ひと月ぶりの本訳読の再開ですが、今回は、これまでにも増して、なかなか手ごわい部分です。おそらく、本書のテーマであるエソテリックな観点において、もっとも広範な眼識を必要としている分野であるのではないかと推測されます。また、少々注文をつければ、記述がけっこう簡略すぎる感があり、つっこみが足りない恨みがあります。その分、今回の本コメントには、私の自己展開の部分も含まれています。
ことに、「生命の樹」と題された節は、その抽象度や深遠さが顕著で、訳読に最も苦労させられた部分です。しかし、奮闘の末、その意味するところがしだいにつかめてくると、思わず震撼させられるような閃きが脳裏をめぐり、近年の自分自身の体験の意味が突如として理解される体験をもたらしてくれています(その内容の発展を別掲載の記事に書きましたのでご参照を)。
たとえば、その奮闘のさ中、研究社の『新英和大辞典』にも見つけられない単語――axis mundi――を求めてウィキペディアを開いた際、それは World of Tree や Yggdrasi の同義語であって、以下のイラストを発見しました。
つまり、ウィキメディアによると「axis mundi」とは世界軸という意味で、上のイラストは北欧地方の伝承ですが、この世の円盤が樹木という軸心によって支えられ、天界へと広がっている世界観を表しています。
こうした世界観が、他の、たとえばヒンズー教の世界となれば、この樹木による世界軸は、地球から突出する岩や山がそれに代わり(このイラストにもその一面はうかがえます)、ひいてはそれが人間の男根(リンガ)と象徴的に結び付けられ、性器崇拝の宗教観――日本の伝統にも存在します――ともなっているといいます。
今日の私たちの日常感覚からでは、こうした世界観は迷信か中世的宗教観かに受け止められがちでしょう。しかし、人類はそうした時期をへて、今日の私たちの知見が出来上がってきたのも事実です。つまり、人間が科学という手段をまだ持たない時、みずからの感覚を頼りに探し出しえたすぐれて直観的な世界像です。いうなれば、もし、科学がつかみきれていない世界があるとすれば、そうした直観は、そうした部分を採り上げえていた可能性もあるということです。
科学にすがる臆病を克服したいと望むエソテリックな向きには、却下しえない世界であるわけです。
では、「創成の神話(その2) 」へ、ご案内いたします。