霊理的オーガズム (MOTEJIレポート No.5)

両生 “META-MANGA” ストーリー <第11話>

今回は、前回以後につかめてきたことを伝えたいのだが、テーマとしては、前回の「宇宙版セックス」と題したレポートの続きとなる。しかも、前回がそうとうに理詰めであった恨みを取り払い、今回の話はむしろ具現的でもあるかと思う。

そこでまず、このレポートの送り先の相手を、昔の地球時代にならい「MATSU」と呼ばしてもらおう。

そして最近、そのMATSUの作成するサイト、「両生歩き」の 2015年10月22日(No.192) 号で、美的なんだが、どこかこの世離れした、下の写真を拝見させてもらった。

DSCN2772

そこで MATSUは、この写真を撮った際の不思議な体験を告白しているが、それこそが、俺がいま居るこの霊理世界では当たり前の現象なんだと言える。

そしてそれをいっそう端的に言えば、MATSUたちはその時、「ポータル」 (注) に――少なくともそれに近い場所に――居たということだ。 

(注)「ポータル」とは、一般には玄関とか入り口という意味だが、ここでの意味はこの記述を参照。

つまり、地理的には、その海抜5000メートルに近い地球の突起上にあって、MATSUはそれだけ宇宙に近い、つまり霊理界に踏み入った場所に居たというわけだ。そして古代から、そういう高所は「天と地を結ぶ柱」と考えられてきたんだ。だからこその「ポータル」なんだ。

インドのヒンズー教の信仰では、地球から突出したそうした高山を聖なる場所として崇拝する。この写真を撮ったその山行でも、その目的だった山、バンダパンチ峰(6316m)は「五番目の突起」という意味だ。

そもそもヒンズー教では、その信仰の根源には、そうした突起物を地球の男根とみなした生命の発生、つまりエロスはエロスでも宇宙的エロス、への崇めがある。すなわち、そうした高峰をおおう大気や雲こそ、女のバジャイナで、そうして高峰と雲の合体によって生じる雪や雨が、あらゆる生命の源というわけだ。

MATSU自身も、ヒマラヤ奥地の巡礼寺院で、何が祀られているかを目撃したはずだ。そう、それは、寺院の中央に位置する男根状の突起した岩、リンガである。それを、訪れた老若男女の巡礼者がうやうやしく拝んでいる。ことに、女性たちがその突起に白いミルクをかけてなぜまわしている光景なぞは、なんともエロチックに見えたことと思う。

MATSUは、山に登った際には常に、下界では得られない山独特の高揚感にとらわれていたはずだ。まして、目指す山の頂上に立った時、その登りが苦しければ苦しかったほど、強い達成感に満たされていたはずだ。

ただ、若いころの登山は、スポーツとしての意欲や関心が中心で、その高揚感もそうしたものだったろう。だが、年齢を加え、蓄積した人生経験をたずさえて登ることとなった山は、単に身体的なものに終わらず、そこにいっそう深くともなう精神的にハイな感覚に気付かされることとなる。

遠く古代より、我々の祖先たちは、山に登った際のそうしたハイな感覚が一体何なのか、それを考えてきた。そればかりか、その結論に立って、多くの修行僧が自らをそうした環境に置いて、世界の真実に到達しようとしてきた。

つまり、その高揚感や達成感は、その途上の肉体的苦行の見返りとしてのそればかりではなく、そういう山という地球の突起のもたらす、いわゆるパワーポイントがゆえの、はるかに霊理的な産物でもあるのだ。

言ってみれば、その到達感とは、山登りという行為がもたらす、《霊理的なオーガズム》とでも称していいものなのだ。

 

話を広げれば、世界中どこでも、高くそびえる山は信仰の対象とされている。

たとえば、今では中国領土となったが、チベット西部にあるカイラス山は、まさにそうした突起そのものの独立峰で、山全体が聖山とされている。そのため登頂は許可されず、六千六百メートルなにがしほどの標高でありながら、今日でもいまだに未踏峰のままであり、巡礼者は、その山麓を一周(50キロほど)するのが務めとなっている。

また、山に限らず、突出した岩とか、高くそびえる樹木とか、それにそもそも、祀る神は異なっていようとも、世界のあらゆる寺院や教会は、高い塔によってその存在を鼓舞しているのが常だ。

そればかりか、今日の発達した産業社会においても、その繁栄のしるしとして、都市の中心には高いタワービルが建てられ、その経済的達成のまさにシンボルとなっている。

ちなみに、高層ビルの林立する東京都心を見渡して、その光景をヒマラヤの峰々のそれと重ね合わせてみるのも興味深い。むろん互いに別世界ながら、別の意味では、人間の想念の共通する方向性が各々に確認できるというものだ。

そこで俺が言いたいことは、その《霊理的オーガズム》とは何かということだ。

まあ、俺のささやかな経験に基づいて言わせてもらえれば、そうとは知らなんだが、ともあれ死んでここにやってきて、自分の物体的生命は尽きようとも、連続した俺がこうやって実在していることだ。そして、俺とMATSUとがこうしてSF的手法を駆使して交信し合えるのも、MATSUがそうした《霊理的オーガズム》の体験をへていたがゆえに、想像力を全開しえているからこそだ。まさに「ポータル」が開けられていたからだ。

それというのも、地球上ではオーガズムとは男と女という両性がなすものだが、この霊理界では、前回レポートしたように、それは陰と陽という宇宙的な両態がなすものだ。

それに、地球上では男女の合体は新たな生命の誕生を意味したが、この霊性界では、陰陽の合体は宇宙生成の原点となっているのだ。

俺はいまだにこの霊性界では新米中の新米で、宇宙生成うんぬんなどに口出しできる筋合いではない。

だがそのうちに、ぼちぼちとそうした領域にも、関心を進めてゆきたいものだと思っている。

では今回は、こんなところで、このポータルを“お開き”にしよう。

 

第10話へ】 【第12話へ

 

 
Bookmark the permalink.