日本/地球の両モデルを離脱する

パラダイム変化:霊性から非局所性へ(その3)

前回そして前々回にも述べましたように、このシリーズに取り掛かる動機には、私の人生行路が、遠望ながら、永遠の旅立ち〔注〕がしだいに視界に入るところまできていることと、それに同期して、何やら日本や世界が、文明的な終末観をすら漂わせ始めていることとも関連しています。そうした個と世の両方にわたる大転換の気配と、だからゆえの、旧次元を越えるパラダイム変化への要請を意識しないでは済ませられない空気を呼吸しています。つまり、そこでは、文明の根源である、生命とその再生産にまつわる人的営みへの再考察に踏み込まざるをえません。

〔注〕 ある意味で、本稿は「終活」論です。ただし、いわゆる「終活」は、海外旅行に出るのに、肝心な旅先のことを、言葉や地理や文化など、何の知識も持たずに出かけるようなものです。本シリーズは、その知識にも関するものです。

 

日本家族関係モデル

確かに、人間を再生産し、人口を維持、増加させてゆくには、家族という繁殖装置が不可欠です。少なくとも、そう見えます。

そうした家族モデルは、生物学的には、男と女の性器結合を通じた生殖細胞交配による女体の妊娠および出産、そしてその結果の両性の親化・子持ち化という過程があって成立、維持されます。

また日本は、1945年まで、その歴史上、外敵に占領、支配される経験を持たない世界でも稀有な国でした。それは、島国という海洋によって守られかつ孤立させられた地理的条件による地球史的恩恵が働いていたからで、よって、曲折はありながらも、国全体が一つの家族であるというレトリックが成立しやすい史的特徴をも形成していました。だがそれも、ヒロシマ・ナガサキまででした。

そうした日本的家族モデルは、一見、唯一無二な制度であるかに見えます――あるいはそう見えさせられてきました――が、その存続基盤は大きく揺らいできています。そして、その日本的家族モデルの国家的レトリックの中核となってきたのが天皇制度です。だがそれも1945年、その日本独特の制度をファナティックな原動力とした戦争に完敗した段階で、根本的に制度的見直しが図られるべきでした。しかし、同制度は戦勝国アメリカによって、日本占領支配のための格好な道具として、あえて壊さずに温存され、その重大な改革の機会は、狡猾にも冷徹にも潰されてきています。

かくして、日本人はその戦争による膨大な犠牲と苦難を骨身に刻印させられたにも拘わらず、その惨禍をまともに問うこともできず、加えて、天皇制自体や初めての外敵占領体験すらも考察の圏外におかれ、天皇制存続とアメリカの属国化という、二重の枠はめの内に生かされることとなりました。ことに、天皇制を問うことをタブー視とするという、その精神構造に内的病巣を埋め込ませたまま、親離れできない児戯同然な生を生きることとなりました。

そうした国総体の病的現象の一方、各々の個人レベルでのその家族モデルを見渡せば、もはや婚外関係は開かれた人生選択のひとつとなり、また、円満な夫婦関係という型も、今や、家庭内離婚や住宅街内風俗業同然に変質して、その産物たる親子関係も形式化・ストレス源化しています。それに、レイプによっても妊娠、子の誕生はおこります。まさに、その家族モデル自体が、その足元から崩れ始めています。

こうして、日本においては、その家族モデルは個人レベルでも国家レベルでも、事実上、破綻しているのですが、いまだにその二重のフィクションはあの手この手をろうして存続されています。そして、その無理やりの維持、あるいは、あえて触れようとしない病的目つぶり現象の結果が、解決の方途が見えないどころか不気味な行き詰まり感をも伴って、国家的病である、歪んだ高齢化社会と人口減少を生んでいます。

 

カップリング関係という地球生物モデル

家族という人類共通の繁殖装置は、今や世界の先進諸国にあっては、その家族自体の形態が多様化し、核家族はその一部へと後退し、シングル・ペアレント世帯、一見大家族への回帰にもみえるパラサイト・ペア、同性結婚の増加とその法的容認、養子親子関係、子なしカップル等々、その選択肢は色とりどりです。

つまり、家族という次世代再生産の拠点が、もはや、様々な形や内実に瓦解、分散し、その従来の生殖目的の遂行力は弱まり、男女間でも同性関係間でも、セックスは相互のコミュニケーションの手段と化して、その趣向も多様化、属個化しています。

言うまでもなく、人類は地球という一惑星に固有な高等生物であり、その生物的増殖原理は、男女間の性交を通じた生殖細胞交配による受胎、出産です。そういう増殖原理が、かくして今や、伝統的な家族制度内にはとうてい収まり切れなくなってきています。そこで、その多様化への対応が、旧制度の見直しなどにより、曲がりなりにも機能している場合、そうした国々における人口減と高齢化の問題は、日本ほどの深刻度には至らないで済んでいます。

そうではありながら、日本にせよ、他の諸先進国にせよ、いずれも人間が生物であるかぎり、その人間再生産は、生殖能力をもつ男女のカップリングにゆだねられていることに変わりはありません。そして、そういう男女のカップリングという人間生産の地球生物モデルが、様々な環境、人口、経済、社会問題にさらされ、生物的な存続の困難――すでに多くの動植物種では絶滅の危機――に向かっています。

 

つまりかくして、人類の地球生物モデルや日本の家族モデルは、ともにその持続性を危うくする渦中にあります。それに加えて、私、個人においては、人生の黄昏期に差し掛かかったその視界もそれに同期して、終末的で大変革的な時を迎えているとの問題意識を否定しえなくなってきています。

 

ポスト生殖期の生殖とは

さてそこで、焦点を私の身辺に定めて述べると、本サイトの「長期ベストセラー」である『天皇の陰謀』の相変わらずの健闘とともに、他のサイト出版物(「両生図書館」参照)へのヒットも手堅く増加してきています。つまり、『天皇の陰謀』への根強い関心という日本のタブーに懐疑する人たちの厚い層の気配と、あわせて、他のサイト出版物――超然現象やUFO論をも含む様々の「対抗言説」を扱った諸記事――へのやはり根強い関心の存在も実感されてきています。それが、最近の当サイトへの一日平均訪問者数の1400人台、そして1500人台への増加となって数字化しています。

私は個人として、一方で、自分の加齢や臨死体験と、それに伴うポスト生殖期への移行、そして他方で、天皇制のタブー状態への疑問の社会的増加傾向、あるいは、家族制度の建前の剥がれ落ち、などなどを自他ともにミックスして一望するに至っています。

そこでますますと、自分の関心、強いて言えば、自分の世代としての社会的使命として、このポスト生殖期の持つ人間論的意味とは何なんだろうか、との新鮮な興味を抱いています。

 

現在、私は幸い、「後期高齢期」に近づいてもなお、心身ともの健康の恩恵を大いに預かっています。そうであるならなおさら、その世代的宿命と課題、つまり、ポスト生殖期に健康を満喫できるとはどういうことなのか、それを問うことこそ、こうした私ならではの世代的使命ではないかと念じています。つまり、人生行路の末期にあって、その積んできた体験を片方に、他方では、過去には存在しなかった新たな発展分野の出現と出会いがあって、ならば、その両者の結び付けこそ、もししうることであるならば、私ならではの役目ではないかとの自負なのです。

すなわち、《ポスト生殖期人間が生殖できるものは何か》との問いをめぐって、その体験と新分野の結び付けこそ、現役男女のカップリングによる生殖細胞の結合に代わる、方法上のたしかな鍵ではないかとにらんでいます。

(余談ですが、別掲の「今月のおすすめコンテント」に取り上げた小説は、そうした生殖時代の最期を飾るべく創作された“記念碑”的な作品です。)

 

「虚数」という手掛かり

さて、そういうテーマを抱きつつ、私がいま、その絞り込んだ関心の一つとして採り上げているのが、何と、いまさらながらの数学の世界であり、ことに、その数学の世界の内の《虚数》の世界です。

上記のように、日本離れ、地球離れ、そしてこの世離れしようとしている自意識にあって、数学や物理学の大御所たちがいう「数学こそ、宇宙の言語」との言葉が、いたく刺激的に響いてきます

ちなみに、虚数とは、記号 i によって表され、

  i2=-1

と定義される数のことで、数学の論理を発展させる過程で作り出されてきました、言わば想像上の数字です。現実的には在りえないという意味で、imaginal〔想像の〕の i をとって、そう記号化されています。

ゆえに、そういう想像上の産物であるからこそ、様々な意味で終末観をかもしている現実を越えうる、切り札になりうるのではと。

 

次回からは、この数学の世界にさらに踏み込んでゆく予定です。

自分でも、もうこんな世界に関わることなぞ二度とないだろうと忘れ去っていた学生時代の名残の世界です。いかにも頭の痛くなりそうな世界ではありますが、何やら、美味しそうな匂いを嗅いでいます。そういう i が、この世離れしようとしている世代となった自分と、どこか似通っているかのようでもあるのです。

どうです、「し」とは何とも面白そうな「通過点」ではないでしょうか。

 

つづく

その2へ

 

 

 

 

 

 

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