コロナを好機と逆手取る

・老若共闘 ・バーチャルと非局地性は同義語 ・情報とは何か、を課題に

「四分の三プロジェクト」をめぐって

四分の三プロジェクト」については、身動きすら取れないこのコロナ状況下、むしろ、それをチャンスとして逆手取ります。そして、籠城に徹して内部固めを優先し、来たる開城の時に備えたいと思います。すなわち、副タイトルのように、「老若共闘」「バーチャルと非局地性は同義語」「情報とは何か」との三大課題への取り組みを柱に、その時のための準備作業として、当面、専念してゆきます。

前回、同プロジェクトの実施をめぐり、その計画の持つ「二本立て構造」、すなわち、『両生歩き』と『フィラース』という二つのサイトの場を、前者を現実面、後者を理論面と使い分けながら取り組んでゆく、連携方策についてご案内しました。

そこでその連携策なのですが、前者の『両生歩き』には、さらにその中に二つの部門、「私共和国」と「両生空間」があり、この2部門についても上記と同じく、前者を現実事象、後者を考察創作事象を取り扱うとの役割分担を持たせてきた経緯があります。

そこで、取り組むべき全対象をそのアプローチ面から三別して、1.現実把握過程、2.思考表現過程、3.理論化過程とすると、上記のそれぞれの部門及びサイトは、

1.現実把握過程が「私共和国」、

2.思考表現過程が「両生空間」、

3.理論化過程が『フィラース』において、それぞれ扱われる構想となります。

そこでこの「籠城作戦」では、予見可能な視野をこの先1年ほどにすえて、中核となるべき論点について、以下のように確かめておきたいと思います。

 

1.「私共和国」:いずれ俎上に上る年金削減論には「老若共闘」を

まず、自分の足下の現実から明確にしておきますと、その収入基盤は、現在ではもう100パーセントが年金です。それは日豪両政府による老齢年金ですが、情報交換の緻密なこの時代、まさか重複支給はありえず、分担割合は判りませんが、両方からの合算で豪政府の規定額となるものです。老齢年金の最低保証額は国によって異なりますが、オーストラリアの場合、現役平均収入のほぼ27パーセント(主要国では、米の16%からNZの40%の範囲)で、それのみでの生活は文字通りギリギリな設定です。ゆえに、相応な努力は不可欠というわけです。

私の場合、シェアー住宅をはじめ、必要な工夫を凝らさないでは、高物価のシドニーでの生活は切り抜けられません。とはいうものの、年金受給年齢に達して晴れて訪れた、“食うための労働から解放された生活”を満喫しています。言い換えれば、現代のひとつの民主主義国が持つ社会保障制度の恩恵を確かに受けとっています(これが、私の一連のサイト発行に一切の物品販売手段をこうじていない主理由です)。

以上のように、私の生活基盤には、近代国家の実施する社会政策は組込み済みと言えるもので、私は間違いなくその享受者であり利用者です。さらに、今のコロナ感染状況下、ロックダウンで自宅隔離を強いられている人々もまた、その収入補填政策により、一時的ですが、まさに私たち年金生活者と同様に、政府支援でその生活を支えています(日本政府は、その機能を十分はたせていない)。

かくして世界の諸国家の社会保障政策支出は急速に拡大しており、その主原資を国債発行つまり将来からの借金でまかなっています。加えて、すでにコロナ以前より、各国民経済の成長低化は始まっていて、国家財政の緊迫化が常態化していました。

したがって、どの国においても、拍車のかかるこうした二重の財政緊迫化状況にあって、社会保障予算の確保は、最大最難問の政策課題です。つまり、このままでは、社会保障維持のための財源にきわめて大きな削減圧力がかかってくることは必至で、その打開策として、年金支給額の削減が予想されます(日本ではすでに始まっている)。

そこで私は、コロナを機としたこの削減圧力増に対し、以下の二つの対応を支持するものです。

第一に、ことに公的年金に関し、それは基本的に、国民一人一人の生涯にわたる収入と支出の配分問題(言い換えれば、税を通じてにせよ特別会計を通じてにせよ、政府への貯金)で、ただそれを、個人別の対処に任せず、国が先導して制度設計と管理に当たっているものと見ます。つまり、一国民から見れば長期にわたって預けた「マイマネー」の問題です。ゆえに、政府はその管理責任を負い、国民はそれを受け取る権利があるものです。

第二に、コロナ危機下における国家財源の借金依存の問題は、従来の国家会計原則では禁じ手であった通貨の余剰発行(つまり「量的金融緩和」と呼ばれるお金の印刷)に頼り始めています。それが、当初は応急手段として特例的に許容されたものが、しだいに原則論が後退してその慢性的採用を支持する積極論も登場しています。したがって、それは口火のみで終わらず、最終的にはしだいに常態化するであろうと観測します。

というのは、マネー(紙幣)というものは、本来、通貨としての信用と約束事に立った便宜手段です。ならば、昨今の大規模な量的金融緩和の事態のなかでも、不可避とされた高インフレが生じないとなれば、その制度の有効性は、その意味では少しも揺らいでいないということとなります。なにやら、これが本性かの事態です。それどころか、誰もその信用をあえて疑おうとはせず、一部の人々はさらに、大量発行される通貨量が押し上げる株式市場に乗じて、自らの富を太らせてさえしています。したがって、片方でそれが可能なら、他方で、困窮国民たちに、その増えた通貨量を分流して、目下の格差拡大を是正する手段ともなりうるはずです。ゆえに、「赤信号みんなで渡る」総便乗化が始まるということにもなれば、それはそれで、現行システムの底力ということとなるでしょう。

こうした毒気含みのマネー増手段に依拠する政策が頼みの綱となっているのですが、果たしていつまで持続可能か、それは目下、人類がすがり始めている綱渡りです。そして、もし人類がコロナ危機の収束に何とか成功した暁には、このリスク多い綱渡りも手早く収拾されて軌道に戻り、相次ぐロックダウンで収縮した実体経済が急速に再活動を始めるはずです。したがって、その収束をどう手繰り寄せ、復活のタイミングをどうつかむか、まさに政治の力の見せ所のはずです。

そうした、悪く見るとギャンブルじみた、よく見ても見極めと舵取りの極めて難しい今日の状況にあって、なおも加えて、その一般国民の「マイマネー」の管理に失敗(というより事実上の着服)した政府などは、自分たちの責任逃れのために、年金財源の見かけの提供側である現役世代と、その受領側である老齢世代とを、あたかも前者が後者を世話しているかの議論を公言し、国民だけでなく家族すらをも老若に分断して両者をいがみ合わせ、ドサクサ紛れの逃亡を画策することとなります。それは、おのれ本位の餓鬼政治家の自滅行動にとどまらず、全社会を総崩壊へと道ずれにする、まさに“一億総玉砕”の亡国行動です。

 

そこで、「四分の三プロジェクト」のこの分野での基本方向は、これまでにも提起してきているように、《老若共闘》による、その分断の排除と連帯の構築です。

そして、私個人としてできることは、自分がくぐってきた体験から言える限りの、その共闘に寄与できる若い世代への情報提供です。

むろん、その提供を、若い世代がどう受け止め、どう料理するか、それは彼ら彼女ら次第です。しかしすでに埋め込まれているそうした政治レベルの巧妙な仕組みを知るか知らないか、その分かれ目がもたらす結果は実に決定的なはずです。

 

2.「両生空間」:バーチャルと非局地性は同義語

この「両生空間」が扱うテーマは、上記のように「私共和国」が掘り起こす現実分析に立って、その是正や自己防衛そして将来展望をはかるさまざまな議論や創作です。本稿冒頭では、それを思考表現過程と述べました。つまり、自分の体験にもとづく、その上に築かれる構造物です。

そしてその最大の産物として挙げられるものは、人の移動や越境体験のもたらす「バーチャル性」と、科学の分野ことに量子理論の進展で起こっている、「非局地性」という同じく移動や越境現象において構想されてきているもので、二つともに、実に深慮に値する概念です。

この個人と科学の両レベルにおいて、同期しておこっている共の発展は、個人にとっては、その科学的発展を自らの発展に取り込みそれを日々の武器とするには、絶好のチャンスであるということです。

ただそれらが目下、あまりに異なりすぎた二世界で起こっているため、その共通性、その共有性に気付きにくい難点があります。

しかし、それは外見にすぎず、両者はみごとにつながっているのです。

つまり、「バーチャル」という今日筆頭級のポピュラー用語に関連して、二つの傾向が指摘でき、いずれも、もはや私たちの右腕同様の必需道具となったIT機器を介して、私たちに一種の自己変革の機会すらがもたらされているのです。

その第一は、IT機器がもたらすゲーム化アプリを通じて、あたかも現実上の変化を、シュミレーション的に体験できることです。

第二は、IT機器による時間や空間の縛りを脱した新たなコミュニケーション体験という「バーチャル」の世界が、私たち自身のフィジカルな限界に新たな広がりや自由度をもたらしていることです。まして、こうしたIT機器の性能が、AIどころか量子コンピューターをもつに至れば、もはや情報の働きは世界を変えます。

そして、ことに後者の可能性を通じて、これまでの私たちの思考法を左右してきたロジックに新たな回路が開かれ、いわゆる「超然的」とされる分野さえも、ひとつの現実味をもって認知され始めることです。これが他方、科学ことに量子理論の世界で新たに発見されてきている新概念――たとえば「非局地性」といった――も、これまた「超然性」と親和性をもっていると見られ始めるわけですから、もはや世界は新次元の様相をもつことになるわけです。

私はしだいにその確信を深めるようにして、上記の2面のIT技術の発展と量子理論が切り開いている新分野とは、不離一体のものと受け止めています。それにそもそも、量子理論の発展の基盤である精緻な実験自体、今日の精密なIT技術あっての成果ですらあるわけです。

そこで私はしだいに、IT技術の成果であるバーチャル世界の提供と、量子理論の成果である「非局地性」の両者は同義語、少なくとも同じ内実を意味する二つの違った角度からのアプローチ、ではないかと考えています。

そして、その二つが一体となって受け止められた時、それは私たち自身の飛躍への強力な推進力として作用するわけです。

 

3.『フィラース』:情報とは何か

上に述べた私の見方は、その片方で、ある種の理論化と歩調を合わせて発展してきている双子の一方でもあります。つまり、例えば上記の、「バーチャルと非局地性が同義語」といった考えでは、それがいきなり浮かんできているわけではなく、その他方で、それへと導くある種の仮説、つまり、ひとつの理論立てが働いているわけです。

そういう仮説として、私は、「情報」と呼ばれている、今日の社会ではもはや必需語となった、あるいはそれどころか、それこそスマホがスマホ化しうるその推進要因に注目します。すなわち、それがIT用語として必需になることに先立った、もっと原初的な役割を指摘したいと考えています。

たとえば、IT用語としての「情報」とは、デジタル技術をもって、電磁波に乗せられて飛ばされてゆく何かです。つまり、それは、波なのか粒子なのか、どちらにも決め難いあるいはそのどちらでもある何かであり、また、それは働きとしては、記号や意味としての効果を片方から他方へ伝えます。

私たちはとかく、白か黒かとか、男か女とか、波か粒かとかと、物事を二元論として二分して考えがちです。

しかし、今日、さまざまな分野で、そうした二元論への見直しが始まっています。例えば、私たちの性認識において、男でも女でもない、あるいは両方である、性的マイノリティの人たちがカミングアウトして、元来の二元論では定めがたい人々の存在が広く認識し始められています。

あるいは量子理論では、素粒子の波か粒子かという二元論も、そのいずれとも決め難いがゆえに、確率の問題とか雲状のものとかと表現される、中間的あるいは両属的な性質が解明されてきています。

そこで私は、いわゆる「情報」たるものも、アナログやデジタルとされる以前に、モノでもイミでもある、あるいはそのどちらでもない、そういう未把握の何かとしての存在であることを指摘し、それを言葉として、取り合えず《汎情報》と呼んできています。

こうした一連の見方のポイントは、まず、とかく二元論的にあれかこれかと分別して考えがちの私たちの発想において、そうは分けられない、二者が解け合ったそうした原初的な状態があるのではないか、との仮説を設定するものです。

そして次に、もしその原初的な何かが存在するとなれば、たとえば、非局地性の性質の異端な核心である遠隔現象というものも、そういう何かが関係しているとすると、俄然、意味をなしてくるわけです。

つまり、そういう源媒体たる何かとして、この《汎情報》を仮定すると、それが、ジグソーパズルの欠けていた最後の一片となって全体画像が完成するように、科学と神秘主義との間に、確かなブリッジが架けられることとなるわけです。

ちなみに、こうした考え方は何も新しいものでもなんでもなく、中性子とかヒッグス粒子とか重力波などなど、かつて予言されたそうしたジグソーパズルの一片が、科学の進歩の中で、次第しだいに発見されてきていることと軌道を一とするものです。むろん、誤った仮説が、それを上回ってとなえられたのも事実ですが。

 

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