俺がこの霊理界にやってきてもう半年以上が経過した。だが、そのわずか半年少々の期間ではあっても、長くいた地球時代とまるで勝手の違う“暮らし”を続けてきて、実は、ある、恐ろしいほどに対極的な認識に至りつつある。むろんそれは、地球時代の俺にしてみれば、想像を絶するどころか、あってはならない話ですらある。そうした話を、今回は、実はそれが、今日のこの混沌極まる地球をもたらしている元々のリアリティーではないかと、こちらの世界の通説をお伝えしたい。
むろん地球世界においては、先に俺が通過した「死」とは、それこそ、この世の最期を終えてすべてを喪失するかの、最も忌み嫌われる出来事である。だがしかし、それを経て今ここにいる俺は、それほどにネガティブな体験をしたどころか、逆に、それによって俺は「救われた」、あるいは、「解放された」とでも言ってよい心境だ。そればかりか、天地逆転するかのポジティブでハッピーな体験ではなかったのかとすら思えてきている。
むしろ、なぜそんなにも嫌がられたのか、その極端に忌避される受け止められかたそれ自体が、今になっては、なんとも不自然で不当な取り扱いにさえ見えてきているのだ。
地球の他の無数の生物たちを見渡せば明らかように、命を失うとは、ひとつのサイクルの終点にすぎず、その全体は、そうした多様の終点を取り込んで、いかにも生きいきと永らえ続けている。それが自然というものだ。
そうでありながら、人間だけが、そんな「し」を「死」として忌み嫌い、一種のタブーとすら化して、異様なほどの恐れを伴わせて、惧れ伏さしめられている。
そこでだが、俺は地球時代の、こんな話を思い出している。
それは、地球社会で生き抜いてゆくために、誰もが当然のことのように行っている競争を勝ち抜いて、何とかして獲得した就職について、それを辞めるか否か、逡巡していた時の話だ。その時、あたかもその退職が、自分の人生の全てが尽きてしまうかの、あたかも事実上の「死」を意味しているかに感じられたことだ。
後になって振り返れば、それは、いわゆる「社畜」に陥らんとしている自分に反発した、なんとも健全な脱出行動に過ぎなかったのだが、いかにもそのように社会的死線を越えるかの、やってはいけない行為であるかに受け止められたことだ。
だが他方、それが多数の常識でもあって、そうした自らを「家畜」同然とする意識や行為は、なにも就職に限られているわけではない。そこで、そうした特定組織のくびきからたとえ脱出しえたとしても、今度は国といういっそう大きな人間集団への、同類な帰属意識を植え付けさせられ、「愛国心」と呼ばれる、いっそう大規模な「家畜化」現象に捕らわれるのが常である。
そしてその果ては、そうした重層する「家畜化意識」は、論理的に「アイデンティティー」とまでも概念化され、あたかも、人間にとっての普遍的な心理的基盤として規定されるにも至っている。
すなわち、そうした「アイデンティティー」ある存在が、その存在の「死」をもって、論理的にも普遍的にも、さらなるすべてを失うのである。
逆に言えば、そういう「死」という全喪失の恐怖をもって、命というひとサイクルに究極の強制が作り出されている。つまり「死」とは、逆らえばこうなるぞという、不自然にも人工的にも巧妙に作り出された、社会の最大の懲罰そのものとされている。
だが、それは実は、俺が今見出しているように、拘束からの解放であったにも拘わらずなのにだ。
しかし、周りの動物や植物を見を移せば、そうした無数の生き物たちは、果たして「死」の恐怖なぞに脅かされているのだろうか。
また、人間にとっても、水や空気や太陽光は、いずれもみな共有のものであり、その入手に競争を強いられるものではない。食料にしても、その取得に一定の努力は必要であったとしても、強迫観念をともなって、その取得に、他を蹴落としてでも奔走せねばならないほどのものでもない。
だが、食料を始め、人間が生きてゆく必需品が、いまやことごとく商品となり、それを買う金なくしては生存して行けない社会となっている。つまり買うための手段たる金があらゆる価値に優先させられ、金を介在させた支配の構造ができあがってきている。上に、水や空気や太陽光を共有のものと述べたが、すでに、水の大半は有料となり、空気や太陽光も、地球の汚染の深まり次第で、有料となるのも時間の問題だろう。夏の過酷な暑さがゆえ、クーラーが不可欠となっている暮らしも、空気の商品化の一端だろう。
つまり、それは経済と呼ばれているが、その地球をくまなく支配しているマネーの構造も、人類全体をそういう種類の家畜にしておく装置と言いかえうる。そして、そうした構造のからの逸脱が、いかにも「死」に直結するかのごとくに、金という言語を通じたただの数字に翻訳され、地球においてはすべての人たちが、その家畜となることに従順となっている。
俺は確かに、自分の「し」を経ることで、その家畜状態から解放された。それはまぎれもない事実である。
逆に言えば、地球とは、そういう目には見えない檻で囲まれた牢獄と化している。
ただし、それが本来の地球の条件であるのかどうか、それは大いに疑わしい。つまり、地球をそういう条件に縛っている何らかの強制は、地球ばかりでなく、どうやらこの宇宙全体に働いているようだ。
そうした脈絡で言うのだが、今、俺の達して来ている地点から見れば、地球時代の俺とは、同心円状の入れ子構造をもった折り重なった隷属構造の虜であった。
そして、地球とは、その誕生以来46億年という長い地球的間尺をもって測られている歴史があるが、もしも、そういう歴史自体が、一連の《実験》であったらどうなのかという着眼なのだ。言い換えれば、生命の発生からその進化、そしてその結果の人類の発生に至るすべての過程に、何らの外からの「指令」が一切働いていなかったと証明できることであるのか。むしろ、それができないからこそ、「神」という概念が人類に必要であったのではないのか。
むろん、それに能天気な一部の地球人が、自分たちがその間に、無から命を発生させ、それが進化して人類を発生させたという《地球中心観》を育ててきたというのは百も承知の上だ。
だが、今、俺のいるこの霊理界から言えば、その《地球中心観》も、いかにもけなげで愛おしいような話として取り上げられはするのではあるが、ここでの長老がいみじくも言うように、「奴隷にも五分の魂」というひと言に、こちらの世界から冷静な視野が込められているのだ。
少なくとも、俺には、地球とこの霊理界とが、「死」と呼ばれて忌み嫌われる、そんな断絶をもった互いに異なった世界とされていること自体が、おおいに疑問ありとにらんでいるところなのだ。
何も「神」だの{God」だのと大構えをする前に、古代からの確かなメッセージに、素直に耳を傾ける必要があるだけなのだ。