《知・エネルギー融合子》 = 《氣力》たる存在として(MOTEJIレポート No.8)

両生 “META-MANGA” ストーリー <第14話>

 MATSUは、眠っている間、自分は何をしているのだと思う? おそらくその返答は、「夢を見ているか、夢も見ないで熟睡しているか、そのどっちかだ」などというのが一般的なところだろう。

そこでその夢なんだがね、俺も地球時代を思い出して言うのだが、たとえば、夜中にふと目を覚した時のこと。横で寝ている連れ合いや子供だのが、何やら誰かと話しているらしき寝言をはたで聞いて、確かにやつらの身体はそこにあるのだが、その心というか意識というか、そういったものはそこにあらずなんだな。そして、どこか全く別の所に去って行ってしまっていると、妙な現実味を伴って感じさせられたものだった。

MATSUも以前、こんなことを言っていたね。「手術を受けた際、全身麻酔をされた瞬間に、自分が自分の身体から離れ、天井からベッドにいる自分を見下ろしていた」。それはいわゆる「離身体験」ってやつだ。

そして、今の俺とは、その離身を完全に遂げてしまって、その出て行ってしまった方の俺がこの俺で、残った身体は、すでに焼かれて骨と化し、今では墓の中に納まって永眠している。それは確かなことさ。

そこでなんだが、地球ではそれを「夢」と呼ぶそれのことだが、俺に言わせれば、それも毎夜に繰り返される「離身体験」で、それを通じて、それこそ無数のその《離身存在》がこの俺のまわりにやってきている。

むろん、そのほとんどはまさに夢うつつで、たわいもなくやって来ているだけなのだが、中にはそうとうしっかりした意図や意識をもって、その体験から何かをつかもうとしている連中もいる。ともあれ、たとえそういう意気込んだ奴らでも、いずれはその夢も覚め、現実界へと戻ってゆく。

そこで俺なぞは、そうした夢うつつの連中に、これぞという者、ことに顔見知りなどを見つけた際には、ここでしか知りえない、結構面白い話などを聞かせたりして、手ぶらで帰ることのないように何かとサービスしている。余計なお世話かもしれないがね。まあ、俺の道楽みないなものだが、人によってはそれは何にも代えがたい情報源となっているようで、けっこう重宝がられてもいるね。「究極の連帯だ」なんて持ち上げてくれる御仁もいる。

 

そこで言うのだが、そうしたサービスが別のスタイルとして定着しつつあるのがこの「MOTEJIレポート」という媒体――それこそ「メタ連帯ジャーナル」――だ。そしてそれが、今回でもう8回を数えるまでになっている。

そしてこの媒体を通じて、夢であろうと死であろうと、そうやってなされる、片や一時的、片や不可逆的な「離身」という出発をした《旅》の話を、その境界をはさんでこうして交換し合ってきている。何とも意気壮大な話じゃないか。

それにしても、そうして身体から離れて《旅》しまくる存在とは一体何なのだろうか。

地球時代、友人の中には旅行好きがいて、まるでそのために生きているかのようなやつもいたが、そういう連中は、同じ移動でも「離身」は抜きで、心身一緒に行動していたし、その舞台も地球圏内に限られていた。それにしても、今や地球は、そうした《旅しまくり人間》たちでごった返している感じだね。

一方、今の俺は、その「離身」のおかげで、その旅先は地球内に限られない。言うなれば、身体を切り離して身軽になったおかげで、旅先も持ち時間も無限に広がったわけだ。昔、俺の若いころ、「何でも見てやろう」と世界に旅立つ、俗にいう「無銭旅行」が流行ったことがあった。今のバックパック旅行の元祖みたいなものだ。そういうアイデアにひとつ“ひねり”を加えるなら、「離身」を、国境のように、単に通過点とみなす腹構えさえできるなら、バックパック旅行の“宇宙版”すらもありうるってことだ。

つまりは、そうして身体から離れて移動し回る存在を、「霊魂」であるとか「浮遊霊」とかと、おどろおどろと考えることなかれ。それほどに別世界のことでも不連続のことでもなく、その往来は、構え方次第では可能な話なのだ。だからこそ、こうやって定期的なレポートもやり取りされている。

 

俺はここに、それを通過点とし、連続なものとする見方を、以下のような話を持ち出すことで、さほどにも突飛な見方ではないと、持論を展開してみたい。

一例をあげよう。地球の赤道のやや南にパプアニューギニアという大きな島がある。そのパプアニューギニアの高地に、険しい山々とジャングルのため世界から隔離されて生活してきた未開原住民にとって、少なくとも太平洋戦争までは、たとえば、ニューヨークや東京の高層ビル街やその雑踏は実在しなかった。だが、その双方を知る私たち現代人にとって、それは彼らが単に無知であるということに過ぎない。そして彼らの世界はその高地の密林内に閉ざされ、他の世界は、実在していようとなかろうと、無いに等しい。そこ以外の世界は、いわば、あの世の空想事か、神の世界の話である。

そこでだが、今の地球が、そうしたパプアニューギニア高地の密林でないと、どうして断言できよう。つまり、密林であろうと、宇宙空間の膨大な隔たりであろうと、共に、知ることを妨げている“当座の壁”であることには変わりない。

少なくとも、地球が、限りない大宇宙のほんの片隅の銀河系の、そのまた片隅の太陽系の中の一惑星であることを知り、密林とニューヨークや東京の高層ビル街の双方を知っている者にとって、密林たる地球から「離身」する意欲や必要は、しごく当然に生まれるはずじゃないか。

そしてそれが了解されるなら、俺はつぎに、そうした壁に取り囲まれた地球居住民のもつ《地球人中心意識》を指摘したい(言うまでもなく、それを下支えする意識の指摘として、「男中心意識」とか「美しき日本」とか「中華思想」とか「WASP中心意識」などもあげられよう)。

すなわち、一団の人々がある一定の限られた環境を基盤に生存している時、その特定環境が作り出す特定な共通意識が――時には極めて政治的に――あり、そしてそれが、なんとも切ない働きをしているのだ。

 

そこで、そうした「密林意識」に立つ《地球人中心意識》を念頭にするやたちまち、立ち上るそれを越える意識に鼓舞されて、さまざなな視界が開けてくる。

たとえば、そうした《地球中心観》から観測するから、「他惑星に生命の存在の可能性」とか「異星人の可能性」とかといった議論や、反対に人類は「宇宙の孤児」といった説も出てくる、といった具合だ。

そこで、そうした視界に立つと、その無限な宇宙の中に、他の特定小宇宙環境も、それこそ数えられないくらいある可能性が散見できてくる。そしてその小宇宙環境やさらにマイクロな、あるいはもっとナノな環境に、それに適合した生命や、生物や、動物も、人類も、いくらでも存在する可能性が存在している。ただ、そうではありながら、互いに接触する機会がないか、あるいは、あっても気の遠くなるほどまれである、という話となる。

 

また、哲学と宗教が重なり合うメタ思想に立って言えば、私たちの保有するあらゆる見解は、なにひとつとして、私たちの知覚に拠らないものはない。つまり、意識という主観を超越しうる客観という観点は、なにがしの無知か捨象を前提にしない限りはありえず、科学という客観性を鉄則とする領域の有効性に、根源的な疑念を投げかけている。

こうした疑念は実際に、そうした科学界内部からも提示されはじめている。素粒子物理学の最先端の見地において、一つひとつの素粒子に、意志の存在を認めなければ説明のつかない現象が“客観的”に確認されているのだ。

したがって、俺に言わせれば、「物質実体の存在」といった議論こそ幻想かつ干からびており、そこに何やら、冷徹で排他的な既成権威の発生源すら見出してしまう。それって、「密林」の別バージョンじゃないのかってね。

そしてそうして、その《地球中心観》は、そうした歴史的かつ組織的諸権威の集大成と化して強欲のままに君臨して地球を欲しいままにしている、との俺の持論をもたらしてくれるのだ。

 

あるいは、私たちが日々抱く「自意識」とは往々にして、さまざまなテクニックを駆使して私たちの意識内に落とし込まれた、そうした歴史的・組織的諸権威のマル・ビールスの産物と化している。そして、それが寄り集まった《地球中心観》で、この大宇宙をとらえてみたとしても、「井の中の蛙」にもならない話なのだ。こうしたいわば“偽自意識”と、私たちが多様な生命体のひとつとして抱く自然な直観とは、厳密に区別されねばならない。

言い換えれば、あたかも人類が宇宙で最も高度な存在であるかの議論は、おこがましいのも甚だしい、まったく愚かな“自己中”意識だ。(これを、地球(グローブ)中心意識、略して「グロ中意識」と読んでみようか。)

ここに至った今の俺からは、その「グロ中意識」が丸見えなのだが、それこそ地球人は、自分は何様とお思いか、ETにせよUFOにせよ、それすらも存在しないなどと隠蔽して、無知傲慢――あるいは極度に卑屈――もはなはだしい。

そもそも、宇宙全体が生命体であるとの考えに立てば、俺なぞは、その生命体の一細胞にもおよばぬ、一原子にすら満たないかも知れない存在だ。むろん俺が地球人であった際には、そんなことなぞ、想像すらも困難であったのだが。

 

MATSUよ、こういう俺の存在は、一体、何とされるべきなのだろう。むろん俺はもう、それを「魂」とか「霊魂」なぞといった「グロ中」用語の対象とされたくはない。

少なくとも、まず、人間意識から身体性を除いたその意識存在の世界を《霊理界》とし、加えて、その俺の存在自体を、意識も意志もある《知・エネルギー融合子》ととらえたい。東洋的には《氣力》といったところだろうか。

地球人たち、ことにその一握りの君臨者たちは、余りにも傲慢に、その自らを含むすべての生き物の根源であるはずの地球環境を食い物にしてきた(最近、他惑星への移住計画を頻繁に耳にするようになった。ひょっとすると彼らには、搾取し尽くした廃墟同然な地球なぞ、平気で見捨てる積もりなのかも知れない)。

ことに、FUKUSHIMA以降の日本は、国民絶滅――大げさではない――も想定される危機的事態に遭遇しながら、うそと隠蔽に塗り固められて、それすらも認識されていない終末的状況だ。

MATSUよ、俺は、そうした事態を見れば見るほど、限界の存在しないはずのこの場におよんでも、地球人的もどかしさに駆られてしまう。だからこそ、《知・エネルギー融合子》たる俺のそうした《氣力》を、なんとかポストFUKUSHIMA的事態に関わらせうるチャンネルを探りたいのだ。

 

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