それは「自然か人為か」

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その25)

この稿を書こうとしているいま、日本からは、3.11の巨大震災の5周年を告げる報道がさかんに入ってきています。むろん、海外居住の私なぞが知り得ることは、その実状の「ほんの一部」というのもおこがましいほどのはずです。にもかかわらず、その災害の規模や深刻さの度は途方もなく、それはおよそ、個人の人間的感覚でとらえうる尺度を、はるかに無残に凌駕するものがあります。

それほどのその巨大災害が、もしも、もしも「自然災害」でなく、「人工地震」を引き金とする人為的と類する出来事であったとするならどうなのでしょう。それはつまり、それを企てた者たちやその組織がこの世に存在するということになります。

今回の本訳読が言及していることは、そうした、人の感覚上の言葉では「悪魔」とでも表現するしかないような、少なくとも、そうしたレベルの存在の可能性です。

むろん、そんな想像を絶する話なぞ絵空事と無視してしまうことも可能で、私などを含め、それが私たちの大半でしょう。

しかし、そうした類の話を思考の到達半径内に取り入れて扱おうとするのが――著者の言う「エソテリック」〔本訳語では「東西融合〈涅槃〉思想」〕の――ものの考え方の姿勢です。

そして、この巨大災害によって、現実にその被害や近親者の喪失を体験している方々にしてみれば、その痛恨の現実さと自分で納得できる世界の間の、これもまた表現のすべもない計り知れぬ隔たりの感覚があるはずです。その行き場のない現実感にあえて行方をつくるとすれば、そうであるがゆえにそれは、「自然の力」と言い表すしかない、ある圧倒的に巨大な何ものかの存在でしょう。

つまり、本訳読書は、そういう「圧倒的に巨大な何ものか」に、「自然」でないのはもちろん、「人為」として自らなり代わろうとしている、そういう意志や人物たちの存在を対象にしようとしている試みです。

言い換えれば、それを《策謀》なり《陰謀》と呼ぶとすると、それは、その《策謀》なり《陰謀》が巨大であればあるほど《真理》に近づくとする、そうした暴論を信じ実践する者たちの狂った思惑です。

果たして、そうした者たちの存在を解き明かそうとする本訳読は、どれほどに成功しているのか。それとも、それほどな見当外れと茶化してしまえる話なのか。

今回のその解き明かしの切り口は「知らぜざる科学」です。

では、 その試みの達成のほどのご吟味を。

 

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