もたれ合う「俗界」と「神」

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その21)

私はこれまで、アメリカは今なおキリスト教の影響の強い国と考えてきました。たとえば、大統領の演説は常に「Good bless you〔神の祝福を〕」で結ばれ、あるいは、相当数の同教の宗派が、あたかもビジネスであるかのごとく繁盛しているかと受け取ってきているからです。

こうした受け止めが妥当なものかどうか、それはそれで確かめてみる必要はありそうなのですが、アメリカのメディアをテーマとした今回の訳読の限りでは、そうした宗教的“配慮”は、支配のための意図的なものだと述べられています。逆に言えば、アメリカ国民一般は、それほどに「宗教的」ではない――日本のように――ということです。にもかかわらず、アメリカ社会のあちこちに、ことに主要メディアの報道姿勢のなかに、いわば「宗教臭」が意図的に挿入されているという著者の主張です。

もしこれが真実とするなら、私のこれまでの受け止めは、そうした米国の主要メディアの意図による“海外においてまでの”みごとな一産物であったということとなります。

私は、オーストラリアとちがって、アメリカ社会を身をもって体験したことはありませんので、この点に関しての私自身の判断はできません。だからこそ、この訳読を必要としているのでもありますが、著者による他の箇所での宗教に敬虔な態度の記述から判断して、こうした著者の見解は、単に偏った見方であるとも思えません。

ちなみに、オーストラリア社会の場合、そうした宗教心は決して一般的なものではなく、いっそう「通俗化」された社会だと思えます。たとえば、街を歩いてみても、もと教会とおぼしき建物が、もはや使われないまま、あるいは、別の用途に使われている例を決してまれではなく見かけます。それに、首相の演説の最後に「Good bless you」がそえられた場合などに接したことはありません。

それどころか、オーストラリアでは、首相が専用の公用車に乗る場合でも、彼はドライバーの隣の「助手席」に座るのが常です。「後部座席にふんぞりかえっているような人間」と国民に受け止められることは、政治家生命にマイナスであると広く考えらえているからのようです。いわゆる「メイトシップ」〔仲間意識〕と呼ばれている伝統的な国民性の一環です。

 

それでは、今回の訳読「メディア操作」の章にご案内いたします。

 

 

 

 

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