いきなりの声明となりますが、《「し」とは「タイムマシーン」に乗ること》です。
さてそうとは口火を切ってはみるものの、この声明を理解するには、二つのキーワード、「し」と「タイムマシーン」の双方を、従来的な意味から抜け出て理解する必要があります。
私は子供のころ、「のりもの」の絵本が好きでした。70の大台に至ろうとする今でもその好みの方向はほぼ変っていません。当時、そうした絵本には、自動車とか、汽車とか、飛行機とかの詳細画が描かれていて、子供心に、何かそれらが、自分をどこかに連れて行ってくれる魔力をおよぼしてくるように感じられ、わくわくさせられたものでした。
確かに、「乗り物」とは、私たちが人として持っている身体的能力の限界を超えて、もっと遠くや、もっと早くと、自分を未知のどこかへ運んで行ってくれる「マシーン」です。
つまり、こうしたマシーンの「魔力」とは、「もっと遠く」という距離をめぐる、あるいは、「もっと早く」という時間をめぐる、移動にまつわる《超能力》を私たちに与えてくれるものです(それが無くして、どうして車がこれほどの人気を維持できるでしょう)。言い換えれば、そのマシーンとは、距離や時間という長さの概念を変えてくれる装置です。
ところで、こうした「乗り物」というマシーンは、いずれも、私たちの住む、三次元空間と時間という、《時空》次元内のマシーンです。
そこでですが、この時空次元をこえた、もっと高次元世界を想像してみますと、この異なった次元世界へ、境を超えたその向こうへ連れて行ってくれる「マシーン」があってもよさそうです(「弯曲」使った「近回り」参照)。
ことに、私のような老境にさしかかり始めた世代にとって、それにふさわしい、“たそがれ”つつ“新規”な「のりもの」の絵本が与えられそうです。その新たな「のりもの」が「タイムマシーン」と呼ばれるもので、それが与えてくれる「魔力」とは、私たちの生きる3次元の時空を超えて、より高次の世界に連れて行ってくれることです。
そしてさらに、そうしたタイムマシーンが、過去や未来の区別を無意味にしてしまうがゆえに、それは、生命の「死」すらも、単なる時間の物差し上の一通過点、すなわち「し」に変えてしまいそうなのです。つまり、本来なら忌み嫌われるその時が、避けたい時であるどころか、楽しめそうで、待ち遠しくすらもさせてくれる時であるようなのです。
私が子供のころ、新幹線はまだなく――「夢の弾丸列車」よばれていました――、在来線しか走っていませんでした。例えば東京、大阪間は、その特急に乗っても8時間以上を要する文字通りの旅行でした。つまり、東京と大阪は、それほどの距離感覚が隔てた両“地方”でした。それが今では、新幹線で2時間半ほどの世界となって、日帰り勤務の圏内です。逆に、さらに遠い昔へとさかのぼれば、それは東海道五十三次の世界で、数十日を隔てた江戸、上方の両“国”であったわけです。その頃に、ただ座っているだけで2時間なにがしで移動できる現代の「マシーン」のことなぞ、まるで、絵空事以上のことであったでしょう。
「タイムマシーン」とは、現代でもまだまだ、そういう絵空事のひとつであるマシーンです。それでも、さまざまに描かれるフィクション話によれば、それが運んで行ってくれる先とは、過去や未来の世界です。
そこでですが、そういうタイムマシーンが今の新幹線並みの便利さとなって、過去や未来に、日常感覚とまでは言わないにせよ、現実ごととしてで行ったり来たりが可能となった世界とは、いったいどういう世界なのでしょうか。
つまりそこでは、死んだ人が生きていたり、自分の末裔に面会できたりということで、生命という始めや終わりのある世界は、事実上、有名無実となっていることでしょう。いうなれば、生死の区別が毎日の寝起きに等しいような世界です。それこそ、すべてがほとんど永遠の世界です(宇宙次元の終始はあるのかも知れませんが)。
それに、そういう過去への移動が可能となれば、過去がいつでも再現されるわけですから、嘘をつくことや隠しておくことが無意味となります。人殺しだって、口を封じる狙いを果たせなくなるのですから、やっても無駄です。
そういう世界となれば、倫理や道徳などが問われることもなく、そもそも、真実や虚偽を区別する必要すらなくなります(ただ近未来的には、時の権力によりその使用が厳しく限定され――それともそんなマシーンは作らせない――、あい変わらずの差別と支配が続く、そして現にもうそうなっている、おそれはあります)。
そしてですが、いわゆる私たちが「死」と呼ぶものも、身体やひいては生命という時限性をもった事象に基づくがゆえのものであって、それを超えて行き来できる世界があるなら、その「死」とは、単なる時間の物差し上に、「し」と目盛っておくだけのものとなりそうです。
したがって、その「し」という目盛りの後先の違いは、その手前では身体が生きており、その身体が創り出す様々な工夫やアイデア、つまり情報が身体とともに存在していたことです。そしてその目盛りの先では、そういう身体は物質に帰って自然界にリサイクルしてゆきますが、そうして創られた情報は――まったく何の記録も痕跡も残されていなかったということがない限り(それでも他の人たちの記憶には残っている)――、それこそ永遠なものとして残ってゆくはずです。むしろその世界では、「残る」といった表現自体が不適切で、そうして創りだされたものは、それこそタイムマシーンに克明に記録され、時間の概念のない世界に存続しつづけているはずです。
こうした考察をもとに、少々私的な話に触れさせていただくと、統計的には、あと十か二十という年の経過の後、私が「し」という目盛りを通る時、私は、それこそ、子供時代より胸をときめかさせられてきた「のりもの」のうち、ついに、その《超乗り物》たる「タイムマシーン」あるいはその同等体に乗り込むことです。そういう私は、いってみれば「地球産ET」の一人となることであり、その旅先で、多くの「他星産ET」と出会い、交流することとなるでしょう。
そしてそうした“あの世”界で大事なことは、もはや、嘘や悪や騙しや疑りなどがありえない、さぞかし心地よくピュア―な世界=ユートピアであるだろうことです(ただ、本訳読によれば、ETたちにも、いい者とわる者があるとのことです。思うに、どうもそれは、我々地球人の品性――自らまいた種――の反映の結果なのでは)。
本訳読によって明らかになってきているように、UFOとはどうやらそういう「タイムマシーン」の一種ようで、ETたちは、そういう「のりもの」に乗って、どこか違う世界からやってきているようです。
また、私の理解では、ホログラムとは、そういうタイムマシーンのうち、乗り物バージョンのそれではなく、情報表示部のみの装置であるようです。
そういうマシーンを持つ彼らETにとって、たとえば現在のような、嘘や秘密や人殺しが横行しているこの地球の現実なぞ、いったいどんな風に見えているのでしょう。
つまり、「タイムマシーン」をあやつるとは、そのような心性のピュア―さを抜きには、ありえないことなのでしょう。(逆に言えば、それがない者には、「タイムマシーン」は操作も理解もしえない。)
ともあれ、地球外の宇宙が存在するのは間違いなく、その宇宙は、この地球表面上を支配している時空次元の単なる延長でないことも、次第に明らかにされてきています。
今回の訳読、「空間と時間」は、上記のような考察をスーパーに刺激する絶好の材料を提供してくれているのですが、それにしても、ここに論じられている議論は、ともあれ私たちの常識を根こそぎにくつがえすに等しいもので、なかなか理解に難儀させられるところです。
それでは、その「空間と時間」の章にご案内いたしましょう。