かくも醜く、そして切ない「下心」

女性メダリストたちが作った#MeToo運動の別の風穴

私はすでに、「じいさん」と呼ばれて充分にふさわしい年齢に達しましたが、衰えたとはいえ、雌雄別上ではあいかわらずの雄です。そういう私が、ことに最近、社会でかまびすしい問題について、少々、考えさせられているところがあります。

 

たとえば、先の五輪後に見られたその一例では、野球界長老が、五輪女子ボクシングの金メダリストに軽口をたたいて女性蔑視発言をしたとか、某市長が、やはり五輪女子ソフトボールの金メダリストのそのメダルをいきなり噛んだとかと、女性メダリストに対するおじさんたちの“異常”行動への、一連の批判論調があります。

そこで、もし自分が同じ立場にあった場合を想像してみるのですが、たぶん私は、お二人らと同じ行動はとらず、それなりの品行方正は保ったことでしょう。

というのは、言うまでもなく彼女たちは、五輪のそうした種目で世界トップに達した”英雄”です。その達成を誇りに思うのは誰しも同じとしても、その英雄ぶりは、家族から郷土そして全国にわたる人々にとっての、いわば“共通”の無形財産であるはずです。

それを自分の地位を笠に着て、その英雄が年若い女性だから――若い男性でも同一行動をとったとはまさか主張されまい――つい気が乗じたのか、あたかも身内や私事のように馴れなれしく扱うのは、いかにも軌道を外しています。つまりそれは、特定ケースとしてはパワハラですし、その人が他にも類例を伴う常習者であるなら、公的立場の私的乱用という、そのポストの失格事由(罰金程度か)に相当するものでしょう。

ゆえに私としては、いくら年食ってもそれくらいは、良識としてわきまえて当たり前、というところです。

 

さてそこでなのですが、そんな明け透けな逸脱行動をとろうが、逆に品行方正な良識行動をとろうが、そのいずれにも共通しているのが、そうした行為の背後のいわゆる「下心」の存在で、それが間違いなくこの手の騒動に、陰に陽に働いている主要因であることです。

つまりこの一件では、その根っこの「下心」はなんら言及されることなく、ただその枝葉だけに人々の耳目が集まり、騒ぎ立てられていることです。 

そこで、どうせ問題とするなら、その片一方だけを取り上げるのは片手落ちで、他方も含めて、その根っこである「下心」自体までをも問わないでいてそれでいいのか、ということとなります。

そういう次第で、ここで私は、いわば当たり前すぎて、ほとんどやりたい放題同然にまで放置されている、その「下心」こそを取り上げみることとします。

 

ではこの「下心」を、それにまつわるそれこそ天地ほどもの違いを地均しして言えば、それは、「あらゆる男女関係の源」と一般化できる、まさしくその火元です。そしてそれは、人間である以上避けられないどころか、生命誕生から人間らしい華やかさまで、その豊穣、多彩さの根源とも言えるものです。

だからこそ、その「下心」の発揮のし方の根本原則は、もはや古今東西の長きと広きわたって、一対一の対等関係に立つということ以外に、もはや粋も誠も醍醐味もありえない、もう決まりきった黄金則の成立している世界です。

ならば、一般化という味も素っ気もない扱いなぞやめにして、個々のケースの機微を一つひとつ克明に取り上げ、その醍醐味をフルに賞味しないでは何の意味も持たないではないか、ということとなります。だからこそそれは、小説にも映画にも芸術にも漫画にも、それこそその各々が百花繚乱に描かれ、千差万別のラブストーリーとなるわけです。

そうなのですが、そうした多彩かつ甘美な世界を扱うことは、残念ながら、ここでの目的ではなく、むしろ逆なブラックな話に目を向けねばなりません。

 

そこで一般化の扱いに戻るのですが、一個人同士として、対等な男女による、権力も地位の違いも何も着せない裸の関係であるならば、たとえ政治家と秘書であろうと、セレブと一般人であろうと、あるいは、じいさんと孫のような若い女性であろうと、それは二人だけのプライベートな問題であると言うことに尽きるのみです。そしてもちろん、女だから弱い立場にあるどころか、例えば、貫禄も身分もある大の男が若き小娘に、まるで玩具のようにもてあそばれる場合だってありうるわけです。

それが上の二例のような、ことにその市長の場合、市という公共を代表する自らの立場もわきまえず、(おそらくいつものごとく)立ち上がる「下心」のままに、それを分別ある自己制御もしないどころか、よりにもよってその輝かしい達成の公的賞賛の場において、あたかも一対一もどきの自分勝手な親密気分を吐露することがそれにふさわしいと無思慮に誤解し、しかもそれを、相手方からの拒絶も困難な公共の面前で表したという、二重、三重,四重に深刻な節度違反であったことです。

 

そうしてここからが重要なのですが、そうした「下心」を、人間の誰もが持つありふれた特性であるとしてしまえば、それが、上記の場合のようなハレンチ心までもが、誰もに共通していることと、同類扱いの恰好の地均し理由にされかねないということです。

つまり、同じ「下心」に根差しても、片やの良識の働くところでは、一対一の機微深い男女相互の意志交換の世界とされるのに対し、上の例のような特権者の界隈では、その真逆であるほどまでもの逸脱がその者の都合のままに大手を振ってまかり通され、それがあたかも誰にも共有され是認されているとさえ、受け止められてしまっていることです。そういう、明らかな対比が私たちの社会には実在しているということです。

したがってはっきりされるべきなのは、そういう対比があるにも拘わらず、この誰にもある「下心」が乱暴に共有される時、そうした片やの独善がまかり通され、他者にはまるで悪事の共犯じみた立場さえ押し付けられてしまうことの常習への個々人の声です。

そういう意味では、自分の「下心」は、誰にでも共有されている「下心」とは違うものだとか、そもそも私たちに、そんな共有されるものなぞはなく、誰もみな違ったその機微ある心の動きだけが存在している、ということのはずです。

なんと醜く、そして、いとも危ぶない目に会わされている、「下心」でありましょうか。

そこでおそらく、私ぐらいの年のリタイア者ならひと昔前までに、またより若い人たちならば進行中で、そうした醜く特権的立場を知らないわけではなく、きわどい光景を少なからず目撃してきているはずです。

それだけに「下心」をめぐる話は、「他山の石」と肝に銘じ、一線を引いておきたいことなのではないでしょうか。

それにそもそも、少なくとも公的地位に就く者にとって、節度とは、その職業的手腕以前に問われるべき人的必須要件です。しかしながら世間では、それとまったく反対の風潮が広がっているのも事実です。つまり、俗に言う「英雄色を好む」傾向はあるとしても、それを自分勝手に解釈して、自分が色を好むからと英雄面する輩が横行さえしているということです。

 

ところで、さらに加えて触れておきたいことなのですが、以上の特異な諸例のほかに、ことさらに地位や権力がからんだわけでもない、もっと身近で日常的でさえもあるケースがあります。

すなわち、誰もと同じように人並みに、そういう対等な男女同士の関係として始まったはずのものが、やがて何かの理由でその関係がこじれ、しだいに相互理解を欠いた、一方的で、時には暴力的な関係にまでも至ってしまうケースがあります。いわゆる夫婦(カップル)不和です。

通常、そうしたいさかいがやがて手に負えなくなり、訴えられて法律問題となった時、そこで問題処理の原則とされるのは、両者間にどのような「合意」が交わされてきたか、あるいは交わされてこなかったか、ということです。というのは、現代の世の中では、男女関係の発展には、それぞれの個性の違いは反映されながらも、相互の自由意志のやり取りの上にそうした合意関係が築かれてきたことが前提とされるからです。それが、今日においての、「男女関係の源」における常識的原則です。

しかしながら、近年ことに頻出してきているのが、男女関係の言うなれば「頂点行為」ともいうべき性交が、その「合意」が無いどころか、暴力的に行われたという「レイプ」問題です。しかもそれが、カップル間家庭内のみならず、社会的な場ですら、広く発生していることです。

 

そうした問題の表面化は、ことに社会的な場においては、女性の職業的進出によるひとつの派生問題であり、その頻出です。つまり、そうした進出で、しだいに男論理優勢の職場文化が揺るぎ始め、それまでにその底に沈殿させられていた問題、ことにレイプというその最も深刻な問題が、何十年も昔の事例さえも含め、被災者一人ひとりの決心のもとに告発の声となり、周囲からの支援もえながら、徐々に法的ケースとして浮上するようになってきたからです。

言い換えれば、しだいに明るみに出されるケースの頻出とは、私たちの「下心」の一見上の共有性がゆえに、極めて特異な行動にさえ、むろん共謀の意志なぞ毛頭なくとも、関わりを避けようとただ見て見ぬふりをする“目つぶり共犯”が、やはりそれほどにもありふれて頻発したがゆえに、そうした沈殿を、どこにおいても助けてきたということです。

そして、それの如実すぎる例が、最近のオーストラリアで見られます。

すなわち、様々な社会悪の一掃をはかるべき立法府であるはずの国会(諸施設)が、なんと長年にわたって、セクハラはおろかレイプすらの巣窟であったと、その被害女性たちが立ち上がって告発し、大社会問題になるに至っています。

むろんそれは、日本も含め、世界的な「#MeToo」や「#WeToo」運動の広がりのもとに明るみに出された氷山の一角ですが、ここオーストラリアでのごまかしようもない実例です

まさに、「男たちよ、男であろうとせず、責任を取りなさい」〔直上のリンク記事末部参照〕、ということと言えます。

 

以上にあげた様々な例は、もとはと言えば、それは人間であるなら誰にもある、そして、もっとも人間性あふれる表現でさえある、「下心」という当たり前すぎる根っこがゆえに生じている問題です。

それが、誰もの共通性と粗野に受け止められるやいなや、たちどころに、私たちの誰もに、何者かの異常行動の片棒担ぎが押し付けられ、気が付くと事実上の共犯者にさえされていたことが覚らされる、何やら、コロナ感染の蔓延にも似た、深刻な“疫病”問題であることです。

 

そういう次第で、私は年は食ってもなおも雄で、危ない自身を引きづってきてはいるのですが、しかし、そうした片棒担ぎは断る並の人間でありたいと願い、わが「下心」に代わって、本稿を書いてきました。

さてはて、何と手間のかかる、そして切ない、「下心」であることでしょう。

 

 

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