「おごり」以前の世界へ

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その68)

人間のおごりが指摘されて久しいどころか、そのおごり振りは遂に、自滅的、地球破壊的レベルにすら達している感があります。そしてそれによる災厄を、自然の復讐とか断罪と見る向きもありますが、それも、慣れ親しんだおごりの反転した“逆おごり”意識にすぎないでしょう。

エソテリック論の今回の議論は、「幾何学」という、一見、なんとも懐かしく教科書的な観点によるものです。ことに私など、いわゆる工科系の学生生活を送ってきた者にとっては、この数学的で図形的なアプローチは、どこか古巣に帰ったような感覚を伴います。しかし、さすがにエソテリックな視野はそんなレベルにはとどまらず、むしろ、西洋が西洋たる過ちを重ねてきたその長い過程を振り返っています。今回の「黄金比」の節の終わりで示されているプラトンの言葉、「幾何学は天地創造の前から存在した」は、「神」の名のもとに悪事を繰り返してきた人間のおごりを指摘するようにも聞こえます。

 

私たちがその根本で宇宙とつながっているのは疑いないとしても、ならばそれは何を《媒体》としているのかとの問いは、今なお解明されていません。

私たちは、伝統的にはそれを霊魂と呼び、あるいは、ひと昔前の西洋ではそれをエーテルと呼んだりもしてきました。

また、僭越ながら、私はその分野の学問を「霊理学」として、この謎に自流で取り組んできています。

どうやらその媒体は、それをどう命名しようと単なる物質(=フィジ世界)ではなさそうで、かといって、それを観念(=メタ世界)にフルにゆだねてしまうと、ただの空想物語にもなりかねません。このフィジ界からメタ界にまたがる両面性あるいはスペクトルこそ、この《媒体》の実相であるようです。

また、現代の最先端の物理学、量子物理学は、物質がサブ・アトムつまり超微小粒子レベルでは「意識」をもっているとする、科学的認識の新地平を開きつつあります。そういう意味では、この両面性/スペクトルに、ひとつの科学的突破口が潜んでいると言えましょう。

それを本章では、エソテリック手法のひとつとして古典を紐解き、古代ギリシャの「幾何学」を採り上げ、その媒体にせまろうとしています。

 

それでは、「聖なる幾何学」の章にご案内いたします。

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