私を産んだ〈チンポ〉

著者:幸子

【解説】 このいかにもセンセーショナルな題名の作品は、本サイトの読者の一人からいただいた投稿で、表示のように、その著者については、「幸子」以外は不詳です。

この作品を、フィクションなのか、それとも実話なのかと問う詮索は、まったく無意味でしょう。というのは、これほどにリアルな表現は、まさに実話でしかありえない現実味をもっていながら、他方、こうしたストーリー展開は、どこか並な現実を越えた設定の気配も漂います。いずれにせよ、両者が相まって出来上がった本作品は、読んで見出せる通りに、まさに、日本の深部をえぐり出して見せてくれる、近年にない社会派作の逸品となっています。

現代の日本においてなお、天に昇らなければ愛し合えない男女が存在したのであり、また、自殺に追い込まれる子供たちも跡を絶ちません。日本社会がそれほどに深く精神疾患症状を伴っており、そしてそれはなぜなのか。勇敢にもこの著者は、その謎にいどんでいます。

この作品を読み終えた時、「〈チンポ〉=天皇制」との深奥の等式関係を読み抜けるかどうか。この実に明快なメッセージこそ、この作品の真髄でありましょう。

今回掲載するのはその第一章で、以後、計五回にわたり連載してゆきます。

 

 

第一章 

この人らに気を取られてはいかん

 

「知的障害者を親に持つ子どもの心得」など、学校では教えないでしょう。公立私立、小中高、いずれの学校でも、子どもにそんなことを教える教師はいません。知的障害の親を持つ子どもは「健常な親」を持っているかのような、ピント外れの教育を受け、多大な時間をムダにします。

自分の親が知的障害者だと気付くのは、子どもがかなり成長してからのこと。それも、敏感な子でなければ見逃します。

気付いたとしても、知らぬふりしがちです。自分の親が「知的障害者」だというより、「うっかり者」とか「そういう性格」程度にしておく方が楽ちんです。今更病院で詳しい検査も億劫。したところで劇的回復も見込めないし。むしろ「禁治産者(きんちさんしゃ)」や「後見制度」について関心を持ちます。宿題二の次で。

私の場合、男親の障害を女親の言葉で知りました。いつ? 正確なことはわかりません。何となく小出しに、ちびりちびり聞かされていったように思います。1940年代、21歳で、まともな見合いや付き合いもなしに、親元から遠隔地に嫁がされた彼女は、婚礼後、姑から聞かされます。「あの息子は3~4歳の時、脳膜炎に罹(かか)り、医者もさじ投げた。死んだと思って何日か後のぞいたら、生きとった。」

脳膜炎とは、今で言う髄膜炎のことで、幼児期に患えば、高い率で知能障害などの後遺症が残るそうです。

 

女は呆れ、親元へも告げますが、子沢山で1人でも食いぶち減らしをしたい親は知らん顔で、娘を救い出そうとはしませんでした。その時代は、よほどの良家でもない限り、娘は性知識も与えらず嫁に出されたそうで、私を産むことになった女もそうでした。

 

さて、私、小学生の頃、以上のようなことを詳しく知る由もありませんが、こんな感じで両親を見ていました。

 

「この人らに気を取られてはいかん」と、私は親たちを警戒していました。途方もない面倒に引きずり込まれる、という気がして。子どもの直感のようなものでしたが、当たっていました。表向きは親ということにはなっていても、実際には子どもを損ねる者たちだから、深入りしてはいけない。私は誰から教わるでもなく、そう心得て頑張ろうとしました。

しかし、それは理論的にはあり得ても、実際は綱渡りのように難しいことでした。

なぜなら、子どもは衣食住共に親に依存しなければ生きられない存在で、カスミを食って生きられるわけではないからです。親と一つ屋根の下で暮らし、彼らから完全に目をそらすことなどできないのです。

 

本を読んだり、映像見たり、夢いっぱい、希望にあふれた気分になっても、ふと、視界の端に見え隠れする現実の身近な大人たち。それが私を引きずり降ろしに来る。ぼさぼさ髪で、男をなじる女。「ポットへ入れる湯を沸かすなら、そんな、ちょこちょこガス点けたり消したりせず、いっぺんにしてしまいーな!」と。それに対して、男がどう、うろたえ、どう反論していたかは忘れた。思春期の私の記憶に残ったのは、「こんな男女の間に、性関係があったっていやだな」ということ。

いわゆる冠婚葬祭や参観日などには、人並みの、きちんとした身なりのできる女親が、普段みすぼらしくしているのは、いやな男をなるべく遠ざけておくため。それは後日、女親自身の口からも聞けたし、私から見てもそうだろうと思えました。

当時、私は、まだ彼らの結婚の実情は知りませんでした。好きになった者同士がするのが結婚で、時が経つにつれ、好きでなくなることもあると聞いていたので、それかな、くらいに思っていました。それにしても、その始め、彼らが仲よくしているイメージなど、どうしても描けませんでした。よかった頃の話も聞いたことないので、私は女親にその辺を訊き出そうとしました。そのたび、返ってくるのは、「自分は一度も相手を好きだと思ったことはない。親が勝手に決めた」という主旨の答えでした。

そんな質問もできないもっと年少の頃、私は、勝手に女親のことを「あんな男を選ぶとは、なんと悪趣味、低能な女だろう」と軽蔑していました。その気持ちは態度にも出るし、折に触れては口にも出していたのだと思います。後日、女親は言いましたから。「私は、ずーっと娘に白眼視されていた」と。

話し上手ではない彼女が、私のその誤解を解くには大変だったようですが、「相手を好きだと思ったことがあった」と思われるのは何としても我慢ならなかったようで、「ずーっと嫌い続けている」と主張し続けました。

 

なるほど、彼らの若い頃を想像しても、いいイメージは全くわかず、仲睦(なかむつ)まじさはもっと想像もできず、苦虫噛み潰しているようなイメージなら容易に描けました。しかし、あくまで自分の推察です。ぜひ本人の証言を得たい、と私は強く思い始めました。生きてるうち、眼の玉黒い内に、この人の口から聞き出したい、と。

それが一つ屋根の下のにもかかわらず、筆舌にし難いほど大変でした。長期戦でもありました。しかしある日、聞き出せました。女親の性生活は、最初もその後も、ぞっとするほどいやなことだったと。その話になると「あー、いやだ、いやだ!」と頭をかかえ、叫びました。私は20代の後半にもなっていたでしょうか。具体的なことは何も聞けませんでしたが、その様子だけで十分でした。

私はスッキリしました。自分の命が愛情から出発したのではないことがはっきりしても、がっかりするどころか、さっぱりしました。

それ以前、一時、自分の命が愛情から始まったのではないことに、落胆し、自分を汚らわしく思ったこともありました。実際、思春期の少女にとっては、生きるか死ぬかの一大事でした。その頃のことを詳しく思い出そうとすればできないでもありません。でも、やめておきます。

 

それより、その昔、女性の同意も得ず、力尽(ちからづ)くで子を産ませても、その子は決して男側に付かない、男は愚かにも敵を増やしただけだということを、男に思い知らせたくなってきました。この、犯罪者のみならず、それを容認、是認、さらには結婚などということに仕立て上げた男たち全員に。男の父親、女の父親ひいてはその共謀者に思い知らせたい。

女親は時々こう言っていました。「自分は子どもを産んだ時思った、この子と泣きましょ」と。親にも誰にも助けてもらえず、心の支えは子どもだけだったということでしょう。その心境は分からないでもありませんでしたが、私はこの、「泣きましょ」が気に入らなかった。悪いこともしていない者がなぜ泣かなくてはならないのか、泣くのはヤツらだ、われわれではない、と思い、その思いは年月重ねるごとに強くなりました。

 

合意のない結婚に嵌(は)められ、七転八倒する話ばかりに傾いてしまいましたが、その昔でも、むろん両性の合意に基づく結婚もありはしたでしょう。

それで生まれてきた子は愛の結晶などとも言えるでしょう。しかし、どの子もこの子もそうに違いなく、それに疑いを持つ子は不届き者、ひねくれ者のように蔑(さげす)むのは如何なものか。彼らは敏感なだけ。大人が振りまく嘘八百に惑わされないだけ。赤ちゃんは愛の結晶だなどと、よくもまあ嘘八百を言えたものだ。因みにこういう虚構は宗教の得意とするところ。宗教にどっぷりでは親の素顔は見えてきません。

 

愛の結晶どころか、

暴力の結晶、薬害の結晶、放射能汚染の塊、排泄物と紙一重、またはズバリ排泄物。

現実はそんな赤子で、世の中はいっぱいだ…

思春期を過ぎた私は湿っぽい感傷などすっかり乗り越えていました。

 

ところで、女親は口癖のように、子どもの血は100%自分のもので、男の血など1滴も入っていないと言いました。しんどい思いをして得た子は自分だけのもの。転んでもただでは起きないしたたかさです。事実、男は女に何の快適さも安心感も与えませんでした。股間の一物(いちもつ)突っ込む時も、その後、女が子を産んだ後も。更に、子育て中もギャンブル狂いや手癖の悪さで女を苦しめ続けたのであれば、女がそう言うのも解ろうというものです。

 

知的障害といっても、程度から何から色々でしょうが、私が長年見ていた知的障害者は相手の気持ちが読めない男でした。自分が相手に快感をもたらしているか、不快感で苦しめているかが判らないのです。何十年判らぬままで、生きているうちは相手の女に「汚らしそうにするな!」と脅して突っ込みまくり、死ぬ手前で、子どもにこんなことを言います。「うちのお母さん、不感症ちゃうか?」(自分の配偶者をお母さんと呼ぶ。彼に限らず日本人によくある傾向)

それを聞いて私は唖然としました。「あんたが相手なら、どんな女でも不感症どころか、見るだけで拒絶や。あんた蹴とばされるか、ブチ殺されるで!」と思いました。因みに、この男の死後、やっと自由になった女から聞いた話ですが、こんな不満も言っていたそうです。「あんたはちっとも自分の方からおねだりして来(こ)ん。会社の友人なんかは、嫁さんの方から誘ってくると言うてるのに」

女は汚らわしくて返答もできなかったと言います。

タバコや強烈なわきが臭に加えて、水虫の皮をボロボロまき散らす男が何言うとるんや、と思って。

あまりしつこく言ってくると、カネを与えて追っ払った。でも、いくらおカネのためとはいえ、こんなヤツの相手をする女性は気の毒やなあと思った、ということです。

 

私個人として一番いやだったのは、自分の相貌が「女親寄り」ではなかったこと。

実に、この男は、ヒトよりは類人猿に近いと思えたので、記録の為に写真を撮ったことがありました。正面やら横からやら。顔だけでなく全身も。「写真を撮る」と私が言うと彼は喜んで応じました。私の意図も知らず、嬉しそうに。写真は撮れて、しばらくは保管していましたが、ほどなく処分してしまいました。見たくもない姿は保管し続けられないものです。

 

私も、常々この男とは、なるべく距離を置いておきたかったので、同居していた時もめったに話しをしませんでした。自活を始めて別の町で暮らしていた頃は顔も見なくて済み,清々していました。できればそのまま死に別れとなってほしかったのですが、年老いて適当に体力も弱っているのを見ると、ちょっとは懲らしめたいという思いがわきました。体力的に凹(へこ)ますに適当な時と思えたので、その時は、私の方から話しかけました。私30過ぎの頃です。相手のおびえたような顔をよく覚えています。私に呼び止められることを恐れていたようです。

 

私がまず言いたかったのは「女親が子どもを自分だけのものだと思っていること」でした。

「あんたがなんにも教えてへんから、あの人、自分の子どもをあんたとは無関係と思うてるで。あんたなんかおらんでも、できたと思うてる」

これを聞くと、男は驚き、しかし、すぐに、しんみりうなだれて言いました。

「そうか!…それで、わしにあんなに冷たかったんか…」

確かに、相手に何も教えなかったことは自分の落ち度だと男は認めました。

「最初の印象が悪かったこと」も白状しました。

加害者は、その程度にしか感じていないものなのです。このオヤジとのやり取りのときには、私、知りませんでしたが、オヤジの死後、20年以上もたってから、私は、被害者の方(ほう)からこれを強姦だと聞かされました。当時、結婚のなんたるかも教わらず、「家事手伝い」くらいに思って嫁がされた娘たちは、多かれ少なかれ、似たような目に遭っていたのでしょう。根掘り葉掘り訊きださなければ得られない情報です。私の女親の場合、知的障害顕著な相手への嫌悪感もあり、手や体の一部が触れるだけでも嫌だったといいます。逃げようとしたら、「結婚したら、皆こうするんや!」と襲いかかってきた、と。確かに強姦です。結婚という名の強姦。結婚≒強姦の時代は、日本に長らく続き、少子化を防いでたようです。

被害者は苦痛と不快のあまり嘔吐したと言いました。便所へ行って吐いた、と。「本人の面(つら)にぶちまけてやればよかったんや」と私は言いました。「それくらいせんとわからんヤツには!」 実際、私は、そのことを知らせないまま、オヤジを死なせたのを悔しく思います。

ともあれ、その時のオヤジは長年連れ添った(と自分では思っている)相手を怨み続けた自分を少しは反省出来たようでした。

「わしが間違(まちご)うとったんか」と、非を認めました。

これは大きな収穫と言えますが、その他は相変わらずピント外れでした。

 

記述は順不同かもしれませんが、男との会話を思い出してみます。私は相手にそもそも、マトモな返事は期待しませんでしたが、実に、予想を超える返事がいくつも返ってきました。

我々子どもをろくに構わず、自分だけ遊び呆けたことを責めると、こう言いました。

「わしは戦争やなんやで青春を奪われた。失われた青春を取り戻したかったんや」

これを聞いて、私はこいつをぶち殺してやりたくなりました。

「そうしたければ、独身でやれ!」と思い、これは言葉に出したかもしれません。

我々には青春はおろか、子ども時代もなかった。家はみすぼらしく、友達も呼べない。薄い壁や傾いた柱や建具。隣家や隣室のいびきや騒音が筒抜け。寝不足で叩(たた)き起こされる朝は死ぬほどつらかった。夜、寝床につくときは。いつもこのままずーっと眠り続けたい、朝なんて来なければといいと思った。翌朝がくるとがっかりした。死ぬほどがっかりした。暑さ寒さもろくに凌(しの)げず、特に冬の隙間風は容赦ない。手足のしもやけ、逆むけ、慢性鼻炎で「鼻紙(はなかみ)」(昔はティッシュはない)が後生大事のお守り。こんな小学生は当然活気がない。体力も乏しく笑顔も無い。すると女親がなじる。

「子どもらしくない。可愛げがない」 トドメは「お父さんそっくりやな」

言われた子どもは思う。「なぜもっといい男を選ばなかったのか?」

 

これら惨めな思い出をオヤジにまくしたてた訳ではありません。言葉にもできないほどムカついていたのです。それに気付かないようでオヤジはこうも言いました。

 

「貞子が死んでしもたやろ、それでわしの頭、ごじゃごじゃになったんや」と手で、頭をかきまぜるようなふりまでして言いました。

貞子というのは私の姉で、2歳にもならぬうちに夭折した子です。私は写真でしか知りません。オヤジやその弟の煙草の吸殻を弄(もてあそ)んで病気になりました。弟は肺を患っていました。子どもが病気にならぬうちに、女親は提案しました。この子の為に、しばらく別に部屋を借りてやろうと。男は反対し、子どもは病死しました。死ぬと男は泣いたそうです。泣くぐらい、赤の他人でも出来ます。女親は悲しみで気持が動転していたので、この男にも人の情があるのか、と、ほろりとなったそうです。正常な判断できていたら、「このドガイショナシめ! 大事な子を殺しやがって!」と気付いたでしょうに。

 

さて、彼としては、そのような発想、気づきは到底不可能であったとしても、その悲しみの為に、その後、生まれた子をないがしろにしてしまったと、その子本人に、しゃあしゃあと言う、その神経とは?! 「悲しければずーっとおとなしく悲しみ続けておけ。また子を産ませるような悪させずに!」と、私は思いました。

そもそも、お前の頭の悪さは貞子が死んだせいで始まったわけではない。もともと悪いから、子を死なせるようなこともしてしまったのだ。

多くを述べたくはありません。一事が万事。また、彼は誰との会話でもこの調子でしょう。相手を苛立たせること多く、私以外の人とでも、これ以上ましだったとは思えません。彼は友達もほとんどいませんでした。唯一の友達(だと、こちらが思っていた人)は勤め先の同僚(か先輩?)Yさんでしたが、ひもの結び方を色々知っていたようで、(そのうちのいくつかを)彼に繰り返し教え込もうとしたが、ついには覚えらなかったということでした。女親は恐縮しながら、Yさんからその話を聞いたといいます。

 

身の程知らず、とは彼の為にあるような言葉で、私に、長年(性生活を)干されているのを憐れんでほしいようなことまで言いました。我慢できている理性をほめてほしいようなことも。女に養われて生き延びてきたことなど念頭にもないようでした。

 

女親によれば、「わしゃ損する」と、彼はよく言ったそうです。「結婚したのに、わしゃ損する」と

結婚を自分の責任ととらえることなど彼の発想にはなかったようで、「ただでさせてもらえる権利」としか思わなかったようです。

 

何によらず、男は相手を逆恨みしていました。お頭(つむ)のよくない人がよく因果関係を逆転させてしまいますが、彼もそうでした。自分の非を配偶者のせいにしようとしていました。自分が盗みを働いたり、仕事を怠けたり、ギャンブル狂になったのは、妻がかまってくれなかったからだ、と。

更には私にも「おまえらも、ちょっともわしに懐(なつ)いてこなかったやないか」と。

これには我々子どもたちが体験したことを述べて解説に代えたいと思います。

 

先ず私。まだ小学生にもならない頃か、行きつけの風呂屋でのこと。その日はオヤジに連れられて行った。

湯船で、いい加減温(ぬく)もったので、出ようとしたら、オヤジに阻(はば)まれた。私がもういい、というのに、オヤジが押さえつけ、苦しくて、もがくのに出してくれない。気分悪く、気も遠くなって気を失った。…気がついたときは、風呂の出入り口の棕櫚(しゅろ)マットの上にしゃがみ込んでいた。吐いたんじゃなかろうかと気になった…何とか助かったのだ。きっと誰か、よそのおじさんが助けてくれたんだろう。大勢の人がいる銭湯だから助かった。密室の内ぶろなら、どうなったことか…

私が女親にこのことを言ったのは何日か後になってからだ。余りにも嫌なことがあると私は大体こうなる。すぐには言えないのだ。

次に弟。まだ赤ちゃんだった時、女親が彼を縁側に寝かせ、そばにいた男親に「この子を見といて」と頼んだ。女親が家の奥に入って用事をしていると、赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、駆け付けると、男が落ちた赤子をぼーっと眺めていた。

 

弟は赤ん坊でなくなってからも、絶対オヤジに近づこうとしませんでした。私は自分の銭湯事件があるから、弟の口に出さない事件も色々と想像できます。しかし、どんなことがあった? と訊くのもはばかられます。嫌なことを思い出させるようで。我々は何かと無口にならざるを得ません。

ついでに言うと、近所の友達が父親に遊園地へ連れて行ってもらったとか、動物園へ言ったとか聞くので、うちも連れて行ってと言っても、うちのオヤジは返事だけはよくて、ドタキャンか、「そない言うてくれな」(そう言ってくれるな)。で終わり。子どもは次第におねだりそのものをしなくなる。「家族の会話」などということ自体、白けて聞こえてきます。「家族だんらん」「家族ぐるみ」「家族の…」「家庭の…」なども、忌まわしいだけの言葉になってしまいます。

因みに、女親の証言によれば、我々も一度ぐらいは動物園の回る大きなカップに乗って喜んだことがあるようです。私は女親が連れて行ってくれたと覚えているのですが、男親もそこにいたようです。女親は子どもたちの喜ぶ顔を見て「お父さん、また連れてきてやろな」と言ったということですから。男親が連れていくというより、女親にしぶしぶ付いて行ったというところでしょう。

 

これらの事をその時、改めて男に話したわけではありません。話したところで、「あー、その時はぼーっとしとったんや」と言われておしまい。よく言いました。頭がぼーっとなったんや。

 

なんとか彼でも覚えていそうな、出来事を一つ見つけ、子どもの私に期待させたのに、それをすっぽかしたことを覚えているかと訊くと「覚えとる」と言いました。それを追及すると、反論できなくなり、最後にはしぶしぶ詫びました。

本気だったかどうか、わかりませんが。

 

正直な所、私が10歳の頃、この男におねだりしたことを男が覚えていると言うのは意外でした。忘れた、と、とぼけるかと思っていたのに。それは先ず私が女親に凹(へこ)まされた後のことでした。

近所の同級生が、ある日私を誘いました。「あたし、バレエを習い始めたの。見に来ない? 先生も友達連れて見学に来ていいと言うの」 おけいこ場は近くだったので、行ってみました。その頃は皆、地味な黒一色のタイツ姿でした。先生らしき人の動きを真似て皆やっていました。飛んでもはねてもビクともしない床で、うちの、我家の直ぐたわむ床とは大違いでした。家へ帰り、すぐにではなく、女親の機嫌のよさそうな時を見計らって、「裏のKちゃんが習ってるバレエを私もやりたい」と言いました。すると女親は即答。「できんことを言うな!」と、噛みつくような剣幕でした。私が心臓に穴のあくような思いをしていると、付け加えました。「自分が、何でもの好きなことさせてくれる親の所へ生れてこい!」と。 …自分が産んでおいてなんてことを言うんだろう、と私は弱った頭で考えました。心臓の穴が巨大化、自分が空洞になったような気がしました。

その後日、私は同じことを男親にも言ってみました。多分空しいことだろうけど、一か八か、ひょっとして…という期待もありました。何せ小学生です。夢も抱きます。私の希望を聞くと、オヤジはこう答えました。「ああ、習うてや。あんたらのやりたいこと何でもしてや」と。

私があこがれたのはステージや衣装というより、あの質素なタイツ姿。最初は履かせてもらえないというトウシューズ。実に地味少女でした。

 

オヤジの言葉はそれが実現しそうにも聞こえたのに、具体的には何の進展もなく、私は諦めました。

多分その後だったでしょう。わたしのやけ食いが始まったのは。むくむく太り、中学生から高校にかけてが、暗黒の時代でした。

 

それから20年余り。あれこれ努力して何とか標準体重になった私はオヤジに言いました。「(バレエを)あんたが習わしてくれると思うて、私はずっと待っとったんやで」と。

 

するとオヤジは「すまん」と手を合わせて詫びました.まるでハエのような醜さでした。

彼は、その他あれこれ寝言や、おべんちゃらのようなことも言いましたが、最高にお粗末だったのはこの発言。

「(我々は)親子やから、何でも言うたらええんや」

出し遅れのムカつくセリフ。30年遅いよ。もろん私は受け答えもしませんでした。

 

彼の言葉の中で、耳を傾けてもいいかなというのは少しありました。

子どもを全くかまわずにいた訳でなく、私が幼児の頃、どこか親戚へ連れて行った時、大事に大事にしてやったんや、ということ。そういえば、背広を着たオヤジと電車でどこかへいった覚えがありました。道中のどが渇いて「おぶうちゃん(水)ほしい」と言ったら、ビン入りジュースを買って飲ませてくれたことがありました。「おぶう(水)と言ってるのに…」と思いながらも、ないよりマシで、私はジュースを飲みました。

…そんなこと、特に声を大にして、言わなければならないことですか? 親なら普通に、それくらいするでしょう。よちよち歩きなら、転ばないように気遣う、とか、普通に。

でもそれは彼にとっては簡単なことではなく、幼児同伴で無事に親戚訪問を成し終えたというのは大変な偉業だったのでしょう。忘れ得ないほどの。

「お母さんを粗末にしている」と言う私の言い分にも敢然と立ち向かってきました。「粗末にしてへんやないか!」と。「わしも気い使(つこ)うて、気い使(つこ)うて、しとるやないか」

それは本音だったでしょう。つまり、彼は彼なりに気を使い、人並みに振舞おうとすることで汲々だった。日々の生活は人を真似る努力で塗りつぶされていたのでしょう。空しい努力で。

 

それは、私がつい、訊(き)かなくていいことを訊いてしまった時、痛切に感じました。

「あんたは、一体、あの女の心が欲しかったんか、体が欲しかったんか」と、なぜか月並みな質問を発してしまったときのこと。彼は答えました。

「そ、そら、心やわいな」

正直にと答えておけば話もこじれないのに、いっちょまえになどというから、話がこじれる。

若かったカズエが何度も別れたいというのに、「あんたが逃げても、わしはあんたをどこまでも追いかけていく」などと恫喝、束縛したくせに。相手の心を大事にするなら、自由にしてやった筈だ。心の離れている相手をどこまでも追いかけようなんぞということは、体を追いかけることにしかならない。

私は以上のように思いましたが、口には出しませんでした。言ったところで、相手は、また、つべこべ口答えしてくるだろうし、なるべく早く切り上げたかったのです。

 

 

因みに、私はその男が自分の知的障害について、親からも誰からも知らされていないようなのを、少し不憫(ふびん)に思いましたが、それについては何も言えませんでした。私が直接見聞きしたことでもないし、そもそも言うべきは彼の親です。健常者並みの結婚や会社勤めを強要せずに、障害者に見合う、それなりの環境を整えてやるべきは彼の親の役割です。その息子(1916年生)の時代は知的障害者の公的福祉制度もまだもない時代です。精神病患者や知的障害者は座敷牢の時代。

ちょっと見、そこまで酷くないと見えるような、ちょうど、彼のような障害者が野放しにされて、本人もその周囲も苦しんだのでしょう。そういう場合こそ、その親が気付くべきです。程度の差はあれ、精神障害者には違いないのだから、それが健常者と同じ様に妻を娶(めと)ったら、どんなことになるかは容易に予測がつくはずです。彼の親は何を思って障害児の息子に嫁を取らせたのでしょうか? 息子以上の知恵足らず? それとも周囲への見栄っぱり? 

彼の父親は自分の職業左官をこの息子に継がせようとしたが、さっぱりものにならず、ある一流企業へ就職させたと言います。そこへ入れる時、「絶対ここをやめるな」と言い付けたそうですが、それこそ無謀です。常日頃の息子の言動をみれば、勤めきれるかどうかわかりそうなものです。

息子はギターをやりたかったそうです。若い頃、せっかく入手して来たギターを父親に目の前で叩き壊されたそうです。「こんなものはヤクザのすることや!」と。

 

逆立ちしたって、私はこの男の父親を理解も容認もできません。後遺症として、知能障害を残すような病気にさせたのは、何と言い訳しようと親の責任です。

知的障害者の収容施設がない時代なら、自分が生涯かけてこの息子の面倒を見るべきです。この出来そこないを尻目に、その後8人も子を増やしたりせず、この息子にかかりきりでも、まだ足りなかった。それもせず、この息子を就職させたり、結婚させたり、迷惑被る人々を沢山作り出しておいて、さっさとくたばるずるさ、だらしなさにはことばもありません。1946年に彼は死んでいます。55歳で。その妻の話によれば、医療過誤に巻き込まれたようです。

 

ひょっとしてこの男は長男を見限り、そのスペアを得ようとして、子を増やし続けたのか? やはり健常な後継ぎが欲しくて? 事実、その後、彼は息子を何人か儲け、健常な子もいた。では、跡取りはその子に絞り、障害者にはそれなりの能力に見合った暮しをさせればよかった。世帯主などにさせず。

明らかなことは長男は自力(じりき)では配偶者を得ることなど、とても不可能だったということ。そんな息子にお節介にも、親が嫁をとってやるという根性がそもそも腐っている。他に適切な言葉が見つからない…腐っているのだ…

やっとこの男を理解できそうです。

 

赤の他人である年若い女性に、自分の役割、わが息子の面倒を全部押し付けようとしたわけです。

 

そういえば、この女性、歳重ね、亭主から解放された後、言いました。「あの舅(しゅうと)、私にあいつを押し付けようと思うてたんや」と。彼ら父子の死後、自分がなめさせられた辛苦を振り返る様にそう言いました。更には彼女が時々あざけり気味に指摘していたこと、普通長男に付ける名前「一郎」を、長男ではなく、末息子につけていたことを考え合わせると、彼の意図が更によく見えてきます。彼の跡取り本命は「一郎」で、その他は余計な枝葉というわけです。

 

1950年に座敷牢が廃止され、精神衛生法ができたり、その改正がなされていった頃、既に一家の世帯主になってしまった男も、入院できたのでしょうか? 誰もそんな智恵は貸してくれなかった。誰もが、男を健常者に見せかけることに汲々としていました。最初の就職先で盗みを働いた時、会社がそれを警察沙汰にしてくれていたら、ひょっとしてそっちへの道も開けたかもしれません。大黒柱を失い、残された母子は生活保護を受けるとかして…。しかし、見栄っ張りの親戚連中が、寄ってたかって、それを踏みつぶそうとする可能性の方が高いでしょう。彼らは兄貴が異常なことを知らぬ筈ないのに。彼の妹や弟は「兄ちゃんは、ちとお頭(つむ)が足りんのや」と漏らすことがよくありました。

男の両親始め、きょうだい、親戚、誰もこの男を「健常者に見せかけて社会に迷惑かけてはいけない」とは思わなかったようです。迷惑垂れ流しの発想です。顔も見たくないし思い出したくもない。幸いなことに、男の父親の写真は1枚もありません。戸籍謄本で名前を見ただけです。

 

日本風の先祖供養ではそういう先祖にも情けをかける向きもあるようですが、私はまっぴらです。

 

見栄っ張り親に自分自身の病歴も教えてもらえず、病人自身に判っていたのは自分がなぜかドジなこと。努力しても、しても、人並みのコトができない、辛さだけ。

 

さて、今は亡き女親について。

女性側の意向が全く容れられず結婚させられたのだと、私にわかってきたのはいつ頃だったろう? 私が成人した頃だったか? 当時の戸主制度では、戸主の権限が絶大で、父親が娘の意向を無視して嫁ぎ先を決めることぐらい珍しくなかったと知ったのは。直接、女親にきいてみたり、同世代の女性にきいてみたり、書物で知ったり… ともかく、自分世代の結婚と、親世代の結婚の中身には大きな隔たりがあると知りましたが、それでもなお、疑問は残りました。

嫌だと思うなら別れたらいいのに、を始め、なぜ実家の親がそれを理解し、娘を助けないのか、嫌いな男に妊娠させられるだけでもぞっとする話なのに、わが親はなぜ、それを産み落とし、育てるに至ったのか?等々。

 

表向きは、世帯主や私の親だということになっている男は既に述べたようにこの上なしの甲斐性なしで、安普請の雨漏り隙間風の家に妻子を住まわせても、頭の中はいつも自分のギャンブル資金くすねることでいっぱいでした。家のあちこち探しまわり、金を持ち出すのです。子供の財布も容赦しません。実際に自分の赤い財布がこの男に引かれていきそうな時、私は声を上げ、取り戻しました。男はバツ悪そうに何か言い訳がましいこと言いましたが、思い出すのも嫌で、略します。男の虫の居所悪ければ、殺(や)られかたも知れないと、済んでのことにぞっとします。

…なんていうのも、変な言い方。いつの間にか、自分も人並みの言い草に染まっている…。違う、ひと思いに殺(や)られてしまっていた方がむしろ楽だったのかもしれない。しかし、多分その甲斐性もないでしょう。彼自身、自殺しようとしては何度も失敗していましたから。

私も中途半端に障害者にされるよりは、これでよかったのでしょう。

 

とやかく述べるより、次の話を聞いてほしい。その後、その男が死んだ時、我々は大喜びしたのです。私の心の奥にはいつも、女親が先に死んで、男の方が残ったらどうしよう? という恐怖もあったので、望み通り。男が先に死んだのは幸運とさえ思えました。

 

ホッと人心地つきました。今もホッとし続けています。我々の貴重な時間や体力を無駄にしたという思いは強くあります。これでやっと人並み、と言いたいところですが、そうもいかないのです。

それは他人の父親の葬儀に出席した時、痛切に思い知りました。普通、人は自分の父親が死ぬと悲しみ、泣くのです。死者の歳に不足もないほどでも、泣く。ましてや、まだ若いうちに亡くしたら、大騒ぎ。

それが私には疎ましい。不快です。いたたまれない。すんなりお悔みも言えない。

 

いくらあんた方にとってはいい人、なくすに惜しい人だったからといって、

そんなに手放しでおいおい派手に泣いてくれるな。私の前で。

あんた方、親がいた時はさぞかしよかったんだろうね、

あんた方のそれまでの幸せを見せつけてくれるな。

えーかげんにせー!

 

これが私の本音です。親父が死んで、もろ手を挙げて大喜びするような、「めり込んだ幸せ」しか知らない私の本音。

 

しかしこのままではとても世の人々とギクシャクするので、

今ではさらに、こう気持ちを整理しました。

まともな父親が死んだら、子が悲しむのは当たり前。

私がオヤジの死を悲しめなかったのは、彼がまともな父親ではなかったからだ。

血縁だけで親だと威張れるとでも思うのか、

それにふさわしいことができなければ、子から見て、そいつは疎ましいだけ。

邪魔で汚らわしく、迷惑なだけ。

子を扶養したり、擁護する親の機能を果たさなかった。

頼もしさのかけらもない男が親や先祖だとふんぞり返るな。

 

戸籍など何の役にも立たない。戸籍は妻子を扶養しない。

私に親はいなかった。特に父親は。

私を苦しめ、手こずらせたあの男は私の父親ではなかったのだ。

 

母親もいないと同然でした。だまされた女がいただけです。そのことを私は彼女に教え、彼女は学びました。自分にかかわった男連中が、ただのバカであったことを知り、溜飲を下げて人生を終えました。

むろん彼女は男どもを許したわけではありません。彼らがきちんと彼女に詫びた訳ではないのですから。いくらでもそのチャンスはあったにも拘らず。

今になって思うに、私の女親の相手やその親だけでなく、女親の父親も知的障害者だったのではないでしょうか。彼らのえげつなさを、時代のせい、性格のせいなどと片付けるのは簡単ですが、彼らの余りの愚かさ、非情さに、ふとそんな気がしてくるのです。だからといって、同情も容認もする気持ちも生まれません。ただ、クソミソに憎むというエネルギーのロスは押さえられます。

女親も私も言いたいことはこれだけ。

「私は彼らが大嫌いだ!」

知的障害者に子供ができてしまったら、それはそれで仕方ないことですが、彼ら自身に子どもを育てさせてはいけません。近づけてもいけません。会わせない、見せないのが一番です。

 

とりわけ、反面教師などという詭弁には要注意。

物事の善し悪し(よしあし)を判断できない幼児にとって、親は丸ごと教師で、見習うべきでないなどと思える筈ないのですから。

「わしが死んだら、その辺の川にでも流しといてくれ」

子どもはそれができると思ってしまいます。

 

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