「霊」と「非局所性」は結び付くか?

パラダイム変化:霊性から非局所性へ(その2)

本シリーズは、私の人生の長年のテーマである「両生学」をめぐる「二元構造」――片や霊性問題、片や量子理論――に関し、その両者の間隙を結び付けるに当たり、量子理論の「非局所性」という専門用語がそのパラダイム変化として役立ちそうだとの考えに基づくものです。シリーズ2回目の本稿では、急きょ予定を変更し、量子理論への関心をすでに遙かに早くから持たれている知人からの見解をいただきましたので、その遣り取りを中心に展開します。

 

その知人Kさんとは、本サイトが「両生空間」への改題(2005年)以前からの付き合いですから、もう15年ほどにもなります。当初は、私のオーストラリアへの移住サービス事業の顧客でしたが、その後、むしろ知人関係が深まり、今日へと至っています。

まず、Kさんについて紹介しておきますと、私より数歳年上の女性で、高野山で真言宗の修行を終えられ、僧資格(阿闍梨)をお持ちですが、僧職には就かずに俗界あって、今では三重県志摩で、自然に囲まれた生活を送りながら、若い世代への働きかけを深められています。

Kさんもご自分のサイト(NEUノイsolution)をお持ちで、本サイトの数少ないリンク先のひとつとなっています。今回の見解も、そのサイト記事を通していただいたものです。

手短にKさんのその見解を要約すると、私の言う「二元構造」はKさんにはなく、自分の意識は量子的に機能しており、自然や宇宙の構造と一体となっているというものです。ですから、私の言う「霊性」とは何を指しているのかと、先の私との遣り取りでも、その定義を問われたのでした。

私の場合、何事にも「両生**」とあって、二要素というものが人生探索の根幹モチーフとなっています。自分の意識についてもしかりで、若い時代に信奉した唯物論のなごりで、その意識も物質に基づくものとしてきました。それが、その後、齢を重ねるなかで、そうとも言えない数々の体験をもち、従来の「物質観」では説明できない意識があると、一種の逆転現象を見るようになってきました。ことに、最近の命に関わるような体験をへて、自分の肉体を超える意識を発見し、それは一体何なのだろうと考えてきた結果の、上記の「二元構造」なのでした。

したがって、そうした意識はその遭遇のいきさつから、それを定義するというより、それをどう明示するのかとの取り組みとなりました。しかし、名前くらいは付けておかねば扱いができません。そこで、その超然的な特徴から、とりあえず、類似した伝習的概念の「霊」というものを拝借するものの、それに付随するおどろおどろした要素とは切り離す積もりで、「霊理」とか「霊性」とかという用語を使用してきたのでした。

Kさんの出家の動機は、ガンという命に関わる問題であったようですが、その修行の中から、独自の見解に達せられたようです。今回のサイト記事に、Kさんはこう述べられています。

私の場合ははじめ瞑想下による直感から得た情報で『意識が現実を創る』『すべてはつながっている』という閃きに近いものだった。

そこからが長い旅の始まりだった。意識とは?をあらゆる著書から探ろうとして、いつの間にか『量子力学の非局所性』に至ったのだ。この量子もつれ(エンタングルメント)現象を知って、私の中の数々の疑問の点の散在が面となってつなっがったのだ。

私の場合、いわゆる瞑想を正式に体験したことはありません。むろん、落ち着いた場で鎮想することはありますが、それが瞑想と呼んでよいものなのかどうかは判りません。

瞑想をそう言って適切かどうかは判りませんが、私の場合、瞑想を通じた飛躍的直観ではなく、人生体験の中での小規模な気付きの累積により、上記のように、現実という物質に優先する意識の存在を確かめる結果となりました。

そうですから、その気付きの世界は、いわば自らの“人体実験”的な確かめを重ねるプロセスです。もちろんそれらに名前を付けることも一種の定義づけで、それによって存在を明瞭化することも可能です。しかし、トートロジー〔同義反復〕に陥る危険があり、そうならぬよう用心してきています。

それに、私はもともと技術屋で、“唯物的”発想にとことん馴染んできた者です。つまり、今日では古典的と言われる科学的論理にどうしても帰ってゆく習性があります。

ですから、私の意識には、やはり、そうした習性に根ざす「物質に支配される意識」という領域が根を張っています。

ところが、過去一世紀ほどの量子力学理論の発達により、古典的物質観が根本的に塗り替えられてきています。いわば、物質と意識の境界が以前ほどに明瞭ではなくなってきています。

そうして私は、慣れ親しんできた、(古典的)物質観に基づく意識観のおかしさを一つひとつ見つけては修正するという方法をとってきました。その結果、Kさんとも共通する、量子理論の有効性を発見することとなりました。

ただ、こうした新たな科学領域の進歩を援用することは、その遅々とした進歩を待たねばなりません。しかし、私的には、もはや年齢的に、じっくりとその進歩をまっている暇はなく、まして、命に関わる緊急の事態ともなれば待ったなしで、エビデンス抜きでも、とりあえず仮説を「信じる」という方法をもって、突破を図らねばなりません。そういう非常手段も、私的には許せると思っています。

ともあれ、意識とは何かという総ぐくりな設問を立てた場合、それが発生してくる根源が、量子理論の用語を適用、つまり、ローカル=局所的なものと、ノンローカル=非局所的なものに分けて考えると私の体験上の実感に合ってきます。

それが、私の言う「二元構造」の最新版のものです。

 

最後に、Kさんの記事にあるように、「霊」と「非局所性」を結び付けることの違和感は、これまで自分でも気になり、用心してきたことです。ですからそれを「霊性」とか「霊理」と呼んで、いわゆる「霊」とは区別しようとしてきたわけです。つまり、従来の物質観を越える部分を、その「霊」という言葉に求めたわけですが、紛らわしい言葉であることも確かです。

ともあれ、これまでは「非局所性」という言葉をよく理解していませんでしたので、「霊性」とか「霊理」という造語を必要としましたが、この量子理論の概念を使うことで、私のその区別の意図は充分に果たせるどころか、いっそう有力な武器となってきています。

そういう次第の、「 パラダイム変化:霊性から非局所性へ」であります。

 

結びに、上記のように述べてきて思うのですが、ふさわしい言葉選びという意味では、「霊」よりむしろ「愛」を採り上げ、「愛性」とか「愛理」といった造語にした方がよかったかも知れません。

「霊」と呼ぶか「愛」と呼ぶか、そのへんの領域と、「非局所性」という領域の重なり合いなのです。

 

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