「情報」とは自分をつくる構成要素

その最新版で自分を生まれ代わらせる

「四分の三プロジェクト」をめぐって

前回、その副タイトルに「・老若共闘 ・バーチャルと非局地性は同義語 ・情報とは何か」をかかげ、その三本柱について説明しました。今回は、その三番目の柱「情報とは何か」について、いっそう踏み込んで考察します。

というのは、これまで、二本目の柱「バーチャルと非局地性は同義語」については、量子理論にからめて、いくつかの機会で議論してきたのですが、この「情報とは何か」については、さほどの機会を設けてはきませんでした。

そこでその議論に入りたいのですが、それには、二つの重要なアプローチがあります。ひとつは、その定義についてのもので、他は、実は私たち意識そのものが、身体というインフラに支えられた、その情報のもたらす産物であるという認識機能との関係です。

 

定義について

まず、定義についての説明ですが、前回の議論の中で、その「情報」について、大きく二つの分野に分けてそれを述べました。  

ひとつは、今日、IT技術と総称される科学技術用語で使われている「情報」です。

もうひとつは、前回では「汎情報」という用語を用いて指摘した、上の「情報」概念以前の、それこそ太古からある、そのもっと根源的な意味におけるものです。そして今回、議論を深めておきたいのは、この分野についてです。

まずはじめに、私はこの「汎情報」というものを、宇宙空間を満たした「エーテル」を想定したかつての「エーテル論」のような立場を採用して、そのエーテルに代わるような何かとします。

ただ、「満たす」というと、何らかの物体であるガス状ものを想像しますが、そうとも言えず、ただ、そこに存在する何らかの「媒体」を「汎情報」と呼んでおくこととします。

そして、それが果たす働きとして、それは、自らを区別して差異をもっていることを表し、伝えることです。

さて、そのように、この「汎情報」を、まず私たちの知識のとどかぬあちら側にそう置くとして、こちら側には、すでに私たちが知っているいくつかの手掛かりがあります。それを科学の世界から取り出してくるのですが、当面、松岡正剛『情報の歴史を読む:世界情報文化史講義』p.10の「科学的定義」を借用し、以下の通りとします。

 

  1. 生物学的情報=遺伝子情報、神経情報、感覚情報
  2. 物理学的情報=エントロピーの逆数で計算する値
  3. 電気通信工学的情報=雑音を排除したメッセージ信号

 

この3種のうち、3の電気通信工学的情報――2の物理学的情報の一部を含む――が、上に述べた「IT技術と総称される科学技術用語で使われている情報」です。

以上の枠組みを用意して、私の言う「汎情報」の解明に向けて、この

  1. 生物学的情報
  2. 物理学的情報

を手掛かりとして出発して行くこととなります。

 

実用優先の「理論」

さて、こうして狙いのつけどころはおおむね定められたのですが、ならば、私のいう「汎情報」は、こうした生物学と物理学の最先端レベルをなぞってゆけば得られるものかと問えば、それとはどうも、その手法が異なっているものです。もちろん、最先端の科学的知識は必須でそれを基礎とするのですが、それだけでは「仏作って魂入れず」のごとく、おおいに寸足らずなのです。

これは、これまでも、「理論人間生命学」――人が生きる上に必要な知識――というタイトルのもとに述べてきた私の考え方の特徴なのですが、私が追究しているのは、少々乱暴にいえば、科学的厳密さはさておいても、たとえば、「自分の人生の力になる実用性」を優先したいとするものなのです。したがって、科学的には、いまだ「仮説」扱いのものであっても、充分な確からしさが確認できるものであるならそれを取り上げたい、とする立場です。いわば、それを知っていれば試験で点を取れるからではなく、それを知っていれば、それが自分の毎日に役立つからなのです。

こうした立場はしたがって、厳密科学の立場とは一線を画します。科学の立場には、実験による有効な精度をもった証明が求められます。それに対し、私の立場が求める確からしさというのは、思考上つまり理論上で合理的に説明がつくものであるなら、厳密な精度による実験による証明は必ずしも必要とはしない、という立場です。まして、その証明が出るまでこの先何十年も要するなら、悠長にそんなに待ってはいられない待ったなしの必要が、毎日の私の生活のための知識ということです。

こうした立場が、上の「理論人間生命学」で言う「理論」という呼称に託されているわけです。つまりこの「理論」とは、理論的にその確からしさが導かれた実用的知識体系、というものです。

 

物質と情報の双対性

そういう立場、すなわち「理論」の開発の実務は、私は、基本的に、別サイトの『フィラース Philearth』において行っています。したがって、本稿で案内的に述べられた予備説明以上の詳細は、そちらに行って、それを確かめてもらうこととなります。

そこにおいては、「汎情報」に関する、そうした「理論」としての追究は、上記の生物学的情報と物理学的情報の双方にまたがる分野を対象としています。

すなわち、生物学的アプローチにおいて、「遺伝子情報、神経情報、感覚情報」として扱われている知見として、生体メカニズムが果たす「情報」機能があります。

また、物理学アプローチにおいては、私はことに、量子理論における最先端の知見に注目します。ことに、その波か粒かという物体の究極の状態における「双対性」――どちらでもある性質――の行き着く、状態なのか働きなのかという観点での「双対性」として「情報」を捕らえたいと考えています。つまり、少々荒っぽい仮説として言えば、量子理論の究極では、モノと情報は双対性をなすもの、ということとなります。

以上のようなアプローチをもって、『フィラース Philearth』における「理論人間生命学」における「理論」が探究されています。

そこでは、最新版の知識を身に着けて、自分を生まれ代わらせてゆく実践を、とくに「セルフ生殖」と呼んで追究しています。

そこで思いついたのですが、「信じる」といった行為は、これまでは純粋な心的行為と考えてきました。ところが、この「双対性」の考えを適用すれば、それは、情報とモノとの双対関係をトレースする、瞬時的ながら論理的な行為ということとなります。なにも「盲信」などと、失礼なことを言われる理由などないということです。

 

 

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