私を産んだ〈チンポ〉(その2)

著者:幸子

第二章 

カメさん

 

カメさん、あんたはどこまで始末悪い人なんや。私がいちばん話したかった相手なのに、私がやっと物心ついたとき、あんたはもう死体だった。黄色い顔して床に転がっていた。歳は六十過ぎだったか。

カメという名が嫌いで、自分で別の名前をつけていたとか。いつの時代にも名前の定まらん人はいるものよ。

カメは、「鶴は千年、は万年」に因(ちな)んだ命名かな。六十そこそこでは長寿とはいえなかったけど。

今では私の方が年上になるほど時が流れた。話し合いたい気持ちは募(つの)る一方だが、死人に口なし、やむなく手紙を書こうと思うが、お前さん字が読めんそうや。まあ、誰かに読んでもらって。あんたの子や亭主もそっちにおろうからな。

 

私が誰だか判るか? カズエの子だよ。カズエが産んだ二番目の娘。最初の娘は二歳にもならんうちに死んで、その後(あと)できた子だ。名前も知らんだろ? 試しにカズエの子の名前を言うてみい。三人全部言うてみ。一人も言えんのじゃない? 世の中には、孫どころか、ひ孫、玄孫(やしゃご)の名前まで言えるばあちゃんもいるというのに。全くわれらは影薄い。

 

突然だが、このセリフに覚えはない?「へん、なんぼでも、ねぶれ、通らんわい」

昔、あんたがカズエのそばを通ったときに言ったセリフ。若いカズエは床に座り、針に糸を通そうと苦労していた。糸の先がぼそぼそと乱れ、なめて纏(まと)め、通そうとするが、うまくいかんので、また同じことを繰り返していると、横を通り過ぎるあんたがそう言ったという。

カズエは針を持つたび、糸を通すたび、この言い草を思い出すと言っていた。「一言、『糸の先を切れ』とでも言ってくれたら、いいのに、意地の悪い人やったで」と。

 

私もそう思うが、さらに思うに、きっとあんた自身も、その昔、誰かにそう言われたんじゃないか?世の中には、自分がされて嫌だったことを人にはしないでおこうとする人やら、しようとする人がいる。

同じ人が気分や体調次第で、変化することもある。とはいえ、カズエはあんたに励まされたとか、かわいがられたとかの覚えがないという。あんたの亭主からは更に。

あんたは、いじわるが趣味だったの?

 

「そーれ!」の掛け声と共に、まだ子どもだったカズエの肩に、大人並みの穀物束やら肥(こえ)タゴやらを担(かつ)がせ続け、すっかりセムシのようにしてしまったね。カズエはその異様な肩や背中を気にして、私の背中をなでながら「あんたら、ええなあ、すんなりしとって」と言った。私が子どもの頃、風呂屋でそう言った。実際、自分の親は特異な体つきだったから、私は親と他人と見間違うことはなかった。後ろ姿でもすぐわかった、自分の親だと。ただ、生まれつきそうなのかと思っていた。成長期に、腰にズンとこたえるような重荷を担(かつ)がされ続けたせいだとは知らなかった。腰も普通じゃなかったね、うまく言えないけど、ほかの人とはうんと違って見えた。

かわいそうだよ、あれじゃ舞妓(まいこ)にもなれない。舞妓の着付けはぐっと背中を出して見せるけど、それが、こんもり厳(いか)つい背中ではサマにならん。それにしても、踊りや三味線が好きで、憧(あこが)れてたよ。習いたくてしかたなかったって。

あんたもあんな肩をしていたのか? 私の手元にあるあんたの写真は正面しか見えないのでわからんが、とてもそんな厳(いか)つさは見受けられん。学校も中断させられ、親にこき使われたと聞くけど、重たい荷物も担がされていたのかい? 時には、か? 親にされて嫌だったことは自分の子にしてはいかんよ。

それもひっきりなしに。

 

 こんなことすっかり忘れているんだろうか? 誰に何を言ったか、したか… あんたと一度も直接話したことがないので、さっぱり気心がつかめんのよ。

カズエのすぐ上のタミエには、せっせと白米食べさせ、麦飯ばかりのカズエが羨(うらや)むと、「おまえも働きに行くようになれば食わせる」と言って、結局は食わせなかった。工場へ働きに行くようになっても。まあ、現実はそれがカズエの体や頭に役立ったらしく、白米育ちの子より元気で長生きしたが。

忘れるの?自分の言ったこと。カズエが「うちゃ、継子(ままこ)か?」と訊いてもあんたは無言。 忘れるの? この子を産んだのは誰か?

カズエ達姉妹は誰が見ても、みんなよく似た顔だったから、継子(ままこ)は考えにくいけど、あんた、返事はしてやらにゃいかんよ。大事な問いには。そんなあんたに育てられたせいか、カズエは返事をいいかげんにしがちだった。我々子どもが、あれこれ訊いても、ろくすっぽ答えない。答えてもこっちを向いて答えない。そんな子ども時代だった。私は。

 

さて、私が伝え聞いた晩年のおまえさんの至言はこうだ。「わしゃ、いーっぱい罪を作っとるから、よーう供養してくれーよ」

長男の嫁に言ったそうだ。カズエはその嫁から聞いて私に伝えた。

あー、腰ぬけたよ。世の中にそんなことを思う人がいて、また口に出すとは!

子や孫をさんざん虐(いじ)め、損ない、殺害して、その子らに詫びもせず、誰かに供養してもらって自分の罪が消えるとでも思っているの? あんたがその損なわれた子だったら、そんな人許す? 

あんたに線香や花は役にも立ちそうにない。そんなもの供えても、思いあがるだけという気がする。私の指摘はそれよりいくらかマシかも。ほかの誰に宛(あ)てたものでもなく、ピンポイント、おまえさん宛(あて)のものだから。

お前さんら夫婦が産んだ娘の一人、一番の働き手、第4子が私を産んだ。私以外にも何人か産んだが、私がいちばん彼女の面倒を見た。有体(ありてい)にいえば、手を焼いた。彼女のせいではない。あんたたちが見るべき面倒をろくすっぽ見ずに、彼女を放り出したので、子どもの私にそのお鉢が回ってきたの。死ぬまで彼女はあんたら夫婦を怨んでいた。95まで生きたが、大してボケなかった。おまえさんらにすれば残念だろうけど、両親から受けた不当な仕打ちをきちんと覚えていた。もう二度とあんた方(がた)のような親のもとに生まれることはないだろう。卒業出来た、あんたらから。

 

だから、私はあんたとも縁切り出来ているのだが、一人の女として、母親として、あんたを思ってみると、色々と思いが湧き出てくる。どんな話にも出てこないほどのお粗末さ、最低の母親はどのようにして出来上がってしまうのか。あんた自身、子供の頃、どれほどひどい扱いを受けたのか。

そんなことに思いを巡らせるのは、パンドラの箱を開けるようなことかもしれん。

だからそれはほどほどにしよう。

 

今回あんたに言いたいのは、カズエも私もあんたら夫婦に騙されてしまうほど間抜けじゃないということだ。普通、人が自分の祖父母に呼びかける時にはあんたおまえさんとは言わない。

 

言わないが、私はそうとしか言えない、その理由も解ってくるだろう、私の話を聞けば。

 

カメさん、一体あんたはあのカズエをどうしようとしたんだい? 

嫁にやった? 冗談だろ? 見合いも形だけ、娘はうす暗い部屋で相手の顔もよく見えないと訴えたのに、あんたはそそくさと知らん顔、サッサと話を進め、結婚式当日、娘を死ぬほど落胆させたね。娘はよほど逃げ出そうかと思ったが、帰ればオヤジからビンタ食らうことを恐れ、躊躇(ちゅうちょ)してしまった…。何と惨めな始まりだろう! その後も何度も嫌だ、帰りたいと実家に助けを求めて来るのを、あんたら夫婦は拒絶した。親父は「もう遅い」、あんたは「どこが悪い?」とか言って。

いやはや、「どこが」じゃないんだ。カズエも言った通り「全部」なんだ。こういうことは。

あんた自身、離婚、再婚という経験あるのに。嫌な男と暮らすことの苦痛を人一倍知っていたんじゃないのか? 再婚してやっと思う相手に巡り合えたんだろう? 娘たちの何人かにも再婚の道をひらいてやったのに、なぜ、一人カズエにだけはそうしてやらなかった? カズエが死ぬ少し前にしみじみ言ったことはこうだった。「あーあ、気の合う人と暮らしたかった!」

私は、その気持ちは大事に持ち続けるようにと言っておいた。「それが人間の本来やからな」と。

気の合う人と暮らすだけでも、もっと元気で介護も不要、ピンピンしていたかもしれん。百歳過ぎても、オムツも要らず。嫌いな相手とはどういうことか教えようか? 相手のチンポも見たことがないということだ。私が十代の終わり頃、うっかりトイレの中のオヤジのを見てしまい、その大きさに驚いた話をカズエにしたら、こう言った。「えー! あんたそんな汚いモン見たん?! あたしでも見たことないのに!」

私は子どもの頃、銭湯で、老若男女いろんな人々を見たから、オヤジのも知っていた筈だったが、幼い頃の認識と思春期以降のそれは違う。十代終り頃の私は「しぼんでいてこれか…」と思った。

田舎育ちのカズエの方は一人用の五右衛門風呂しか経験なく、男の裸体など目にする機会もないまま嫁いできたのだろう。それで、いきなり手篭めにされ、股間に大ケガさせられたら、そのブツを厭(いと)わしがるのも無理はない。むろん股間のブツだけでなく、相手の全身どこからどこまで大嫌いで、後姿も足音も、声もしぐさもぞっとするわけだ。こんなのは、親の言いつけを守って、好きになろうたって、なれるものではない。好き嫌いは本人の権利だよ。基本的人権なんて言葉は、あんたには解らんだろうが、解り易くいえば、子どもを親の犠牲にしてはいかんということだ。親の気まぐれ、親の都合で、子を捨てたり、売ったりしてはいかんということだ。子どもは楽しむべき自分の人生も楽しめず、命が縮む。顔が曇る。自分も周りも暗くなる。その子を遠ざけ、見ずに済ますというのでは、親の値打ちもクソもないよ。

カズエの良い人、戦死した人は諦めざるを得ないが、それを和らげてくれそうな人は探せばいただろう。あんたら親が手助けしなければ、そのとっかかりもつかめない時代じゃないか。健常な娘一人を障害者の餌食(えじき)にした。異郷の見知らぬ馬の骨の餌食(えじき)にし、見て見ぬふりし続けたあんた方(がた)、遠く離れた住み慣れた我が家で、さぞかしあんたら夫婦は仲睦まじく暮らしたんだろうね。

カメさん、あんたは朝、亭主を送り出すとき、その後姿を眺めては「うちのとっつあんは結構ななあ…」と、のろけていたというじゃないか。カズエにしっかり見られていたんだよ。

 

あんたの亭主テツゴローは正直に白状している。「娘を捨てた、女の子を一人捨てたなあ」と。それを聞いたあんたはまた、驚いたように娘に言ってみせる。「とっつあんが、娘を捨てたなあ、と、言うちゃったよ」

どんな神経だ? まさかあんたには、それほど異常な結婚とは思えなかったとでも?

いやはや、死人に口なし、この辺が一番困るところだが、解らぬからぬことは解らぬからぬままにしておこう。なまじ、解るほどに、あんた似てきやせんかと怖いからな。 

 

それより何より、亭主の言葉を十分理解できなかったなら、娘に言う前に亭主に言えよ。坊主の説法を理解できぬまま、誰かにそのまま言う信徒がいるが、それ並みだ。夫婦は対話だろう、解らなければ

(き)けよ「どういう意味?」解れば「それダメ」と。さらには、はっきり言え、「娘を捨てるようなことは相ならん」と。

自分がそうされることを考えてみろ。娘は思う人に戦死された悲しみでいっぱいだった。自活の為に看護学校へ行こうとする健気(けなげ)さもオヤジは踏みにじった。その時のことをカズエは忘れられなかった。

頑固オヤジの機嫌のいい時を見計らって、おそるおそる看護学校へ行きたいと申し出たカズエに、オヤジはこう言ったという。「百姓はどうする?」カズエは内心「そんなの私の知ったことか」と思ったが、言うとビンタなので、だまっていた。オヤジはこうも言ったという。「(看護婦になるなら)婦長にならにゃつまらんぞ」と。「そんなの大変で、とても私にはムリだわ」と何とか思わせよう、諦めさせようと子供だましのような、脅しのようなセリフを並べ、カズエを落胆させたのだ。

洋裁学校へ行きたいという願いも踏みにじられた。

いずれも、カズエが勤めていた工場でもらった給料を、全部オヤジに渡さず、自分で貯めていたら、叶った話だ。カズエが毎月持ち帰る給料袋を、このオヤジは、無言で、袋ごとひったくるように持って行ったという。

これをカズエは「自分はオヤジに芽を摘まれた」と表現した。「芽を全部摘まれてしまった」と。聞いたのは数年も前だが、余りに痛々しく、私はこの言葉を再現することもできなかった。思い出すのも苦痛だった。

カメさん、カズエはあんたにこの話はしたんだろうか? しなかったろうね。あんたに話そうなんて思いつきもしないよ。いつも何の役にも立たないんだから。

 

しかしこれぐらいは想像つかんか? 成人後、間もなく、丸腰で遠い異郷へ放り出される娘の心細さ。まともな見合いも、付き合いも全くなしのぶっつけ本番。相手の男はお前さんらから見ても酷(ひど)かったんだろう。あんたの亭主テツが「娘を捨てた」というほどだから。見目形(みめかたち)もさることながら、お頭(つむ)が壊れていたんだ。脳膜炎の後遺症だとよ。カズエからも聞いたろう? 婚礼後間もなく姑が明かした。(というより口が滑った)幼児期に脳膜炎で医者もさじ投げ、死んだと諦めたのに、何日後かに見たら、生きていた、と。

そんなことは見合いの前に言うべきだし、結婚後判ったんなら、娘の親は烈火のごとく怒り、連れ戻すべきだ。

現実にはカズエはむろん、あんたら親に言いつけたが、そろってトボケて見せたと言うじゃないか。例のセリフだ「もう遅い」とか、「どこが悪い?」とか。カズエは必死で「どこもかしこも全部!」と訴えるのに、あんたは取り合わなかったね。他人でもしないよ、そんな仕打ち。

食いぶち減らしさえ出来たら何でもしようというわけか。孫の何人かもその調子で片付けた。ごみのように、猫の子のように。

 

カズエからお前さんらへの伝言。「子を捨てるほどなら、そもそも子が出来るようなことをするな」

そんじょそこらの坊主より高度な説教だろう。これに尽きる。これで、水子の供養も無用。命は生じず、間引かずに済むのだ。因みに、坊さんが、間引かれた子どもをどのように憐れんで見せ、どのようにそれが罪なことか、その親に説教しても、そういう親たちが皆無になることを本気で望んでいるだろうか。

 

子どもの数は自分の経済力で養えるだけにとどめておくことだ。それが動物と違う人間の値打ちというものだろう。大根じゃあるまいし、やたら植え付け、チョンチョン間引きするんじゃないよ。種まき、芽を出したら、それを全部育てるのが人間。真理はとてもシンプル。そのシンプルな計算の出来ない大人が子どもを損なう。

「銭(ぜに)こいで(細かく砕いて数を増やして)使いたいのう」とか、テツが愚痴ながら、カメとやりくりに頭を痛めていたそうな。

十歳の頃、両親のやりくり話を、ふすまごしに聞き、気の毒に思い、「自分も早う大きゅうなって助けてあげにゃ」と思ったカズエ。成長し、実際、懸命に助けたカズエ。その娘を、捨て猫同然の目に遭わせるテツの無慈悲さは一体どう理解したものか。生い立ちは、彼の兄たちが何人も夭折した後、何とか育った男子ということで、大事に育てられたというが、大事にされるのは男だけと思ったのか? 男は何をしても許されるとでも?

だろう、だろう、図体も大きく、何でも殴れば解決するのだから、知性や理性を磨くチャンスもない。磨くどころか、最初から持ち合わせもない。子や孫を選(よ)り取(ど)り見(み)(ど)り、えこひいきするのがいけないと思っていない。野生動物にそんなのいるな。パンダは双子産んでも大きい方しか育てず、もう一方には目もくれない。タスマニアデビルは1度に何十匹も子を産むが、乳首の数4匹までしか育てない。

そうだ、テツは人間というより、その類(たぐい)だ。加えて、前時代的意識どっぷりの男偏重。身(み)を粉(こ)にして家計に貢献したカズエを無視、その一方で、孫息子を後生大事にした。「わしゃマサさえおりゃええんじゃ」と平気で言い放つ。カズエは若い頃から、そのセリフを何度か聞いたという。跡取り孫息子マサさえいればいい、娘は捨て去る。捨てた娘の、その名前もおぼつかないほど念入りに捨て去るのだ。堕(おろ)されたり、裏山へ捨てられた孫たちも同様。大方は名もない、ゴミ同様のものだった。私自身もそのランクだ。テツは我々の名前さえ知らない。

 

実際、我々を産んだカズエもテツから名前を呼ばれたことがない。カズエの記憶に一度もないという。カズエを「捨てたこと」を白状した時の彼のセリフも「娘を捨てた」で、しかなく、何人もいる娘の名前など、どうでもよかったのだろう。覚える気さえなかったかも。

 

そのくせ テツは死後何年かしてカズエの夢に出てきた。「わしゃ、玉ねぎの皮を食うとるんじゃ」と、物乞いするようなようすで。名前はおぼつかないが、カネの工面はよくしてくれる子だと当て込んでいたのか。ど甲斐性なし男に嫁がされ、子育て真最中(まっさいちゅう)で汲々のカズエに、すまなかったとも、やりくり大変かとも言わず、只々、わしは食うに困っとるんじゃ、と訴えて来る。カズエはきっぱり言った。「うちへ言うてきても知らん!」と。それから二度と出てこなくなったという。

 

この話を聞かされた時には私は思い付きもしなかったが、ひょっとすると、テツが「娘を捨てた」と言ったのは、カネヅルを手放してしまった後悔の念を漏らしたのかもしれない。「子どもの中でも、とりわけよく働くあの娘を手元に置いておけば何かと心強かったのに、惜しいことをした、娘を一人捨てたなあ」という具合である。なきにしもあらずだ、甲斐性なしとはそういうものだろう。

 

因みにテツが当て込んでいたマサだが、ものの見事に外してくれたらしい。先祖供養をしないという。墓も放置で草ぼうぼう。カズエはこれを知り、大いに溜飲を下げた。ざまあみろ、くそおやじめ、思い知れ、とばかりに、ケラケラ笑った。死ぬ前に知ってよかった。ほんとによかった。

捨てられた小さな命の数々をいい加減にして、何のテツらの供養どころか。更に、テツが戸籍上の父親ユーキチと、実は赤の他人で、ユーキチに疎(うと)まれていたことを考え合わせたら、そっちからも爪はじき。

これについてはのちに触れる。カメさん、あんたの口の軽さで、私までがこんなことを知ることになる。ユーキチの妻アキばあさんは、たいした息子を産んでしまったものだと、カズエは言っていた。

ところで、もみ消された小さな命はその後、仮に手厚い供養を受けてもおさまらないだろう。それより、誰に、どんなやり方で、どんなふうに殺(や)られたかを具(つぶさ)に知ってもらいたいだろう。祖母カメの手にかかって母乳を断たれ、便秘で悶死(もんし)したトミコは、自分が「病気で死んだ」などということにされて納得するだろうか? 「皆(みんな)で世話し、一生懸命育てたが、病気で死んだ…」なんてきれいごとにされて。

 

トミコを覚えているか?カメさん。あんたの長男の先妻の子。別れて実家へ帰ったその女性が産んだ、その、産まれたてを、あんた、さらいに行ったってね。向こうではまた別の名前をつけていたかもしれないが、とにかくあんたはトミコと呼んでいた。「どんな字書くの?」と、私、うっかり聞きたくなりそう。あんた、字の読み書きできないんだったね。亭主がつけたのか?その名前。

ともかく、名前をつけたのは、その子に人権を認めたわけだ。

そうだとも、彼らはゴミでも獣(けもの)でもなかった。我々と同じ人間だった。

 

そうだ、カメさん、カズエがある日、何十年も前のあんたの言動を話さなければ、私はもっとあんたを買いかぶるところだった。もっとまともなおばあちゃんだったと思って。私がまだ十代だった頃だと思う。カズエと親しい近所の女性が産婦人科医院に勤めていて、カズエに堕胎の話をしたそうだ。ちょいちょいその手術はあるが、7カ月にもなる子を堕(おろ)すのは初めてで、その頃にもなると堕(おろ)される時、泣くというのだ。

その時、カズエはあんたが自分の長女チエコの堕胎に立ち会った話を思い出し、私に話した。その昔は患者の親が立ち会うこともできたようだ。「チーの息子」と、カメは言ったというから、男児だ。

その胎児も七カ月だった。「(胎内から引きずりだされる時)白目をむいてわしをにらんだ、あれは怖かったぞ」とカメが恐ろしそうに言ったという。ある時、突然言ったそうだ。カズエにすれば、なぜ自分がそんな事を聞かされるのか、わからなかったし、返答のしようもなかったという。カズエは未成年だった。長女チエコとは十歳以上離れていた。姉チエコは最初の結婚が破たんし、再婚で落ち着いた。その再婚に当たって、母親のカメが堕胎させたそうだ。血のつながった孫を引きずりだし、にらまれて怖かったという祖母とはどんな神経か。為すすべもない胎児の方が、祖母より何倍も怖く、痛かったろう。苦しかったろう。

その話はその後も何度か聞いたが、何度聞いても、カメさん、あんたが子を憐れむ言葉は聞けなかった。詫びる言葉もさらさら。

 

因みにカズエの妹にあたる娘(ユキコ)にも再婚させる時、堕胎させている。いやはや氷山の一角とも思えてくる。カメ自身の堕胎も私は当然疑っている。カメ四十過ぎで生まれた末娘は堕胎しそこねた結果というから、全くの邪推でもあるまい。そんなことも、カメは本来カズエに言うべきではないのだ。「おろそうとあれこれやったが、うまくいかんで産んでしもうた。(早産で、未熟児に近いのかもしれない)じゃから、あの子は、柄(から)も小さく、髪も赤茶けて…」などと喋りまくるんじゃないよ、全く!

その上、黙っていればいいのに、こんなことまでカズエに言っていたそうだ。

「うちは子供を一人も死なすことなく育て上げた」と、自慢たらしく。

それを聞いて、私は「え?」と思った。末娘を必死で堕(おろ)として失敗し、産んでしまったというカメさん、あんたには、実に不似合いなセリフだよ。疑い深い私には、まるであんたが「成功した堕胎」を必死で隠ぺいしているように聞こえる。真実はカメのみぞ知る、だが、嘘つき女が何を言っても信じて貰えないことを知るべきだよ、カメさん。

ウソと言えば、あんた、カズエに白米食わすといって食わさなかったことなど、かすんでしまうような大ウソをついていた。それはカズエが九十歳も過ぎた頃、カズエの妹がよこした手紙で判った。例の赤毛の末娘。「近頃、姉さんの夢をよく見るので、気がかりだ」と言ってよこした。折しもカズエがいまだにうなされるトミコの夢で、私も動揺していた折から、「この話、この人に言わずに誰に言う?」と、迷わず言うと、全くの拍子抜け。「それは姉さんの思い違い」などとハズレな反応、傲慢な決めつけ。話し込むほど、ズレまくるので、こっちも相手を見切ったが、その時、手紙や電話は何度かやり取りした。      

その中で、カメさん、あんたのことを書いていた。カズエ二一歳の結婚の時、妹ムツコは十二になるかならずだ。あんたはそそくさと神戸へカズエを片づけてしまった後、ムツコには言ったそうな。「娘をあんな遠い所へ一人残して帰るのはとてもつらく、駅で別れる時は後ろ髪引かれる思いだった」

これを読んでカズエは怒り心頭、「二枚舌とはこのことや!」と怒った。婚礼前の見合いでも、その後の別れ話でも、何の助けの手ものべず、見捨てたくせに、それを知らぬムツの前では、何を慈悲深い母親を気取って芝居がかったセリフを垂れ流すか!

カズエが怒るのも無理はない。見合いでの不備についても冷淡な上に、結婚後、困り切って何度助けを求めても知らぬ顔したカメを、誠実な母親とは思ってはいなかったが、こんなにウソツキでもあったのか、と改めてあんたを見直していたよ。

ムツコの手紙にはテツゴローのセリフまで書かれていた。「娘を一人捨てた」。カメさん、あんたにも言ったセリフで、こちらはあんたほどの大ウソではないようだ。小ウソとでも言おうか、玉虫色の言い草で始末悪い。それを子供のムツコは「父は、娘の嫁ぎ先をずいぶん遠く感じた故に言ったことだと思う」などと解釈したそうだ。そのムツコ、七十年後、老人になってからの解釈もそのまま。成長しそこなって老化だけが進んだのか。そもそも、カメさん、あんたの家では皆、オヤジに質問をしないのか。確認や質問、会話はないのか、それほどまでに。「それどういう意味?」と訊けば済むことじゃないか。

 

そもそも、この、テツの言う 捨てた は正しくない。正しくは売ったのだ。200円で。見合いのその席で娘に無断で結納として受け取っている。娘は知らなかった。後日、カメさん、あんたが喋るまで。

 

だから「捨てた」発言も真面目にわかろうとする必要なし。「200円では安すぎた、捨てたようなもんだ」と思って言ったのか、(その金額の真相さえ受け取った本人しか知らない)、「ごじゃな娘を遠くへ追放出来た、捨てたなあ」とホッとしたのか、それともさすがに相手の男のお粗末さに気付いて、「いい男に嫁がせられなかった、娘を捨てたなあ」と思って言ったかは不明だ。

いずれにしろ、娘の幸福を考える父親なら、娘を捨てたりしないということだ。

 

ところで、この石頭ムツコとのやり取りで、私は、ちょっとした発見をした。

(おろ)されそこなった胎児というものは、生れ落ちると親を怨むよりは、尊敬する傾向がある。健全な者なら、批判できることも、そうでない者にはできなくなるようだ。親への尊敬を超えて、崇拝の域にも達する。胎内では親に必至の抵抗、反抗をしたであろうのに、生まれおちた途端、豹変する。助けてくれた命の恩人、とでも言うように。

 

何やら支配者と被支配者の秘密を覗(のぞ)き見るようだ。人を支配するには、適当に壊しておくこと。健全な人間は人を批判でき、あれこれ抵抗したり、文句を言うので面倒だ。壊れた者はそれができず、只々(ただただ)自らの生存を感謝するだけなので、扱い易い。しかし、壊れ方(こわ かた)が酷(ひど)いほどいいというわけでもない。あまりひどいと、使いものにならんので、適当な壊れ方が大事なのだ。

親子の間に生存競争があるとすれば、堕(おろ)され損(そこ)なった胎児は勝利者と言えるのだろうか?

胎児に限らず、親に処分されそこなった子は勝ったのか?親に。 抗争による欠損はあっても、生き延びはしたから、負けたわけではないだろう。しかし、手放しで勝利とも言い難い。勝利に付き物の喜びがない。敵に止(とど)めを刺せていないからか?

 

とにもかくにも、カズエは聞かされなくていいことの、たらふく聞かされ、見せられ、身に余る重荷を背負わされたまま、異郷へとばされた。カメさん、テッつぁん、あんたらがしっかりカズエの話を聞いてやらなかったから、カズエはあんたらに言うべきことを子どもの私に言うしかなかった。あんたらはしっかりどころか、ほんの少しも聞いてやらなかった。弁舌に困るとぶん殴るだけの脳ミソ。図体だけデカイ典型的なバカ。自分と血縁だなんて、「汚らわしい」のひとことだ。テッつぁん。あんたが諸悪の根源だよ。腕力だけの脳足りん。ど甲斐性なしに加えて、わが娘で欲情満たすことぐらい屁の河童。その娘はカズエのすぐ上の姉だ。いい年頃になっても平気でオヤジの蚊帳(かや)の中へ入っていく。「気持ち悪~」と、思いながら見ていたカズエに彼らは気付いていたか? 当時よくいた暴君オヤジの見本がそこにもいたのだ。

 

さて、カズエがしょいこまされた婿について、私がカズエに聞かされた話は、例えば、新婚早々、赤紙来て、婿が召集されたので、ほっと喜び暮らしていたのに、戦地から訳わからん判読不能な手紙よこし、苛立たせた。その上、しばらくしたら、死にもせずに帰ってきて、死ぬほどがっかりした、とか、里帰りに一緒に連れていくのが恥ずかしくてたまらんという話。出された料理をガツガツ腹壊すまで食い散らす。あの娘はあんな男としか一緒になかったかと思われると情けない。町を一緒に歩くのなどご免だ。見るのも嫌だ。等々。多分、カズエは思うことのほんの片鱗(へんりん)、口に出しただけだろうけど、残るよ、子どもの心には。普通子どもが聞かされないようなことばかりだから。

それでカズエが私に感謝してくれたかって? ああ少しはしたろう。それと「子どもらしくない!」と、大いにけなしてくれもした。彼女は混乱してたよ。ムリもないだろ。あんたらが、カズエに、これっぽっちも親らしいことをしてやらなかったからだ。

 

あんたらが婿の異常さを認めなかった分、子どもの私に認めてもらおうとさえしていた。

何故あんな男とサッサと別れないのかと、子どものころから私はしばしば尋ねた。カズエの答えはこうだった。「あんたら子どもが何もわからんうちに別れていたら、きっと、どんなにいいお父さんだったろうと思うだろう。お母さん、わがままで別れたんやろうと思うやろ?」

この返答には参った。まるで子どもに男の異常さを見せつけて自分に賛同してもらいたいといわんばかりだ。そんなことが子どもの役割か?

異常な男からさっさと子どもを救い出し、遠ざけるのが母親の甲斐性というもの。心身ともにふがいない男を自分の父親だと思い知ったところで、子どもに何の喜びがあろうか?遺伝の恐怖が募るだけだ。

私が何度も説教繰り返し、あれこれ解説し、カズエはやっとこれを理解したが、つまずかせたのは親だ。親自身の無慈悲に加えて、それさえもボカしてしまうような、親についての迷信だ。

「親の意見となすびの花は千に一つの徒(あだ)もない」がカズエの口癖だった。ある日、私から、「万に一つはあるだろう。億にはもっと」と言われるまで。この後話す「トミコ事件」が他人ごとではないことに気付くまでは、カズエにとって「親」はどこまでも善良な信頼に足る存在だった。

 

またこれも言える。「なぜ別れないの?」という子どもの質問に、カズエが率直に「親が帰ってくるなというから」と答えていたら、ごたごたはもっと早く解決していた。知らぬ間にカズエは親を庇(かば)い、親のせいにしないでおこうともしていたようだ。

 

ところで、年月経るにつれ、カズエは亭主トシローの年金に期待が増大していく。トシローが最初の勤め先で盗みを働き、クビになった後、親戚を頼ってその再就職にこぎつけたのはカズエだ。その後も大変な思いをして、亭主のケツ叩いて働かせ続けた。中途半端に離婚して、いずれ夫に支給されるその年金をふいにしてたまるか。

それは私にもわかり易かった。幸いなことにカズエの方が長く生き延び、遺族年金を受け取ることができた。驚いたことに、カズエも幾つも会社勤めを続けていたので、自身の年金もあったが、金額が低く、夫の遺族年金を選ぶ方が有利だったことだ。その昔、女性の給料はいかに低かったかということだ。あんなにフルタイムで働き続けていたのに…

 

因みに、亭主を見送ったカズエが、まず私に言ったことは「あいつな、私に『汚らしそうにするな』言うねん、あんたどう思う?」だった。わたしは即答した。「汚いやん」カズエは「そやろ?」と喜んだ。

その後、カズエは男の愛用のマグカップを処分し、その他、男の思い出につながりそうなものは次々処分した。

カメさん、あんたは何の病気で死んだ? 苦しんだってね。トシローもいい加減苦しんだらしい。ヘビースモーカーだったしね、ガンだよ。肝臓からどこから、手がつけられないほど広がっていた。わが弟は、長男ということで医者からオヤジの内臓開けて見せられ、とんだ災難。気持ち悪くて何日も飯食えなくなったって。

とにかく死んだよ、やっと。ちゃんとカズエより先に。

カズエ六十過ぎかな、その頃。それからしばらく二十年足らずの間が、やっと彼女自身の時間だった。

苦しんだ期間四十年余りの半分にも満たない。まあ、ないよりましではある。失われた楽しみを取り戻そうというように、老人会に参加したり、カラオケ仲間と楽しんだり、顔つきも以前よりよほど元気そうになった。なんだ、この人、以前は、それ薬用酒や何やと体調整える為、あれこれ苦労していたのに、実は嫌な男がいなくなるだけで健康になれたんだ! 彼女だけではなく,我々子どももそうだった。葬儀でも悲しんでみせたのは親戚だけ。我々は肩の荷降ろし、人心地(ひとごこち)ついた。これでやっと人並みに暮らせるとホッとした。部屋に鍵かけ回らずにすむのだ。タバコに燻(いぶ)されずに済む。何より姿を見ずに済むのだ!

 

その昔、子ども時代、夏休み、しばしの息抜きを求めてカズエの実家へ行っては帰る、あの苦行。しばしの休暇後、自宅へ戻らねばならないときの、いいようもない憂鬱。田舎の人はみんな幸せそうに暮らしていた。今でも忘れられないのが、実家の地を踏んだ途端(とたん)、カズエが泣き始めること。懐かしい人々への挨拶もそこそこ、おいおい泣くのである。子どもの私は驚いた。忘れた頃、また夏が来て、田舎へ行くとカズエが泣き、帰る時にも泣いていたようだ。「ここを離れたくないんだ」と何となくわかってくる。ところで、私の最大の関心事はカズエの言葉使いだった。見事なバイリンガルにも思えた。その地へ帰れば、すぐその地の言葉になり、故郷の人には福山弁、私たちには神戸弁をきっちり使い分けた。

カズエの実家以外にも、幾つか親戚回りをして寝泊りもしたが、どの家も広くきれいで、しっかりしていた。こんな人たちと親戚なんだから、自分たちも幸せな筈、でも実際は違う。我々母子は口には出さないが、思いは同じだった。憂鬱の種はわが家がみすぼらしいことだけではない。そこに居座る住人なのだ。というより、そういう住人だから、ボロ屋へ家族を住まわせても、なんとも思わないのだ。子どもが自分のボロ屋を苦にして友達も呼べずにいるのに、知らん顔。まだ子どもがお腹の中にいる頃は、徹夜マージャンで散々カズエを苛立たせたこの男は、子供ができたらできたで、徹マンよりはマシと言わんばかりに、平気で次々ギャンブルにカネつぎ込むのだ。競輪、競馬、パチンコ、麻雀等々。

同じ借家住まいだった近所の子の父親は、安い内に借家を買い取り、立派な自宅に建て直した。

 

さてカズエも年齢重ね、足腰弱り、介護を受けるようになった。そのうち要介護度も進み、私がこの要介護老人と同居し始めたのは九十歳頃だった。同居の目的はカズエの目ン玉黒い内に、あれこれ訊いておこうと思ったからだ。親が死んでしまってから、あれも訊いておけばよかった、これも言っておけばよかったと悔やむ人がいる。その親が死なないまでも呆(ほう)けてしまい、責任追及どころか、介護するしかなくなる場合もある。想像するだけでもぞっとする。

もし私がそんな目にあったら、介護などしないし、グレまくってしまうだろう。まさにこの人物にぶつけたいという怨み辛みを、その人物がうけとめられなくなってしまう事態は私の想像を超える。そういう時、人は犯罪や自殺に走るのではないか?

まだカズエが1人暮らししていた時、私は自分の子ども時代からの恨み辛みをぶちまけに行った。

それに加えて、私の不満はカズエが、私の前でこれ見よがしに、孫娘達を寵愛することだった。弟が私より先に結婚し娘2人生まれ、その孫たちをカズエは可愛がっていた。私の眼にも可愛くは映ったし、かまってやったこともあったが、親にも祖父母にもかまわれず、寂しい思いをしまくった自分の子供時代を思い出さずにはいられなかった。カズエは私と顔を合わせれば、こっちが訊きもしないのに、やれ昨日は孫娘がこう言ったの、どうしたのと、嬉しそうに報告する。親と車で立ち寄った時も、盛んに、おばあちゃん乗り、と小さな手で座席を指して誘ってくれるんやで。などと、でれでれ。

えー加減にせー、と私はぶち切れた。「昔ほったらかした娘の前で、嬉しそうにそれと同じ年頃の娘を可愛がる話をするな!」

するとカズエはやっと気付いたように「そうか、もうあんたは大人になってるから、ええんかと思うとった」と言った。私は大人になったといっても、成長に必要な気遣いやふれあいのないままの、時間の経過があっただけだ。満たされないままの、子どもはしっかり今も居座っている。

因みに、二歳離れた弟は病弱だったせいで、カズエはそっちに付きっ切り。事情は薄々分かっていても、甘えたい盛りの私はいつも「ボクちゃんだけかわいがる」と不満を言っていた。それはカズエもよく覚えていた。

「子の私への手抜きも詫びずに、孫、孫と嬉しそうにかまいまくるな!あの子らは両親に可愛がられてるだけで十分やろ。私は親にも、じじばばにもかまわれなかったわ!」

小学生の頃、近所の同級生がバレエを始め、私を誘ってくれて、自分もしたいとおそるおそる言った時、カズエが雷のように「できんことを言うな!」と、怒鳴ったこと。「そんなことが出来る親の所へ生まれてこい!」と追い打ちをかけられ、私はやけ食いを始め、太り始めたこと。ダメでもあんな言い方せず、一緒に泣いてくれるだけでも、私の気持ちや体はもっと変わっていただろうこと…その他、暑さ寒さも直撃のボロ家という劣悪環境で、年中快適な勉強部屋持つ子に負けない成績とってくるのに、ほめもせず、ちょっと成績下がるとボロカスになじる…

思い出せる限り、あれこれまくしたてた。

カズエはしょんぼりした。色々思い当たることもあるようで、詫びていたが、突然泣き出した。

「あーあ、あの婚礼の時、逃げ出して帰っとりゃよかったんや!」と叫んだ。

初対面で嫌だと思った相手を、親の言いつけだから、とか、親せきの世話だから、などと思って無理に我慢したことを悔いているようだった。それも、その我慢が、子どもの幸せにいくらかでも役立てばまだしも、全く、子どもも幸せでなかったとわかり、愕然としたようだった。

「ニューギニアへ行きたい、ミユキさんに会いたいなあ!」とカズエは泣いた。「ミユキさんはどこですかー、 と大声で呼べば『おお、わしゃ、ここじゃ』と今にも出てきそうな気がする」と、泣き続けていた。

私はその時、初めて血の通ったカズエを見た気がした。私が子どもの頃からずーっと能面のような、血の通わぬ顔をしていたのは、この気持ちをずーっと押し殺していたからなのだ。そういえばこの人、時々ミユキさんの思い出話するときだけは、優しい顔になっていたなあ…とも思った。

戦死したミユキさんはカズエの中身をすっかり持ち去ってしまった。優しさ、温かさ、細やかさなどをすっかり持ち去り、我々は彼女の抜けがらだけを見ていたんだ…。私はそんな気がして自分の子どもの頃を思い出し、妙な納得をした。

私五九歳、カズエ八九歳の時である。無知なまま嫁がされた自分は、強姦されたと言明したのも、この時だった。

 

因みに、「ミユキ」とは「幸」と書くのだと私が知ったのは、これより前だったか後だったか…。ふと私がカズエに尋ねた時、「あんたと同じ字や」と言った。私の戸籍上の名前に使われている字。命名は男親だろう。カズエは男と余計な話をしたくなくて、私に別の名前をつけて呼び続けていたのだ。私が自分に「幸子」という名前があると知ったのは小学校へ入る時である。

 

さて、要介護状態になってしまったのは、カズエにとって実に不本意で悔しいことだったようだ。何でも人一倍テキパキこなし、自分ほど偉い者はいないというような迫力で人をけなしまくり、笑っていたのに、それができなくなる…。それはカズエの本意ではなく、そうとでも思わなければ惨めでやりきれないという事情もあった。しかし、そのはったりが効かなくなる…

その自覚ができ始めると、私に対する態度も変化してきた。それはかなり以前、八十代半ば頃から見え始めていた。

私は息子の高校進学について学校で教師と面談後、自宅への道を急いでいた。自転車で坂を下っていた時、タクシーとぶつかり、飛ばされて膝を打った。運転手が出てきて、警察にも届けてくれ、病院で手当ても受けたのだが、自宅で待っているカズエと、ケアマネの方(ほう)が気になっていた、ケアプランについて話し合う約束をしていたのだ。電話で事情を話し、陳謝し、延期してもらったが、カズエがさぞかしカンカンだろうと、びくびくしながら帰宅した。

 「何をぼさーっとしとったんや!」と怒鳴られるだろうと思ったが、私を待っていたカズエはこう言った。

「(あんた)急いどったんやわ…」

その言い方が、私を労(ねぎら)うような、思いやる様な言い方だったので、私は拍子抜けした。え?この人、人間変わった!

 

変わる要因として、息子への期待外れと、その分、娘の方への傾倒もあったかもしれない。「長男だから、当然自分が老母の面倒はみる」とハッタリかましていた男が、いざというときは何の役にも立たず、何かにつけ、近くに住む娘の世話になるという現実。気心知れない息子の嫁より、なじみの娘の方がいいという気持ち、そんなこんなで早急に、カズエの気持ちは、息子より娘の方へなびいていっていたのだろう。

そうだ、こんなこともあった。孫娘が成長し、大学卒業前の研修か何かで、カズエの家へ何泊かさせてもらえないかと言って来た。(言って来たのは直接本人からではなく、その父親からだったらしい)カズエがまだ何とか独り暮らし出来ている頃だったが、足腰は弱り、膝も具合悪かったので、私は反対した。「やめとき。あんたも、もう80も過ぎで足腰ガタも来とる。ムリしたら、ろくなことにならんで」

その忠告にもかかわらず、カズエは可愛い孫娘の為とばかりに、寝泊り食事、買い出しなどまで頑張った。後日、私はご近所さんから言われることになる。「おばあちゃん、しんどそうに足引きずって、買い物袋さげて帰ってきよった。よう、あんなお年寄りをこき使うわな、息子さんも」息子だけではない、世話してもらった孫娘本人も、階段下り上がりで息切れする老人に「おばあちゃん頑張りよ。ええ運動になるんやで」と、ぬかしたそうである。人の表情や体調を読めないバカの集まりである。こんな連中に感謝されるよりは、嫌われて、自分の体を守る方が賢明というものだ。

果たしてカズエはその後体調ガタガタになった。それみたことかと私に言われ、それからは、私に謙虚にもなり、何かと傾注してくるようになった。

 

カズエの場合、足腰は弱っていたが、頭はしっかりしていたので、私はなんとかそれを維持させようと必死だった。ボケられてたまるか、と、あれこれ手を尽くした。食事や入れ歯、その他色々学び、世話したので、周囲からは面倒見のいい子だと見えただろう。

要介護老人の世話をしつつ、取り調べというのはまるで、高齢犯罪者を扱うようなものだ。因みに身内とギクシャク関係の高齢者たちは、肩身の狭い思いするより、他人からの世話の方がよくて、故意に犯罪者となる者も増えているという。さもありなん。更に言えば、高齢者でなくても、野宿や針のむしろより、刑務所がいいのだ。

 

さて老人介護経験者の大多数が陥る様に、私も老人虐待をした。叩いたり、つねったりである。個人的にはそんな言葉で片付けられたくない、子供時代の復讐である。相手もそれを理解していたので、仕方なく耐えていた。ケアマネや社会福祉士は今現在の老人の被害を問題にし、かつての幼児の虐待被害には疎い。老人のアザや傷跡は彼らにチヤホヤと気遣ってもらえるが、その昔の幼児の深い心身の傷は誰からも気遣われることはなかったし、今もない。

私の暴力、暴言は、ほとんど無意識に出て来た。昔、幼児期の自分の記憶が思い出されると、無力だったその頃のもどかしさを挽回しようとばかりに、今は、やせ衰えてしまった老人に仕返しするのだ。ときには小学生の時の担任の暴行を再現するようなやり口も出てきた。両手で拳骨を作り、頭を両側から挟んでグリグリ圧するのだ。教師はそれを「グリコ」と呼び、お得意のお仕置きだった。私九歳ぐらいの頃である。幼少年期に暴行にさらされると、身にしみついてしまう。苦痛と、その仕返しが。

 

介護は赤の他人の方がいい。今現在の老人の状態を正視できる他人が。

 

老人ホームもピンからキリだ。そう、カズエも入ったことがある。一年足らずだが。近所の特養だったが、酷いところだった。歩ける者もさっさと車椅子生活にし、出て来るお茶はとことん出がらし、職員たちも決して飲まない。それが神戸市の監査のある日だけマシになるというもの。まともなお茶がないかと言えば、むろんある。応接室ではきちんと普通のお茶が出て来る。

入所者の入れ歯が破損していても知らん顔で使わせ続け、オムツ取替えは枚数ケチるのか、尻はいつもかぶれてジュクジュク。そこへ、これでもか、これでもかというほど、アズノール軟膏を塗りたくる。(自宅へ連れ戻したら間もなく治った、何も塗らず)医師も看護師も必要もない薬を飲ませることが大好きで、目薬点眼は三種類を一時にドバドバ。なにしろ、体ガタガタ、頭ピンボケ老人、ばかり相手のことだから、やりたい放題。しかし全く改善する気がないのは、ここでも入所希望の待機者が何百人もいるからだ。実情知らぬは恐ろしい。私は何度も施設長に面会を申し入れたが、応じられることはなかった。

ダメ施設の見本だった。

そこからの脱出も実は容易なことではなく、さながら「アルカトラズからの脱出」並みの難業だった。何と施設の待遇が老人虐待同然であるくせに、かつての私の老人への暴行をとやかく言うのだ。施設を取り締まる市職員が出てきて私に説教する。

「お宅の場合、ご本人が自宅介護で随分ぶたれたりしていたようなので、それを考慮して優先的に入所させてあげた」などと恩着せがましく言う。「自宅の状況が改善されたのを確認できるまで退所は認められません」とも。施設や市の職員との面接では私の夫も同席したが、彼はその市職員にかみついた。「その費用、あんたが払ってくれるのか?」すると、「いいえ」。ええかげんにせー、である。

消費者センターやその他相談窓口で色々学んだら、特養(特別養護老人ホーム)入所には、普通の「契約入所」と、高齢者虐待防止法による「措置入所」があるそうで、後者は公費だということだ。こっちなら、好き勝手に退所できないと言われても仕方ないが、我々契約入所者に対し、この職員、なんとも横柄、呆れたことにその上司も同様だった。契約入所と措置入所の区別もつかない、お粗末すぎて話しにならない。

入所契約の時にそのようなことを何もきかされていない、こちらとしては運よく(はい)れたとしか思っていない。優先して入所させたことを理由に退所の自由の制限をしたいなら、契約書にも重要事項として明記しろ。してないのは違法だ、契約自体を解約しろ、と凄(すご)んで、出てきた。破損した入れ歯を黙って使わせていたり、介護どころか、老人を危険にさらしたということで、慰謝料欲しい所だ、料金など払えるか、と、最終月の請求には応じていない。

すると施設職員、脅すような口ぶりで、「こちらには施設顧問弁護士もいる」と言う。「こちらも望む所だ、呼んでほしい」と言っておいたが、なしのつぶてである。

 

介護は他人の方がいいとも言い切れない、とわかった。皆、くたびれ過ぎて、人を介護できる程の人間が殆ど実在しないのもわかった。実在するだろうが、なかなか巡り合えないと言う方がいいか。

 

身内でも、要介護老人に悪感情をもたずに済んだ者が介護に携われば、いいのだろうが、現実は怨みを持つ子が携わる場合が多い。怨み憎しみは愛着の裏返しともいうから、要は気がかりなわけだ。無関心な子は全くとっかかりもできないが、無関心でいられない子は、巻き込まれてしまう。介護の渦に。

 

 

施設のずさんさよりはわが子の世話の方が嬉しかったのだろう。カズエは喜んで帰って来た。

嬉しいと言っても、辛口娘の遠慮ないお小言を浴びせられる日々ではあるが、慣れというのは恐ろしい。

また、かつて自分が八つ当たりしたことを思い出せば、仕方ない、と観念していたようである。以前のデイサービスも再開して、懐かしい顔なじみにも会え、嬉しいようだった。毎年年賀状をくれる甥っ子が、故郷の近況も知らせてくれた。久しぶりに直ぐ下の妹とも話せた。「田舎のこと、どうなってるんか、何でもいっぱい教えてな!」と私にねだるカズエは子どものように嬉しそうだった。親よりもきょうだいよりも、血も涙もある甥っ子が誰よりありがたいと喜んだ。そばに居合わせることができていたら、しっかり手を握らせてくれとせがんだことだろう。それから転倒、骨折して入院するまでの八カ月余りがカズエの有終の美というところだろう。

特養へ入所間もない頃は、やせ我慢して、施設を終(つい)の棲家(すみか)にしようと頑張っていたようだが、何しろ話し相手も殆どいない、いても普通の家庭で、普通に暮らした奥さん連中と話し合うわけない。寂しさつのってか、幻聴、幻覚、夜間彷徨などが始まった。私は週に三~四日は会いに行っていたが、短時間でもあり、寂しかったのだろう。好物のコーヒーや果物を差し入れにいった。そういう味覚の楽しみも切り捨てられている生活だった。「どの人もこの人も皆、夢の希望もない顔をしている」とカズエは言った。その通りだった。

 ある夕方「ご本人がしきりに娘さんに会いたがっている」と、施設から電話があり、わたしは家事もそこそこ、あわてて行った。職員に訊かれた「ゆかこ」ってどなたのこと?と。

カズエはかなり正気をとりもどしていて、私に一緒にここへ泊ってほしいと言った。出来ないとは思ったが、職員に訊くと、やはりダメ。カズエはうなだれ、しみじみと「家を出たのが間違いやった」と言った、私は決心を固めていた。連れ戻さなければならんな、と。その後、紆余曲折を経て、やっと連れ帰ってほどなく、その施設での暴力事件が報道された。職員が入所者の顎かどこかを骨折させるようなけがを負わせたということだった。

起こるべくして起きた事件、私にはそう思えた。残念なのは加害者が実名報道されたのに、その顔が思い浮かべられないことだった。あの施設では職員に名札がなかった。わたしが不便に感じて訊いたら、「入所者を抱きかかえたりする時、名札が体に当たって、邪魔になったり、痛かったりするといけないから」という返事だった。「何たる怠慢」と私は思った。他の施設では名前を衣服にプリントしたり、柔らかい素材の名札を縫いつけたりしているのに…。

そう、そう、「施設長に会わせろ!」と頑張っていた時、ある職員が言った。「もう何度か会っておられると思いますよ、廊下などで。その辺、よくうろうろしてますから」

名札がないというのは、都合のいいものなんだろう、向こうにとっては。

 

 

私は自分の子どもを虐待しないでおくことで精いっぱいだった。子育ては一応済んでいた。そもそも、決して自分は人の親にはならない、と決めていた私がなぜその路線変更に至ったか、それについては、とても一口で語れないので、別の機会にゆずる。

ともかく、年齢的にも遅ればせに人の親になった私は、自分が親にされたことで、嫌だったことはわが子にはせずにおこうと懸命だった。何とかそれはできたと思う。私は息子に暴力を振るわなかった。(うっかりやった時のために、罰金制度を作り、時々はそのせわになったが)、暴言も発しなかった。話し相手にもなってやれた。普通にまともに働く夫と暮らせばそれは楽々果たせることだった。その普通の生活をしてみて、改めて、かつてのカズエや我々の異常な日々に愕然とした。                                               

あれは生活とか、家庭とか言えるものではなかった。再就職にありついた亭主は何とか会社勤めは続けたが、盗み癖は生涯治らなかったし、タバコの煙やヤニもなくなることはなかった。カズエはそれを理由に家の掃除もろくにしなかった。そもそも家なんて言える代物ではなかった。下手に触(さわ)って、却(かえ)って、がたつかせたり、怪我したりするよりは、触らない方がまし。古い壁は落ちて来るし、柱はささくれる。間取りは悪いし、台所は土間で、食卓との行き来はその都度、履物をはいたりぬいだりしなければならなかった。その上りがまち(座敷へ上がる縁(へり))にガスコンロがあった。恐ろしいガスコンロ!

昔は自動点火ではなかった。マッチで点火するのだが、時々、ガスの出具合のせいか、ボン!と大きな爆発音がする。その恐ろしいガスコンロがそんな妙な所にあった。調理台のそばではない。そもそも調理台もコンロ台もなく、まな板も流し台に何か工夫して、乗せていたようだ。流し台はコンクリートのような色だった。台所もその他の作りも、収納もずさん。物の出し入れに便利なようには出来ていない。しまいこむと出せなくなる。それを棚など増やして改善してくれるような男は誰もいない。

そのころ、カズエの実家の台所はどうだったかな? かまどのようなものがあったような気もする。むろん土間で、広いが何かと不便そうだった。そこで叔母さんの一人(多分ヒデコさん)と居合わせていた時、おばさんが私にこう言ったことがある。

「ゆかちゃんの所は都会じゃし、もっときれいで便利な台所じゃろ?」と。

私はその時どう答えたかはっきり覚えていない。「違う」とはっきり言えなかったと思う。「うううん」とか、否定のつもりで音声を発していたかもしれないが、どう解釈されたかは不明である。何よりもカズエのことが気になって露骨には答えられなかった。「要らんこと言わんでええんや!」と叱られることを恐れていた。何しろ、田舎へ帰るというのは、我々にとっては一息つくと同時に、見栄を張りに行くようなものだった。服から靴から帽子から、一張羅(いっちょうら)を身につけ、機嫌よさそうにしていること。これが暗黙の了解だった。カズエも、惨状をいくら告げても救済の手も延べないテツに対して対応を変えたのだろう。カズエはとっつあんに挨拶もしなかった。一度もそうしている場面を見たことがない。それどころか、彼らが相対している場面を見たことがない。

 

さて、昔の自宅の話に戻ると、便所も怖かった。その頃は皆、和式汲み取り便所だが、うちはその床板が頼りなかった。子どもの私でも怖いのに、大人たちはどうだったんだろう?

「行ったところに用事がある!」とカズエはよくわめいていた。掃除をしても、しても、やりがいのない家だと諦める前のことだろうか。掃除だけではない、洗濯も、子の世話も、片付けや整理整頓も、家屋に構造的な欠陥があれば、ちっとも捗(はかど)らないものである。

 

貴重品が突然消えることもあり続けた。かと思えば、買った覚えもないものが置いてある。

それで、我々が「怪しい人」に目を向けると、その人が「わしを信用でけへんのか?!」と凄(すご)む。

信用なんか一度もしたことない。あんたを信用なんか、誰も。

給料袋ごと失くした、とか、持ち帰っても子供だましのような数字の書き変えをしていたり、勝つ勝つと大金つぎ込んで大負けしたり、さんざんカズエを騙してきたじゃないか。

また、これはカズエが後日明かしたことだが、警察に保護された亭主を引き取りに行くことも何度かあったという。行くと、奥からピーナツなどをボリボリかじりなから出て来る、その男の家族だというのが恥ずかしくて、消えてしまいたかった、という。

 

私が十八歳の頃、カズエのやりくりと近所の人の親切で、おくればせにボロボロ自宅が改築された。借家で、修理は家主の仕事なのに、ケチで、なかなか動かず、カズエがしびれを切らして、交渉し、実行した。その時、普通、障子やふすまでいい所を、頑丈な鍵付き引き戸にしてと頼み、大工を戸惑わせた。防犯の為である。

改築は、住人が住まいしたままでしてくれた。私には神業のように思えた。多分貧しい我々の経費節減を考えてくれたのだろう。ありがたいことだった。

 

(きし)んだり、たわんだりしない床、傾いていない柱や建具、雨漏りしない天井、それらがどんなに日々の気分を安定させるか、私は十八歳にしてやっと実感できた。引き戸は確かに明るさを損なったが、重苦しくても、安心できる方がよかった。

 

ボロ家で、盗人亭主に悩まされていた頃のカズエの八つ当たり暴言は忘れてやる方がいいのだが、私は物忘れが苦手である。ましてや記憶力抜群のころに吸収してしまったセリフはなかなか消え去らない。

因みにこれらの口上はカズエオリジナルではなく、親の受け売り。後にきいてみると、殆(ほとん)どがそうだった。私を凹ませたセリフの殆どが、かつてカズエ自身が親から聞かされたセリフだった。

 

例えば、

 

「さっさとしーな! 何させてもグズい!」

「何を着せても似合わん子や」

「子供は知らんでええ」

「親に見せられんものがあるのか?」(と、勝手に日記やメモを覗きまくる)

「大人の話に口を出すな」

「後(あと)にしーな。今、それどころやないんや」(その、後(あと)が来たためしがない)

「贅沢言うな、気持ちの持ちようで、なんとでもなる」(けんかは家の設計が悪いから起こるという私の意見や、提案に答えて)

「若い時の苦労は買ってでもしろ」

「できんことを言うな! 何でも、と気前よくさせてくれる親の所へ生まれてこい!」

「○○ちゃん見てみーな。何でもようできる。人にできることが自分にできんわけないやろ!」等々。

「気持ちがたるんどるからしんどいんや!這(ほ)うてでも(学校へ)いけ!」

 

この種の罵詈雑言を浴びせられたカズエは「何くそ!」と思って強くなった、ということだったが、世の中にはそんな子ばかりではない。他人に言われたならなら「へっ!」と、気にせずに済むことでも、親に言われたら、ぐさりと突き刺さってしまう子がいる。誰よりも自分をよく知っている筈の親が言うのだから、本当なのだ、自分はダメなのだ、と落ち込んでしまうのだ。現に私は、「もっと気前のいい親の所へ生まれてこい!」と言われた時、一度死なないとできないな、と落ち込んだ。親のくせに、自分が産んでおいて何てことを言うんだろうとも思ったが、生れて来た自分の方が悪いのかとも思えた。

その後、時を経て解ってくることだが、どちらも悪くない、そんな状況に我々を追い込んだヤツらがいたのだ。その時には気づくことさえできなかったヤツらが…

 

カズエが親から言われなかったろうが、私に限って女親から言われたこともある。おそらく、美形だった長女との落差を感じて、口に出てしまったことだろう。

「お父さんそっくりやな」

「陰気な、しにくい子や、お前が家を暗(くろ)うする」

「鬼瓦(おにがわら)!」

 

ここには書き出せない、言葉にもできないことはあるもので、それは私の胸に納めておくしかない。

十歳かそこらの少女にとってその被害は実に、内臓を引きずり出されるような苦痛と表現してもまだ足りない酷(ひど)さだった。直接の加害者はむろんカズエだ。孤独で未熟な被害者は、その後、死ぬに死ねない日々を送ることになる。生きるのが苦痛で朝が来るのが苦痛。どうしたら自分はあとかたもなく消滅できるのだろうか、そればかり考えた。何日も何年もずーっと。

この件以外のことは、私が追及すれば、カズエは自分の暴言、暴挙を思い出せたのに、最高の残酷な仕打ちについては、カズエ自身に記憶がないのだ。それに気付いて、私はそれについて追及するのはやめた。

人にあまりにも残酷な仕打ちをする時、する側の頭は真っ白になっている…

そういうことってあるらしい。

 

そもそも強姦されて子を産んだ女が、その子どもを健全に育てられる筈ないのだ。

 

さて、カズエを長年怨み続けて、このころやっと解決した件を記(しる)しておこう。私が2-3歳頃だったか、商店街をカズエにおんぶされて通っていた時、ある小ぶりな人形が目にとまった。欲しがったら、つねられた。負ぶわれたまま、尻だか太ももだか思い切りつねられ、泣きだすと、更に、ひねり切られるようにされて、泣き喚(わめ)いた。おんぶされたままで、逃げ出すこともできない幼児をよくもまあ、つねりまくってくれたなという怨みを大人になっても持ち続けたが、口に出して言うこともなく、何十年も過ぎた。

介護中、カズエが粗相(そそう)をしたのなんのと、よくカズエをたたいた。介護の煩わしさに直面しての、その場しのぎの苦し紛れか、遠い昔の復讐か、自分でもよくわからなかったが、カズエからの抗議に、私は「昔されたことの仕返しや」と答えていた。「小さい私がおんぶされたまま、逃げられんのに、なんどもつねりまくったやろ?!」と。カズエはしんみりした顔でうなずいた。「ああ、そうか」と。多分、以前にも、カズエは昔、私をそんな目にあわせてしまった訳を手短に話したことがあり、私も理解はしていた筈だ。しかしそのときのカズエの謝罪がぼやけていたのか、私の体は納得していなかった。私が指摘しなければ、つねりまくったことも忘れかけていたかもしれない。

その事情とはこうだ。トシローが勤め先で盗みを働き、クビにさせられたのを、なんとか許してもらおうと、幼児を背負って会社へ駆けつけたことがある。こんな小さい子もいるので助けて下さい、と許しを乞うたが、結局は許してもらえなかった。共犯者あるいは扇動者はうまく逃げて、トシローひとりに罪を着せたということだ。会社が警察沙汰にもしてくれなかったので、カズエはこれを離婚のきっかけにもできなかった。涙も出ない、虻蜂(あぶはち)取らずの、情けなさすぎる話。詳細な事情が解り、やっと私は溜飲を下げた。記憶に残っていた痛みまで和らいでいくようだった。

絶望の道中、背中の子を気遣うゆとりもなく、欲しがるものを買ってやるカネもむろんなく、私が今になって思うことは、やはり、こんな男に嫁がせて知らん顔のカズエの両親の非情さだ。

 

話が前後するが、思いついた時に記しておこう。

亡くなる前年だったか、カズエが私に「母親らしいことをしてやれんで、ごめんやったな」と言ったことに対して、私はきちんと答えが出せた。かなり以前から、カズエは似たようなことは言い、私はその都度、適当に応じていたように思う。「ホンマや、しんどかったで」とか、「過ぎたことは、もうええやんか」とか。しかし、それでは十分でない気がして来た。こう答えることにした。

「そんなこと思わんでいい」と。「あんたが、めちゃめちゃやったから、真犯人が判ったんや」

カズエはホッとした顔で礼を言った。実際、なまじカズエがムリにいい母親を演じることなどできていたら、私の不幸の原因、その真犯人は判からずじまいだ。それはほかでもない、カメさん、テッつぁん、あんたらのことだが、そのまた真犯人というべき人物もいるだろう。カメの学業を中断させた親やテツを増長させた親。どんな親でも命さえくれたら崇め奉るというのがそもそもの間違いだ。「親には従順であれ」がそもそもの間違い。それで大勢の娘が父親に凌辱され、売り飛ばされた。反省も詫びもしない親が類は友を呼んで、テツのような輩(やから)が横行する。

彼らは子どもを自分の所有物だと思い込んでいる。社交辞令的に「子どもの人権」「子どもは授かり者」などと口走ることはあっても、内心はそう思っていない。自分が作った自分の道具で、使うも壊すも自分に権利ありと信じている。意識改革は絶望的だ。

彼らの意識を探る為、ひょっとして、と考えてみた。思い切り低級なモチベーションで人の親になったのではないか、つまり、自分が親から受けた暴行を誰かに受け売りしたいから、今度は自分が親になる…。暴言、暴挙を受け売りしたくて、その対象である子を儲ける…なんともはや、やりきれないはなしだが、これが結構しっくりきてしまうのだ。彼らは暴言や暴力を暴行だと思っていない。しつけや愛の鞭などと思っているし、そう言う。親として威張(いば)りたい、彼らはこれが何よりも優先する。子どもの表情など二の次なのだ。これが最優先されるべきなのにもかかわらず。

テツの横暴は親からの暴行によるとは思えない。親にこき使われたカメはそうでも、テツが虐待されたとは考えられない、ネグレクト(育児放棄)はありうる。血も心も通わぬ父親に疎んじられ、家伝の何をも伝授されず、飼われていただけ。なるほど、一種の虐待だ。子供の心を読める親になれる可能性は極めて低い。

 

法律家たちだって本音の所、どう思っているかわからない。卑属という法律用語を野放しにしているのだから。「尊属、卑属」こんな用語は人心を惑わす。差別用語にもなっていないのはどういうことか。

 

さて、話を戻して、私がカズエと同居してまだ日も浅い頃のこと、カズエが見た「トミコの夢」についての話。トミコ、私が聞いたこともない名前だった。

聞けばその昔、カズエの兄(カメの長男)が初婚の嫁と別れた。その女性が実家で産んだ子だった。実家は裕福で、そのまま女性に任せた方が子は順調に育ったであろうのに、カメがその子を引きとりに行った。確か、その時代の法律では、離婚したら、子供は父の戸籍に入ることになっていたようだから、無茶とも言えないが、それは父方で乳母や養育係をきちんと準備できる場合のことで、それができもしないのに、子を引きとるのは子を殺すようなものだ。

カズエによれば、カメさん、あんたはその見本で、とにかく相手から養育費を請求されることだけを恐れて、がむしゃらに子をさらいに行ったのだろうということだ。常々見慣れている人物が何を思うかはすぐ判るようだ。カメという女はカネの計算第一、赤子を見ても、血を分けた孫、などという気持ちはサラサラ湧かないようで、これが子沢山族(こだくさんぞく)に時々見受けられる現象で、恐れ入る。

カメにすれば、珍しくもない数多(あまた)孫子(まごこ)の一人だが、先方にすれば大事な一粒種である。ましてや、乳離れもまだ遠い先の産まれたての嬰児。

その赤子を、何の話し合いも、時期的な打ち合わせもなく、いきなり連れ出そうとするカメは、その実母や祖母から、「あんたは鬼のようなことをする!」と非難されたという。それも聞かず、さらって帰ってきたカメは、カズエに「あんたは鬼のようなことをする人じゃ、と相手から言われた」と言って赤子をカズエのそばに置いたという。カズエはそう言われたなら返せばいいのに、と内心思ったが、十代の未熟さもあってか、言えなかった。

結局は、何となく子の世話はカズエの仕事みたいなことになってしまい、重湯を作ったりオムツを替えたりしたが、便秘をしたらしく、赤い顔をして、きばっていた。カズエはそれがかわいそうで忘れられないと言った。カメはただの一度も手伝いも、のぞきにさえもこなかった。カズエはトミコの夢を今でも見ると言って泣いた。育たなかった。死体は手近かな箱(多分そうめん箱)に入れて裏山へ運ばれた。それを運ぶオヤジの後ろ姿をカズエは覚えているそうだ。カズエは泣いたが、カメもその夫も涙一つこぼさなかった。カズエの見る限り。

トミコの実父である兄は軍属で戦地へ行きっぱなしだったので、このことさえ知らないだろうとカズエは言った。後に位牌などで存在だけ知ったとしても、実情は知らないだろう。現にカズエより年少の妹は、カメから、病死した赤子だと聞かされ、それを信じている。先にも述べたと思うが、かたくなに親の言葉信じ込み、私がカズエの若い日の出来事を話しても「そりゃ思い違いじゃろ。姉さん、お歳で認知症になって、そんなこと言うんじゃろ」などと言い放った。長年会ってもおらず、医者でもないくせに、人に病名つけるとはずいぶん偉くなったものだ、元農協職員夫人は。例の、カメに堕(おろ)され損なった。赤毛の小柄な娘である。

 

さて、嬰児を奪われた女性はその後、短命に終わったそうだ。乳も張ったろうに、吸ってくれる赤子もなくし、どんなにつらかったろう。

カズエは赤子にもっと野菜汁なども与え、便秘させないようにしてやればよかったのか、などと悔いたりしていた。

 

その話を聞くうち、私は腹が立ってきた。赤子に要るのは母乳だけだ。 母乳を断つから死んだのだ。「トミコが死んだ責任はあんたにはない」と断言した。当然だ。

「カメやその亭主テツゴローの責任や。なんであんたが育てなあかんの? 筋違いやし、結婚も出産もしたことない娘にできるわけない」

それを聞いてカズエはいくらかホッとしたような様子で言った。

「ああ、これを言わんと死ねんかったんやな」と。

「当たり前や、そんな大事なこと、なんでずっと今まで、黙(だま)っとったんや?」

「ええ話やないしな…」

「何を言うか、ええや悪いや言うとれん。重大なことや。あんたもトミコと同じ目に遭(あ)わあされたんやで。処分されたんや。嫁入りに見せかけて。だから、我々あんな酷い目に遭(お)うたんや。家庭やなかった、あれは。自分の孫を何人も殺すような人間は、自分の子もそうするで」

それを聞くとカズエは驚き、しかし霧が晴れたように、こう言った。

「あー、そうか! わるーい人じゃったんじゃなあ!」

その後さみしそうにこう言った。「要らん子やったんやわ、私」

 

その時すぐにではなかったが、私はそれに反論した。

「そうではなく、いろんなことを知りすぎているので、煙たくて遠ざけたのだ」と。

それもカズエが知りたがった訳でもなく、大方は一方的にカメがしゃべるのだ。字の読み書きできない分、しゃべりまくるのか。亭主テツゴローの素性にまで言及し、彼の実の父親は同居している爺さんではなく、裏に住む男だともいう。なるほど顔もそっちとそっくりだったというからコトは深刻。

 

ここで、テツの戸籍上の父、ユーキチじいさんの哀歌を思い出してみよう。夕食後、寝そべって彼は歌う。

♪バカじゃ、バカじゃ、バカトラじゃ、大きいばかりでチエなけにゃ、バカじゃ、バカじゃ、バカトラじゃ

その歌を聞いたのはカズエだけではない。バカトラとは誰のことなのか、聞き出そうとする者はいなかったが、大きいヤツは一人しかない。

 

大きいヤツ自身は自分がこう歌われていると知っていたのだろうか? 歌声は聞いている筈だが…

 

当時彼らはそんなことに気を回すゆとりもなく、子を食わせたり、娘たちを片づけることで汲々だったのか。次々嫁がせてはいけそうだが、カメによる孫の堕胎や育児放棄も知っているカズエが、何かの拍子に、近所の誰かに、喋りでもでもしたら…。日頃から、この親たちはカズエを煙たがっていたようだ。「カズは順ならん(従順でない)」と常々こぼしていたそうである。いくら思慮浅いカメでも、ちと、あの娘には喋りすぎた、要らんことをいろいろ喋ってしまった、と後悔しなかったとも限らない。

そんな心配が心の片隅にある矢先、遠い県外、兵庫県からの縁談は渡りに船。夫婦そろって尻に帆かけて娘をせきたて、花嫁衣装を着させたわけだ。結婚相手が人であれ、サルであれ、何だっていいのだ。

花嫁姿の写真は今も残っている。左側は切り捨てられ、右側の新婦だけだが。これだって不憫でたまらんから、処分しようと思う。カズエの絶望がじかに伝わってくるようで、見るに堪えない。

 

カメさんよ。そういうわけだ。あんたらはカズエを嫁入りさせるふりして、処分しようとしたんだろ?

初端((しょっぱな)、見合いで断られるとまずいから、薄暗い部屋で、相手の顔もロクに見させず、首尾よく婚姻届け出だせたらこっちのもん。テツは見合いのその場で200円の結納受取り、あとは娘に帰って来るな、来るなと言い続けたらいい。そのうち、身投げか入水(じゅすい)してくれたら世話ない…うちらは手を汚さず処分できる…まあ、泣くそぶりぐらいはしなくては…

などと心待ちにしていたのに、その娘が死にもせずに、子を産んでは里帰りしてくるので、がっかりか? はたまた、その子のうちの一人が、あれこれカズエに入れ知恵するので、悔しいか?

 

広島県福山から兵庫県神戸。当時のお前さんらにすれば、おもいきり遠ざけた。遠ざけておきさえすれば、バレなくて済むと思ったか? 逆だ。近くでは判らんことでも、遠くからは丸見えになる。

悪いな、お前さんらほどの知恵では徹底したことはできなかったようだ。カズエを処分するならもっと徹底すべきだったな。手を汚さずに、など、ずる過ぎる。だまし続けるのではなく、とどめを刺すべきだった。あの胎児のように、白目むくまでな。

 

「みんなが私を騙(だま)したよ」カズエは言った。九十歳にもなろうかというカズエが、子どものような泣き顔で私に訴えた。

実はそれよりずっと以前に私は気付いたことがあった。この人、騙されて、騙されて、ここまできたんだな、と。まだ私が小学生ぐらいの頃だったろうか、ラジオで、何たらの懸賞の話があった。「当選者の発表は発送をもって代えさせて頂きます」と言うアナウンスに、カズエがこう言った。「ほんまかどうか、わかるかいな」と。つまり当選者に賞品を送るというのは、嘘かも知れない、とカズエは思っていたのだ。私は驚き、凹んだ。この人、誰かに期待させられてガッカリしたことがいっぱいあったんだろうな、と思った。それが身内や特に親だとは、その頃は思いもしなかった。

それにしても、そのカズエは、人を騙そうとはしなかった。自分が騙されたのだから、自分も騙してやろうということはしなかった。無知ゆえに、人を戸惑わせることはあるにしても。

その昔、カズエを守り、かばうべき身内は皆、知らんふりしてカズエを捨てた。

違いない。カズエがムリヤリしょいこまされた婿を見て、あけすけに呆れて見せたのは近所の人だけ。「あんたの、あの婿は、ありゃどーしたんじゃ?」と驚いてくれたのは近所の同級生の母親だけだった。

カズエはそれで支えられた。自分は間違っていないのだと。

そのおばさんが身近にいてくれる人なら、泣きついて行っただろう。しかし、今や遠い地の人。自分の気持ちを話す気力もなく、何も言えなかったという。

カズエの無口や話(はなし)下手(べた)は、暴力頼みの親の育て方による成果だと思われる。子供のころから、対話や会話が尊重されることはなかったという。読み書きなども、もってのほか。そんな暇あれば野良仕事手伝えというわけだ。きちんとした返事をする習慣さえなかったようだ。

 

亭主との会話を避ける生活がそれに追い打ち掛けたらしく、私はまともに会話している大人を家の中で見たことがなかった。なじるか怒鳴るか、そっぽ向くか、そんなところだ。

おまけに、身なりはいつもみすぼらしく、髪はぼさぼさ服は着たきり。家の掃除も、してもすぐにヤニだらけになると、ほったらかし。肺病患い、しばしば、咳こんでいた。小学生の頃、参観日に来られるのがいやだった。後ろから咳が聞こえてきて、すぐうちの親だと判る。他の誰に判るでもないのに恥ずかしかった。元気できれいな親が欲しい、こんな親、嫌だとずっと思っていた。

 

それでも、時々、葬式か結婚式か、きれいに化粧し、着飾ることもあった。そんな時「なぜいつもきれいにしないの?」ときくと、即答、「ちょっと小奇麗にすると、あいつがじろじろみるからや!」

 

ギャーッというカズエの叫び声はしばしば聞いた。突然床に寝転がったまま手足ばたつかせ、ギャーッと喚く。幼い頃は、どの母親もすることかと思ったが、無論違う。今にして思えば、あれは我々子どもの見るものではなかった。意に添わぬ男との暮らしに耐えかねての叫びは、カズエの親きょうだいが見るものだったのだ。

それにしても、というより、それだからこそ、じじばば、我々が子供の頃、ただの一度もあの家を覗きに来なかったな。歩くと床たわみ、傾き、雨漏り、隙間風びゅうびゅうのあばら家を。近所の家では、遠い北海道やアメリカにでもじじばばが孫に会いに行っていたというのに…

こちらから行ったときでも、じじいは何の愛想もなかった。(婆は既にいなかった)カズエと話しているのも見たことがない。我々を歓迎するでなく、追い返す出なく,ぼーっと突っ立っていただけだ。目が合ったこともなく、手が触れた記憶もない。家は頑丈だった。柱は太く、飛んでもはねてもビクともしない床。トイレは家の中にもあったようだが、私は外のをよく覚えている。すり鉢型の穴で、し尿のようなものが溜まっていた。ちょっと違和感あった。玄関の横の端っこだけど、囲いもなく丸見え。肥タゴで運ぶに似便利だからか。 

風呂は五右衛門風呂で怖かった。そばには牛小屋、牛に覗かれ、恐怖倍増だった。

そうそう、爺(じい)は縁側に、なすびやキュウリで作った動物を並べていた。田舎で、おもちゃを売る店も少ないから、我々におもちゃを作ってくれたのかと私は思った。よほど後になって、それは盆の先祖のお供え飾りだと知った。我々には馴染みのない習慣だった。家に仏壇はあったが。

 

その頃、子供の私はカズエの嫁入りの実情を知らなかった。知っていたらじいに訊いたのにと悔やまれる。「じい、うちのお母ちゃん。嫌な男にいきなり、でかいチンポ突っ込まれてゲロ吐いたんよ。どんな悪いことしたから、そんな目に遭わされるん?うちのお母ちゃん」と。

そうしたら、テツは私を「子供のくせに生意気なことを!」といわんばかりに、ぶん殴り殺したろうか? 私もトミコやチーの息子の仲間入りだったか。あの悲しいいとこたちと。

 

そうだ、そうだ、じじばば、あんたらは我々一家を一度ものぞきに来なかったが、チエコさんは来てくれた。カズエの親戚で、他にも立ち寄ってくれた人はいたが、何かのついでに、とか、近くへ嫁入りしてきたから、などではなく、わざわざ我々に会いに来てくれたのはチエコさんだけだった。

私が小学生の頃だったか、ある夏、突然訪ねてきた。スマホもケータイもない時代、地図や交番を頼ってか、洋服に草履ばきで「前もって知らせるより、案外に(突然に)来る方がよかろうと思って」とにこやかに。多分お土産などでも喜ばせてくれたと思うが、私がよく覚えているのは、一緒に裏の銭湯へ行ったこと。当時、多分五十代ぐらいだったチエコさんの胸はペタンコに縮み上がり、乳首だけが大きかった。子供もいたし、授乳も終えているはずだが、こんなに縮む人もいるんだ!と私は驚いた。自宅に風呂がなく、銭湯に行き慣れていたので、老若男女色んな裸体をみて、乳房も千差万別なのを知っていたが、まれに見るコンパクトさ。何より、身近に大勢見慣れている垂れ下がった胸とは大違い。授乳の役割終えた後は邪魔にならぬよう、縮み上がる、なんて便利なんだろう! 私は非常な憧れを抱いた。私もその頃になったら、あんな風になりたい、と。切望したが、結果は、なれなかった。その話はまた別の機会に…

チエコおばさんは日帰りだったが、私はとても嬉しかった。こんなことまたあればいいな、泊ってくれたらな、とも思ったが、それきりだった。のちにカズエが言った。チエコの当時の夫がカズエの縁談に係わったので、結婚後のカズエの苦労を知ると、チエコはこの妹にひときわ心痛めていたんだろう、と。外(ほか)でもないうちの夫が、この子の不幸の原因を作った…と。

同情はしてくれる、憐れんではくれる。しかし救い出してはくれない。誰も、いつも、お決まりのパターンだ。更に言えば、チエコさんは離婚も再婚もできていたのだ。

 

その頃、むろん私は「堕(おろ)されたチーの息子」のことなど知らない。チエコさん自身、母親のカメがカズエに自分の堕胎の話をしたことも知らなかっただろう。カメさん、あんたは何かと的を外す。言うべきことを言うべき相手に言えず、とんでもない人に言ってしまう。それだけでなく、その、言ったことさえ忘れてしまうのか? 聞かされたれた方はどんなに気が重いことか。

多分、非識字、昔で言う文盲(もんもう)のせいも大きいのか。身の回りの出来事を起きた順に整理できず、因果関係も把握できず、だから、失敗からも何も学べず、同じような失敗を繰り返す…

 

出産を少なくとも8回も繰り返すヒマあれば、平仮名だけでも覚えたらよかったのに…

言うまい、言うまい、現実は、あんたはそうしなかったのだ。

 

カズエの縁談についての占い。実際の見合い前にこの縁談を占い師に見てもらった、という話はカズエから何度か聞かされていた。その見立ては、「凶ではあるが、女性の方の星が強いから、(断らなくても)いいんじゃないか」と言われたという。私が知らなかったことは、それはカズエ自身が占い師を尋ね当てて聞き出したことで、親は知らん顔だったということ。私は六十も過ぎてからそれを知った。根掘り葉掘り聞き出さねば判らぬことだらけだ。

実に、カズエの親はカズエを産んだと言うだけ。強いて言うなら食わせはした。家畜並み。それだけで生涯感謝し続けよ、というのが当時の社会通念だったか。わが子に何も教えられず、助けられず、頼もしさのかけらもない男が家長や戸主としてふんぞり返っていたのだ。女子供(おんなこども)に振るう腕力だけは二人前という男が。娘を嫁がせるということは、娘を幸せにしなければならないことだとも知らず、こき使った後、売り飛ばすことだと思っていた大バカが。

それにしてもその占い師、結婚を競技や博打(ばくち)のように思っていたのか? 生れて来るかも知れない子どもには何の配慮もない見立てではないか…子が生れることなど想定外?

少しでも、子どもを思いやる気持ちがあれば、思いとどまらせただろう。こんな縁談。

 

ところで、私自身の結婚についても少し触れておこう。

そもそも子どものころから、女親のあり様(さま)を見せつけられ、自分は絶対結婚せずにおこうと思っていた。罠にハメられ、もがいていたカズエを「結婚した女」だと思っていた。TVドラマや映画での幸せな結婚というのは作り話で、現実はそれをした途端、女は不幸に、惨めになると信じて疑わなかった。子どもにとっては現実の自分の親の姿こそが真実で、ドラマやお話しの親は虚構にすぎない。結婚すれば。出産、育児で下肢静脈瘤、歯は弱り、胸は下垂し、容色衰え、体形崩れる。それが現実、真実。防ぐには結婚しないこと。

実際私が二十歳の頃、カズエに嫁に行けと見合いを勧められた時、「あんたみたいになるのはごめんや」と断って、カズエを泣かせたことがある。訥弁(とつべん)のカズエは「どの男もこんなのではない、もっとまともなのもいる」と言った。わたしにすれば、そんな雲をつかむような話、信じられる筈はない。またその頃は、まだカズエ自身が選んだ相手だと思ってもいた。

とにかく私は「結婚は人生の墓場」を確信して疑わなかった。結婚しない女性も歳とればそれなりに衰えるだろうけど、亭主や子どもに煩わされて、あんな狂乱状態になる羽目には陥らない。

年頃になって、友人達が次々結婚していくのを、恐ろしく、愚かしく感じて見ていた。羨ましいとは思えず、結婚相手が実は暴君だったり、甲斐性無しだったりして破綻すると、それみたことか、と溜飲を下げるほどだった。結婚式に呼ばれても行ったことはなかった。祝福する気が全くなかったから。

更に、好意を覚える異性に巡り合えても、その人との結婚式という場面が私をビビらせた。

その席にヤツらがわたしの両親として並ぶというのは耐え難いこと、特に私がオヤジに養われたなどと人々に思われるのは、想像するだけでもぞっとすることだった。そういう気持ちを、好きな相手に伝えるのは至難の技であった。

とにかくオヤジがいるうちは、話にならない。一体いつまで生きるのだろうと絶望したり、実際入院してから死ぬまでの時間と来たら、その一~二週間が長くて、長くて、思い出すのも語るのも辛い。省略しよう。

 

とにかく、ある日やっとオヤジが死んだ。三十過ぎだった私は相手もじっくり選ばずに結婚した。親父の死去で浮かれていた。これでやっと人並みだと。相手は誰でもよかった。というより、全くときめかない相手だった。これでよし、と、奇妙なことに思ってしまった。ずっと、幸福な結婚が作り話で、嫌な生活が現実の結婚だと思い込んでいたあの思想が私を支配していたのだろう。思想どころか、真理だった、当時の私には。

加えて、カズエの助言が発破をかけた.「一度してみいな。嫌やったら帰ってきたらええんや」

自分が経験した苦しみを、自分の子にはさせない、という気概を感じ、私はしてみることにした。

 

結果はやはり1年経たずに帰ってくることになった。つくづく実感したのは、離婚するのは結婚するよりはるかに面倒だということ。でも、というか、だからこそ、しておいた方が、世渡りはし易い。全くの独身者より、重みのあるものとして扱ってくれる。あるいは気安さのようなものもある。×(ばつ)(いち)同志は特に。私が次に知り合うことになる男性も×(ばつ)(いち)だった。

 

初対面で自分の給与明細を見せる率直さが私に刺激を与えたのか、それまで何年も止まっていた生理が始まった。ほどなく、その人と結婚することになり、その後子どもの誕生ともなる。私は望まなかったが、相手が欲しがった。別れた女性との間に娘がいて、養育費も払っていた。私は、彼がいつまでもその子に引きずられないようにするためにも、がんばろうか、という気になってがんばった。

一目見て、カズエが見込んだ男だった。父親としてはイマイチだが、邪悪さはない、との推薦で私は決断した。

 

実際そういう男が父親になってしまっても、子どもに謙虚に接することで、子どもは順調に育つ。中身もないのに威張(いば)るから、子どもがぐれる。あるいはその親をマネて威張るのだ。威張らない人がいい。

(なぐ)らず、どつかず、しばかず、怒鳴らない人がいい。そういう人と暮らせるのは楽しいことだ。

 

聞いてるか、カメばあさん、カズエは娘にそういう道を開いたんだ。おまえさんとは似ても似つかぬ、鳶(とび)が鷹(たか)を産んだとはこのことだ。

 

私はカズエからあんたの子供時代が酷(ひど)いものだったと聞いた。農作業や弟や妹の世話の為に、学校もやめさせられた、と。字の読み書きもできないということは、よほど年少の頃にやめたんだろう。

あんたの生い立ちを詳しく知れば、泣けてくるようなことになるのかもしれん。あんたの薄情さや愚かさがあんたのせいではなく、あんたの親のせいで出来上がってしまったことだと知ったら…何と哀れな少女、哀れな女だろうかと… 

 

しかし私があんたの親になりかわって、あんたを憐れんだりはできない。順逆だよ、それは。あんたを憐れみ、救い出すのはあんたの親の役割。私は断る。私やカズエは、あんたの子孫だからね。子にとって親や先祖は憐れんだり助けたりする存在じゃない。頼れる存在でなければならんの。子は先祖のあんたらを憐れむようにはできてないの。救い出すようにも。

 

色々あんたに言ってきたけど、あんた方、こんなの到底理解できないほどの重症かも…と思いもするんだ。あんたら夫婦が揃って知的障害者だったっていうこともありうる。

つまりね、カズエがしょいこまされたあの脳膜炎後遺症の男とどっこいどっこいだったんじゃないかとも思えて来る。類は友を呼ぶっていうし。そう考えた方がむしろ疲れないよ、こっちは。

だったら問題は飛躍する。どんな知的障害者からでも、まともな子が生まれるのだったら、その子どもを誰がどうやって養護するのか?ということ。

カズエによれば、実父よりよほど血も涙もあったというユーキチじいさん。多分血のつながりはなかろうけど、テツよりは、よほど自分をかまってくれたという。駄菓子屋やあちこちへ連れていってくれたし、教訓めいたことも教えた。

テツがアイスキャンデーを買ってくれたのは、南京満載の大八車押しをした後だけだったが、ユーキチは何もしないでもおやつを買ってくれた。

 

ユーキチの哀歌を心にとめたのは、カズエだけだったのか?

バカじゃ、バカじゃ、バカトラじゃ。大きいばかりでチエなけにゃ、バカじゃ、バカじゃ、バカトラじゃ

 

妻が自分以外の男のとの間に子を儲け(詳しい事情は分からないが)その息子を実子として育てることになったユーキチじいさん。多分夭折する自分の実の息子たちに代わって、名前だけでも継いでくれる男子として受け入れたのだろう。名前でもわかる。テツゴローは「鉄五郎」で五男なのだ。しかし、育ててみるとこいつがイマイチ。自分の血筋は途絶える、そのさびしさを補って余りあるような可愛げも、聡明さもこの息子にはない。デカイだけだ。

そういう悲哀が私には伝わってくる。

 

バカトラとは馬鹿虎なのかばかとらなのか、じいさんの頭にはどの字が浮かんでいたのか、知るすべもないが、いずれにしろ、ほめ言葉ではない。

 

我々はその続きを歌う。

♪そのばかを退治できぬは、もっとばか

 

と、でも言いたいところだが、それでは身も蓋もないし、

赤の他人であるにもかかわらず、カズエを孫娘として、かわいがってくれた親切に感謝して、

 こう歌おう。

 

バカじゃ、バカじゃ、バカトラじゃ。大きいばかりでチエなけにゃ、バカじゃ、バカじゃ、バカトラじゃ

 

♪そのばかをどうにもできぬは、やはりばか

 

ねえ、ユーキチじいさん、我々、ばかじゃなくなるにはどうしたらいいんだろうね?

 

カメさんにも増して、わたしゃ、ユーキッつぁんと話したくなったよ。

 

つづく

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