけしからんことあるが、私たちは、そうした典型的なDDT工作に捕らわれることなく、その経験から学ぶことは可能である。極論を説く対抗言説に走ったり、あるいは、一般世論との中庸に陥るのは容易なことである。だがいずれにしても、人々はクソ味噌一緒にしてすべてを捨て去り、対抗言説の全てをナンセンスだと思ってしまっている。

この未啓発な時代にあって、学校生活を送るすべての子供たちに繰り返し言わなければならないことは、理念上、以下のようなことだ。

君たちは教化過程にある。我々は教化過程でない教育システムをまだ完成していない。気の毒だが、それが我々ができる最善である。君たちがそこで教育されていることは、現在の偏見と特定文化がもつ選択の混ぜ合わせにすぎない。歴史を一見すれば、それが永続的でないことはすぐ解る。君たちは、前任者によって定められた思想体系に適応することができた人々によって教育されている。それは自己保存のシステムでしかない。他の誰よりも力強くて個性的な君たちは、退学し、自分自身を教育する方法――自分自身の見解を自分に教える方法――を見つけることが望まれる。そうしないで居残る人は、常にそして永続して、この特異な社会の狭くて特定な必要に合うように鋳型にはめられ成形されていることを忘れてはならない。

私たちはばか者である、と言われていることを想像してみよう。その理由は、私たちはその3000年の歴史の中で、人間の姿をした蛇や近親相姦に関わってきたとは信じておらず、また、私たちは地球の生命が他の惑星から持ち込まれたとは考えようとすらしていないからである。現代にあっては明らかに、組織的な宗教はすでにその存在意義を無くしかけているが、幸いなことに、真実を求める人は決して減少していない。真実は永遠に続く不滅の支柱である。加えて、科学者は「創造主」の一部――たとえその姿がなんであろうと――にはなれないと、誰が断言できよう。「神」といった言葉は、それぞれの人生を生きるそれぞれの個人に固有の主観的な受け止め方で満たされている。それぞれの人は、彼ら自身の自由意志にもとづく独特な認識をもって、彼らが生きている世界を様々な方法で考えている。私たちがいったん教えられたことに疑問を持ち始めたら、あらゆることが同様に見えてくる。宇宙が全き存在であることは自明である。他の惑星や星がそうであるように、あなたも存在し、生きて呼吸し、成長し、進化し、銀河自体も巨大な量子の大海の中で泳いでいる。私たちが、結局その意味が何であるかを考えるなら、私たちのどんな野心的な夢をさえ超えて、それが生きていることを発見できるであろう。

 

本書『現代のエソテリック』は過去に立ち返る

本書は、私たちが誰であり、人間がどこから来たのか、そして、私たちの最大の未開拓の分野、即ち、人間の心について、全地球的な諸説を論じている。歴史上の文書は、私たちにすべての話を述べているのだろうか。エソテリックな探究は、それにことごとく「否」と返答する。地球上の文明は、私たちが信じているものよりもずっと古い。 私たちの学校の教科書には、6000年前のシュメール文明はほとんど取り上げられていないが、少なくとも、ジェリコやもっと最近のトルコのギョベクリ・テペの遺跡での考古学的発見は、文明の起源を紀元前10,000年までさかのぼらせている。しかし、もし文明がさらに1万年、あるいは10万年、あるいは何百万年もさかのぼるとすればどうなのであろう。神秘的伝説や古代文献は、はるか大昔の大変動によって消え去ったレムリアやアトランティスの大陸など、非常に遠い過去に消滅した文明すら述べている。

現在のトルコのギョベクリ・テペにある巨大な石柱の宗教施設が、実際には「Encino Man」〔1992年のコメディー映画のタイトルで氷河期の洞窟生活人の意味〕によって建てられたものであるとの発見について、ナショナル・ジオグラフィック誌は、それは、「ボーイング747が誰かにより地下室においてX-Acto ナイフ〔工作用ナイフの商品名〕で作られたと発見されたに等しいほどのことだ 」と説明している。(with permission, (c) Brad Olsen, 2016)

認知された歴史上の見解の中でさえ、完全に隠蔽されてきた高度な諸文明があり、例えば、ギョベクリ・テペの神秘的な考古学的集積は、更新世(約258万8,000〜1万1,700年前)の終わりの1万1,600年前に建設されたものである。また、南アフリカでの最近の発見は、ギョベクリ・テペよりもさらに遠い更新世へと考古学的発展をさかのぼらせさせている。最近発見され議論されているものでも、ボスニアのピラミッドや 「古ヨーロッパ」文明があげられる。さらには、しだいに再発見されてきている南米やアマゾンの伝説的な失われた 「黄金の」都市がある。また、「アンティキティラ島の機械」やその他の不可解な 「ハイテク」人工遺物といった、注目される失われた技術の例もあげられる。政府は、何十年にもわたって――おそらく一世紀以上にもおよんで――これらの特異事例を知っており、かつて地球を歩いた巨人だけでなく古代異星人の証拠など、過去の秘密の情報を厳重に保管しているはずである。

アトランティスという先進的な文明があったことを忘れてはならないが、そこから多くの謎が聴こえてくる。その後世になって確かな文明として出現した諸社会は、これらの古層の上に発展し、エジプト人、インダス文明、マヤ、インカなどとなった。文明となる時が遠くなればなるほど、その知識はより高度になっているように見える。アトランティスの生存者たちが、最終的には世界中で発生した壮大なエソテリック文明を作り出したという証拠がある。彼らが所有していた知識は、多くの神聖な場所で使われていたシンボル、寺院、ピラミッド、天文学の知識、神聖な幾何模様などに見ることができる。それは、人類の歴史の中で、エソテリック性が人間社会や生活の中心であった時代であった。その時代、それは全然「エソテリック」はなく、「エクソテリック」であり、すべての人にその利用が可能であった。インドのリグ・ヴェーダやエジプトのピラミッド・テキストなど、大古から生き残ってきた教えの中には、これらの古代文明の遺産と思われる崇高な精神的メッセージが含まれている。ある時点で、エソテリック性は非公認となり、現代まで、記録された歴史においては、長く暗い歩みを強いられてきた。これらの主題とその他の多くのものが、本書の冒頭の「ライフオロジー」の部の焦点になる。

ETが話題とされる際、どうして私たちは攻撃を受けたと思ったり防衛の必要を感じるのだろうか。ある人は、防衛すべき強い自我を持つ全能の人間であることを信じているために、今も今後も、我がか弱い地球人とETの相互の遣り取りを否定し続けるのだろうか。またユーモラスで空想的な見方からは、映画「猿の惑星」のように、猿同然の我が人間は、ローマ時代のローソク点火ロケットを地球近辺の軌道にのせ、それが自分でできる最高であると自己満足するのだろうか。だが実際には、過去も現在も、地球人と相互関係をもつETの可能性は他のどの説よりも説得力ある話となっている。すべての証拠をよく観測すると、古代ET説はそれについての他のどんな説よりも妥当であり、多くの謎の間隙を埋めている。そのどの証拠も、異次元からの未知の生命の存在を示している。ETやUFOの資料の大部分は、本シリーズの姉妹書である『Future Esoteric: The Unseen Realms』〔邦訳『「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性』〕で取り上げられている。この姉妹書は、多々のトピックの中から、将来を見すえた視点より、UFOとETついてのエソテリック研究を探究したものである。だが、古代ET説は、本書においては、私たち現代人にとっての対抗言説の一部であるがゆえに、「神の血」の章で扱われている。

端的に言って、1897年、テキサス州オーロラで報告されたUFOの墜落を含め、歴史上では、様々なUFO事件が起こってきた。科学者たちがそうした墜落の残骸を調べた結果、彼らは、我々がアルミニウムと呼ぶものと同じ構成成分ではないタイプの「アルミニウム」を発見した。これが、アメリカ人による、宇宙からの来訪者が極めて先進的な技術を利用しているとの発見と認識の始まりであった。2巻からなる本シリーズの前巻は、重力と時間を無化したエネルギー場を飛行するUFOの動力学に言及している。そしてそれは、そうした飛行物体がどうして着陸せずに突然停止したり、それらの飛行物体の目撃者や拉致者が時間を失ったりするかの理由を説明している。未来を見通したUFOやET問題の展望図は、その姉妹書の中で詳細に論じられている。

本書で論じられるように、最近の考古学的発見は、人間文明がETに由来するという見解だけでなく、その進んだ文明が、我々の歴史文献に記されるはるか以前から、この地球をその故郷としてきたことを裏付けている。さらに、主流科学とその研究機関は、そうした真実を物語る遺産を隠蔽することに努めてきた。加えてそれは、「古代ET」を現在のエリート階級に結び付けることさえ可能である。その見方の一例は、ETは、何千年も前に人類の遺伝子を変え、それが、現在のエリート富豪――世界を牛耳ろうとしているおよそ十数家の「血統」家系――へと引き継がれているとする。この見解によれば、そうしたエリートは古代の宇宙飛行士の物語を知っていて、彼らはおそらく天から降来してきたと信じている。だが、むろん彼らは、彼らの出自があばかれる他の秘密とともに、人類全体がこうした事実を知ることを望んではいない。こうした多くの見解は信憑性を増してゆくだろうが、繰り返しとなるが、読者にあっては、証拠を調べ、自らの結論に至られることが奨励される。

 

幻想を捨てる

歴史と同じく現実も、つねに物事は、見えている通りであるとは限らない。 私たちが知っているすべて、私たちが教えられてきたすべて、そして、私たちが私たちを人間として考えているその人さえ、私たちが見ているすべてが幻想である。人類が集団の催眠昏睡状態に入っていること、そして3次元体験全体が幻想であることが理解できるなら、あなたは昏睡状態から目覚め始めている。 オカルトの発想は、人類の昏睡状態は、「イグレゴア」――古文書で表現された「思考形式」または「集団的なグループ心」のこと――によって永続化しうることを示唆している。もし、あなたがこのようなアイデアをむしろ楽しむことができるなら、あなたの昏睡状態は終わっている。 あなたは魔王の考え方から解放されている。この種の気づきは、私たちが誰であるか、誰が私たちをコントロールしているか、そして地球上の私たちの本当の目的についての対抗言説につながってゆく。

あなたの元来の状態を、あなたを変化させ再生させる知恵をもって熟視すると、あなたがなぜここに居り、その人生が何であったかについて、今まで考えてきた疑問に答えるために必要である、あらゆる自由と開放が得られるようになる。あなたは、自身に質問をし、その答えを自分の心に聞いてほしい。そうすることは誰にとっても、困難なことではない。私たちにとっては、この狂乱状態――世界と誰もの体験を構成する――に拘束されそれを信じることが、自分が誰でありその人生が何であるかの答えであった。だがそれは、真実とはほど遠いものである。この壮大な幻想は大きな嘘にもとづき、それが真実に聞こえるまで、いく度もいく度も繰り返されてきた。

これを知った上で、焦点を当てるべきポイントは、私たちがただひとつのイメージ、ひとつの思考形態しか扱っていなかったことで、それは、3次元の操り人形や、抵抗者や、他者や、あるいは実質的な力を扱っていなかったことである。この世界における私たちの経験は、ほぼすべての人たちを罠に掛ける強固な幻想であったわけだが、それはまだ思考形態であり、精神的なイメージの一種であり、私たちはそれに操られた心を変えることができる。私たちは、法王、ロイヤルファミリー、ブッシュ家族、ロスチャイルド、ロックフェラー、あるいは居丈高な他の人物たちに焦点を当てれば、私たちが兵卒を率いる隊長にただ従っていただけであったことが覚れる。アレックス・ジョーンズ、デービッド・アイケ、マッコウや、レッド・アイスあるいはレンセの記事の同類者が、この戦争で隊長に従っていた時、戦争は長引き、拡大していった。魔王のイグレゴア集団心理の教祖は、誤った三次元思考プロセスとその経験に焦点を当て拡大された時、自分の隊長が攻撃されることを望んでいる。兵卒を率いる配下の隊長に対するこの攻撃は、文字通り攻撃すべき敵をより多く作り出す。そうした攻撃は、より多くの抵抗、より感情的なしがらみを作り出し、私たちを永遠に捕らわれさせてしまう思考形式にいっそう焦点をあてる。それはより多くの恐れと怒りを作り、知恵と理解を妨げてしまう。私たちが思考形式(昏睡状態と同様の考え方)に捕らわれているという気付きは、私たちが思考を変え、文字通り心を変えることができるということを意味する。これを行うには助けが必要で、最終的にこれは、私たちの本質にアクセスし、私たちの賢明な内側の声を聞くことができる精神的な規範に従うことによって可能となる。

 

真実を語ることは革命的行為

世界間のベールが薄くなって新しい時代を迎えている時、私たちの誰もが日々何回の嘘を体験ているのを考えてみよう。そして次に、あなたが知っている真実――安全保障上の宣誓をしているならばことに――を伝えるために公共の場に進み出る勇気があるかどうかを考えてみよう。さらに、あなたが愛する家族や友人と思う人たちの中で、あなたがいかに世捨て人になれるのかどうかを考えてみよう。一度その一歩を踏み出せば、あなたはもう引き返せないことを考えてみよう。

最終的には、真実は、一人ひとりが自分の心と意志をもって、ある時のその一歩を見つけるべきものである。形而上学的なレベルでは、私たち各々が自分の方法や形で真実を認識し、それは有意義なことではあるが、真実の内実は現実的には何ら変わっていない。しかし、今日の大規模な欺瞞の時代にあっては、真実を求め、見つけ出すことは、高度に属人的なプロセスであり、様々な形で突破口となりうる。

今日、西洋世界の文化や政治の行動の主な動機は、強欲であることを第一としているかに見える。今や、抑制のない赤裸々な強欲は道徳的原則を凌駕し、考慮される唯一の優先事となっている。そして、あらゆる人に値段が付けられている。これが、西洋世界において、それが持つべき明晰さを科学より奪っている理由であり、短絡現象を起こしている。これが、実のある論争や議論が起こらない理由であり、政治が劇場と化している理由であり、そして、西洋世界の諸制度への国民の信頼が急速に低下している理由である。しかし、それらの理由からの本当の教訓は、権力を握る寡頭政治家たちが、結局、正気でないほど愚かであり、多分、それが事実であることだ。加えて彼らは、金や権力の飽くなき追求にまみれている。それに彼らの自作自演の戦争行為は、もはや私たちには効果をなしていない。なぜなら、人々は、完璧にだまされていたという、極めて苦々しい結論に達しているからである。

懐疑論者は、公式発表に挑戦したり、対抗言説を試みたりすることができるがゆえに、広く人々に、現実の客観的な眼で見させる重要な役割を果たしている。実際面では、その見方はよく陰謀論と呼ばれ、ある出来事の公式または「主流」見解にたいする対抗見解として提示されている。問題は、誰が懐疑論者であり、何について懐疑的であり、何か隠された目的を持っているかである。したがって、懐疑論者が陰謀論をしりぞけようとする際、それを証明する手段として公式の説明に頼った場合、事実上、元来の「主流」見解を補強しているに過ぎず、実際には何ら懐疑的になってはいない。懐疑主義をこのように利用することは、常套的に、正しい見解と見せかける世論を形成するためには便利な方法である。実際、「特ダネニュース」や「暴露記事」が、極端な話題や大して注目もされていない陰謀論を意図的に取り上げたりするのはよくあることで、「死んだ馬に鞭打つ」とか「切り倒すための藁人形」とかと同じ趣旨の企てである。その意図は、「恐怖と不安と疑念(Fear, Uncertainty, and Doubt)」を注入することであり、この「FUD 要素」は、最終的には、あらゆる陰謀論(あるいは対抗言説)をまゆつば物に見させる役を果たす。9-11論争の際、あまたの出版物の中で、『Skeptics』誌や『Popular Mechanics』は、にこれを行った。それらは、9-11について多くの陰謀論のうちの10%にも満たないものを取り上げ、それらの明白な欠陥を悪用し、かつ重要な細部を削除することによって、〔陰謀論全体を〕あまり一般的でない枝葉な議論と見せかけようとした。そしてそれは、陰謀論を調査した「最終結果」として大々的に発表された。ここに、事件の背後で動く不審な人物を誰にも覚られないようにうやむやにする、完璧で便利な方法が見られる。

 

「エソテリック」とは何か

「エソテリック」には様々の側面がある。それを多くの人々は、マジックとか、アレスター・クロウリー〔英国のオカルティスト、儀式魔術師、1875-1947〕の作品とか『ハリー・ポッター』のホグワーツ魔術学校といった、ファンタジーの世界さえも「エソテリック」の一分野と考えている。また、ひとはそこに、知的または精神的な師を発見している。明確に「エソテリック」な主題を扱っているものもあれば、そうでないものもある。ゲオルギイ・グルジエフは20世紀初期から中期にかけてギリシア、アルメニア の影響力ある心霊的な師範であり、「エソテリック」な主題について多くの見解を著した。学生の意識を目覚めさせる彼の方法は独自で、中東のファッキー僧侶や、西洋の隠遁僧や、そして東洋の瞑想ヨガ師のそれとも違っていたので、彼の教えは当初「第四道」と呼ばれていた。彼は、その教えが「エソテリックなキリスト教」であると述べ、学んだことと知覚されることとの違いをこう認識していた。

教師の役割を自らに課す者の仕事の出来ばえは、その教えの出所を正確に知っているかどうかに拠るのではなく、彼の考えが実際にエソテリックの核心から来たものであり、 彼自身がエソテリック思考を理解し分化できているかどうかに拠る。すなわち、客観的知識による考察を、主観的、科学的、哲学的な考察とは分別することができるかどうかに拠る。

また、エソテリックな研究、隠された教え、あるいは公式には不信用とされる知識などを含めた色々な意味で使用されている、アポクリファ〔apocrypha〕という用語がある。その一般的な用途のひとつは、正典ではないキリスト教経典を意味する。アポクリファはまた、すべての宗教の神秘主義派を指すこともある。イスラム教徒にはSufismとwhirling dervishesがあり、ユダヤ教にはKabbalahがあり、初期のキリスト教には神秘主義があって現在は黙想派をなし、〔キリスト教の〕グノーシス主義にはEssenesがあり、古代ギリシャには神秘学派とPythagoras of Soughtがあった。エソテリックな宗教運動や哲学の他の例としては、ウィキペディアによると、錬金術、占星術、人知学、催眠術、薔薇十字会、スヴェーデンボルグ学派、心霊論、アラワイツ、ジェイコブ・ベームとその信者のキリスト教思想、ヘレナ・ブラバツキーとその追随者などがあげられている。

こうした諸思潮をまとめた共通の特性について、互いに競合した見解があるが、そのどれもが、「内向き性」、秘密、神秘主義を、その重要な特性として含んでいるわけではない。公式には信用外とされる知識や内向きの知識としてのアポクリファの定義は、本エソテリック・シリーズの両書で使われている。ともあれ、さまざまな動きが起こっており、ある種の擬似エソテリック現象を見せている。 それらの動きには、「人民寺院」、偽の指導者、またはペンテコステラのヘビの呪術師などの宗教などがある。ある信念が社会によって集合的に受け入れられて愚かな偽ものと化し、民間伝承や神話、あるいは精神病の一種にさえなって、歴史年表の背後に消え去る。修練が試みられ繰り返して成果が見られると、それは真実として伝えられ、通常は最初「エソテリック」とみなされ、そして、小グループまたは特別な実践者によって取り入れられ持続される。

「エソテリック」なものはすべてのこれらの主題の中で扱えるものの、このシリーズでは、こうした複雑な主題を考察するための現代的かつ未来的アプローチの双方を扱っている。私たちの二元的世界には、善と悪や、光と暗や、光明と邪悪の両面がある。このエソテリック・シリーズは、光や啓発されたアイデアに焦点を当て、魔法や魔術や悪魔の召喚などの科目は他の著者に任せている。このシリーズは、決して害を及ぼさない主題に焦点を当てているが、そこに引用された著者や個人は、そうした暗黒の勢力――「自己に仕える」――にも恐れることなく光を投げかけている。このシリーズ全体が使命と任じることは、科学のうちの禁じ手や、他方、隠蔽された有害な秘密の暴露を論じることを通じ、「他者に仕える」の精神にもとづき、生きるすべての人たちの高揚をはかることである。

こうした研鑽は、人類がその最大限の可能性を相互に達成するために、より高い意識の状態に集合的に到達する、その支援を目指している。それは、上述のグルジエフが「エソテリックな核心」と呼んでいるものである。対抗言説の知識は、選択肢があるという意識を覚らせ、この覚醒は、人々が拘束された催眠的「夢遊」状態から脱出する助けとなる。「エソテリックな核心」は、包括的で、すべての高度な知識を統合しようとし、洋の東西にかかわらず、真実は境界や限界を持たないとするものである。東洋には、古代中国の「易経」、道教を起源とする太極拳、鍼治療、漢方薬療法、ヨガ、そして氣やプラナのエネルギッシュな活動がある。人間の魂は、自己実現と定義されるとき、真実に分離が存在していない。心が結ばれているので他者は存在していない。私たちは一体である。エソテリック・シリーズの2巻本はあなたを上昇させ、そして再び地球に帰着させる。

私たちの毎日の経験の中では、物体が物質ではないと考える理由は何も与えられない。だが、物体が人間の心霊に似た異様な形のエネルギーで構成され、時間、空間、因果関係といった私たちの常識をすべて無視していることは、私たちの五感にとっては明らかなことではない。しかし、物体が、スイス、ジュネーブ近くのCERN〔欧州原子核研究機構〕のHadron Collider〔大型ハドロン衝突型加速器〕のような特定の極限の処置を受けると、それが見かけ通りないことがはっきりする。物体はまったく物質的なものではなく、宇宙全体に脈打つすべてのもののように、エネルギーの一形態であることが判明する。確かに、電磁放射の発見は、私たちの感覚が常に私たちを囲むもののほんのわずかしか感知していないことを示している。だが現実の大部分は、文字通り、「超自然的」、つまり私たちから完全に隠された真実である。

 

唯我論

唯我論という哲学的概念は、唯一の確実性は自分自身の心が存在することのみであると論じる。そして他の誰もがあなたと同然とし、あなたが知覚した世界は他の誰とも同じ世界であるという仮説である。その仮定により、唯我論は反駁不能であり、同様に、防衛も不可能である。すなわち、唯我論は自分自身への没頭であり、厳密に「私」を一種の内向機能力に集中させて、他者への視点を欠いている。

これは明らかに過度の一般化であるが、クリストファー・ヒッチェンスは、宇宙が彼らのために独占的に作られたと考えているために、宗教者の支持者を呼んでいる。唯我論の極端な形態は、自分自身の存在以外の知識の可能性を否定する。唯我論は、自らの感覚、欲求、自我中心的な自己解釈を徹底的に主張している。それは自分自身や自分自身の仕事への没入である。要するに、「それはすべて私だ!」である。

唯我論は、一人の現実を他の誰もの現実とする初歩的で幼稚な投影であり、それがゆえ、その人は他の現実をつかむことができない。したがってそれは、誤った助言および共感の欠如として表現される。唯我論は、真の現実とのつながりを欠くものであり、現実世界についての手がかりを持たないまま、周囲の世界を認識しているという誤った認識を与える。本書の概念を完全に理解するためには、枠外に立ったところで考えることが必要であり、読者は、唯我論を理解する――事実上、盲人を受け入れる――ことが不可欠である。このような盲人性を排することは、このシリーズの目標である。私たち自身の認識を超える視点をもつだけで、私たちはこのエソテリック・シリーズの対抗言説を理解し始めることとなる。

意識は、知覚の「臓器」であり、人間の心の中心的な謎であり、現在、心と意識の両方についての科学は完全に不十分である。しかし、科学者が「エソテリック」な主題の科学的研究に進出はじめていることに留意しよう。そうしたグループのひとつが、アポロ14号宇宙飛行士エドガー・ミッチェルによって1973年に設立されたノエティック科学研究所(IONS)である。彼らは、意識と心の至高の到達との関係について、不思議で神秘的で超然的でエソテリックな、輝かしいデータを創り出した。しかし、隠された世界と驚異的な超感覚能力を文書化した大きな進展にもかかわらず、いまだいっそう多くのデータが必要であり、世界中でより多くのデータが生成されている。厳密に、人間の心ができることは何であり、そして、私たちはどのようにして私たちの潜在能力を最大限引き出すことができるのだろうか。世界には革命が必要だと思われるが、それは心の中の意識を見る非暴力革命でなければならない。 IONSや他の団体の勇気ある学者たちによって行われているような慎重な研究は、内部をみつめた非暴力的な革命を促進している。

 

「システム1」人間と「システム2」人間

内部をみつめた非暴力的な革命を促進するという上の課題について、それを考える良い方法がある。それは、どのように教育を行い、どのように最善を尽くすのかを知るために、社会全体をどのように考えるかということである。
 システム思考はそのための一つの方法である。たとえば、「システム1」および「システム2」の二つのタイプの個人を考えてみよう。「システム1」の人々は、研究を批判的に行う能力とか、自らの独立した研究を行いたいと望むことはほとんどない。代わりに、彼らは漠然とした直感、偏見、そして容易に利用可能な情報または凝縮された話に頼る。そのような人たちは、「低情報有権者」と呼ばれている。彼らの特徴は、唯我論によって精神的に麻痺した人など、記憶から引き出されたものでない情報(つまり、もともと想像や作られたもの)を収集する。そうした人たちは、どのような状況が間違いにつながる可能性が高いのかが分からない。彼らは衝動的で、気難しく、自動思考をし、勝手きままな仲間を結成し、飛躍した結論をつけ、幻想や創作話に頼る傾向がある。一般に、人間はだれしも、創作物語によってあまりに早く誘惑され、容易に揺れ動く。残念なことに、多くの人たちは、調査や研究において、自分たちの前提に立ち返るのではなく、迅速かつ説得力があり、強いられた答えを支持する。さらに、システム1の人々は、相いれない解釈を同時に取り込むことができない。彼らは情報の質と量の両方に根本的に鈍感であり、思考を止めることに満足する。最初に結論を置き、それに合わせた議論が続く。統計を使うことはできず、確率を判断することもできない。彼らは精神的な短絡に依存しており、残念なことに、これらの特性を欠陥として認識することもない。

一方、システム2の精神活動は、容易にも自然にも行われるわけではない。それは、常に意識的な活動とより良い自分への願いが不可欠となる。システム2の人々は、一般的に、手紙を書くとか、本を書くなど、秩序ある一連のステップを通して考えを構築する。彼らは自分の精神のなかの図書館に存在していない本をも考慮する。彼らは、何かがなぜ起こったか、またそれが再び起きる可能性など、慎重かつ体系的な証拠へのアプローチを適用することによって、彼らの偏見を脇に置いて、彼らが知っていると思っていることを問うことができる。この点で、彼らは系統的に考えると言える。こうしたシステム2のタイプは、チェス、碁、クロスワードパズル、そして、知性に挑戦し運に頼らない他のチャンスなど、戦略を含むゲームを楽しむ。彼らは、欠けている証拠を考察するなど、既知知識の範囲外の知識を求め、新しい事実に直面した場合、自らの意見を改める。

では実際には、何がシステム1とシステム2のタイプを分けるのか。それは、彼らの思考や行動を「制御」し、一歩離れて状況を観察する、意図的な能力と意欲である。この制御は外部からの影響を免れない。彼らは、関連性のある情報や相反する情報を採り上げるだけでなく、自分の心が情報をどのように処理しているかを観察しうる。彼らはまた、どの事実が関連しているか、事実の質に加えて、本当に適切な答えを相対化して精査する能力を備えている。これにより、事実だけではなく、結果をつかさどる「ルール」を理解することができる。彼らはさまざまな角度から問題を探求し、極めて批判的な反論をも受け入れ、新しい事実が提示されると、自らの意見を変えることに躊躇しない。

システム2の人々は、システム1の人々からの常習的な反応を乗り越える指示に従うよう自らを律することができる。これは決定的な学習戦略であり、既存の自己反応(不完全な自我解釈)を克服することは内的自己の成長に欠かせないがゆえに、実際に、多くの精神的修練に組み込まれている。システム2の人々は、心の中で独自の解釈を維持することができる。彼らは、複雑で多様なアイデアを受け入れ、同時に対立する視点を受け入れることができる。 システム1の人とは異なり、彼らには判断の誤りを識別して理解し、その誤りから学び成長する能力がある。このようなリスクと結果を識別する能力により、システム2の人々は、難しい交渉を行う時期の判断といった実用的見地から、大胆な能力を信頼して可能性を開く決定といった高揚点に到達するまで、無限の利点を得ることができる。

 

万事に疑問をもつ

私たちは筋書きに基づいて自らを考えるように想定されているが、私たちの生活のそうした側面に疑問を呈することはまれである。もしあなたがそんな筋書きや物語に沿って考えるなら、おそらくあなたは同じことをいく度もり返して自分に課していることだろう。そうした筋書きは、過度に単純化したフィルターを通して、不完全なアイデアのごちゃまぜを道理にしようとする。この意味で、人間は筋書きによってあまりにも簡単に惑わされ、自分たちの表面的現象にあまりにも容易に揺れ動かされてしまっている。私たちはそうした筋書きを、過度に単純化された映像として、政治、テレビ、映画、物語の形を通して、飲み込まされている。私たちはそうして自らで偏見を作り上げ、それらを頑固に守っている。そうした筋書きからは細部が取り除かれており、情報を「良いか悪いか」式の話に単純化する。私たちは、その多彩な人生と複雑で不合理な世界を、単純な物語で終わらせてしまうことから決別せねばならない。

クリストファー・ブッカー〔英国のコラムニスト〕によれば、7種類のそうした筋書きがあるという。すなわち、「怪物」、「立身出世」、「飽くなき追求」、「旅と帰着」、「喜劇」、「悲劇」、そして「生まれ変わり」である。マイケル・ムーアやオリバー・ストーンの映画には、それらのうちの任意の話ではなく、誰かがたくらんだ陰謀が描かれている。また、交渉相手や出現した敵には「弱みを見せるな」といった、精神的に青臭い筋書きもある。あるいは、筋書きは「自己欺瞞」の一形態ともなる。朝、仕事が重要だと自分に言い聞かせて、自らをベッドから起き上がらせる。本はすべて、私たちに偏見をあたえる諸筋書きである。私たちは、本を買うことによって、私たちがかかえている問題について前進していると自分自身に思わせる。時には、そういう場合もあるが、それによって、すべき決定や行動を回避している場合も多い。豪華で魅惑的な筋書きは、広告を通した操作として採用されている。諸商品は筋書きで満たされている。そして私たちは、うまい筋書きにのせられてそれを買ってしまう。自分に問うてみよう。金儲けの意図のない人が、どうしてそんな筋書きをもちかけてくるのだろうか。真実はそんなところに横たわっている。

あなたは、このエソテリック・シリーズを読んでいくうちに、イルミナティという名称が、この世界を秘密裏に牛耳っているエリート集団を描くために、度々にわたって用いられていることに気付くだろう。ほとんどの人は、この用語の一般的な意味は知っているだろうが、それに関連する概念や意味については混乱させられている。イルミナティはフリーメイソンのことなのか。彼らの目標は何なのか。彼らの信念は何なのか。なぜ彼らは秘密裏に行動するのか。彼らはオカルトの修練をしているのか。彼らの本当の「筋書き」は何なのだろうか。

その定義から、秘密結社は秘密を旨とし、歴史はしばしば権力者によって書き変えられていることをも考えると、イルミナティに関する偏見のない真実を得ることは容易ではない。したがって、このテーマを客観的に研究しようとすることは困難な作業になる可能性が高い。ほとんどの情報源は、イルミナティに関連することを否定したり嘲笑したりする否定的な反情報であるか、他方、噂や誤解に基づいた情報不足からくる恐怖心発信役のいずれかである。だがいずれの場合も、その研究者は同じ結果におちいる。すなわち、通常、ひとつの筋書き通り、真理の歪んだバージョンとなる。ゆえに課題は、そういうこと自体が意味しているのは何かである。

 

【つづく】

 

 

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Modern Esoteric: Beyond our Senses by Brad Olsen

http://cccpublishing.com/FutureEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2016


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