植物を研究する博士モニカ・ガリアーノ(Monica Gagliano)は、非科学的とは承知の上で、植物に話しかけると返答があることを証明しようとしている。
Ellie Shechet 記者, The New York Times, 2019年8月31日付 Australian Financial Review に転載 |
植物に話しかけると、返事が返ってくる
ガリアーノ博士(写真)は、樹木や草花からヨーダのようなアドバイスを受けたと言います。彼女はシダの精霊によって赤ん坊のように揺られたことを思い出します。彼女は、オシャの根の魔法で目には見えないクマの背中に乗っていました。彼女はかつてレッドウッドの森で古代の管楽器であるオカリナを演奏していた際、知らずに時空間を曲げてしまいました。「オリンガム〔Oryngham〕」とは、植物の言葉で「ありがとう」を意味します。以上のような相互作用は、夢、幻想、歌、テレキネティック〔念動的〕な相互作用、時にはシャーマンやアヤワスカ〔アマゾン川流域の薬草〕の助けを借りて起こったものです。
これらはすべて、ガリアーノの科学的研究と同時に生じてきたもので、植物の行動とシグナル伝達の分野での学的枠組みを打ち破りました。彼女は現在、シドニー大学において、植物がある程度知的であるという見解を支持する研究を発表しています。彼女の実験は、植物が行動を学び、それらを覚えることができることを示唆しています。彼女の研究は、植物が水の流れを「聞く」ことができ、おそらく交信ためにクリック音を出すことさえできることを示唆しています。
このように植物は、直接に、彼女の実験と経歴を形成してきています。彼女が言うところでは、2012年、オークの木は、植物の音声コミュニケーションに関する研究を提起する、望み薄だった研究助成金申請に成功をもたらしました。オークの木は、「あなたは私たちの物語を語るためにいるのです」と彼女に言ったとのことです。
「これらの経験は、『私が変人で、私だけに起こっている』ことではありません」とガリアーノは言います。彼女は、植物から学ぶことは古くから文書に記されてきた(もし科学者によって支持されないとしても)儀式行為であると言います。
「これは人間の経験の範囲の一部で、私たちはこれをずっと続けてきましたし、今でもそうです」、と彼女は言います。
ガリアーノは、証拠ではなく主観的経験に基づいたこれらの主張が〔科学の範疇では〕妄想的であると解釈されることを承知しています。彼女はまた、これが彼女の科学的キャリアを損なう可能性があることも認識しています。ことに植物科学者は、この種のことを本当に嫌っているからです。
1973年、爆発的な人気を集めた本 『The Secret Life of Plants』〔邦訳『植物の神秘生活』工作舎、1987〕は、クラシック音楽を楽しみ、人間の心を読むことができるなど、植物について疑似科学的な主張をしました。この本は確かに不名誉をえたものの、その衝撃は多くの機関や研究者に、植物の素性についての通説に理由ある警鐘を与えました。
ともあれ、ガリアーノは昨年、『かく植物は語る〔Thus Spoke the Plant〕』と題し、植物との会話についての楽し気で話題豊富な回想録を出版しました。彼女は、多くの科学者や環境学者がそうであるように、地球を救うには自然界の一部として自分自身を理解する必要があると考えています。
彼女はまた、植物がこう言っていると信じています。「私たち〔植物〕は、世界が不思議に満ちていることを人々に知ってもらいたいのですが、それは、一部の人しかできないことでも、この世界の外のものでもありません。それは、すべてここにあるものです。」
環境崩壊が迫っているように、地球上の生命について、私たちはほどんど理解していません。それがどれほど特別で複雑なのか、そして「それ」がどこで終わり、「私たち」がどこで始まるのか、はっきりとしたその境界すらないのです。
たとえば、言語は人間に限定されているものではないようです。プレーリー・ドッグは「たくさん」との形容詞を使い、中央アメリカで見られるアルストンのシンギング・マウスは「行儀よく」と鳴きます。ワタリカラスは、食べ物を交換し、将来に使う最適な道具を選んでおいて、そうしたことを行うのは人間のみだとする説に反証を示しています。
しかし、私たちは植物の能力をそうした特色との程度にしか見ていません。それどころか、最もするどい能力を持っているのは植物であるかもしれません。植物は、私たちができないたくさんのことを行うことができます。木はそれ自身、8万歳の長命生物のクローンです。トウモロコシはスズメバチを呼んで、毛虫を攻撃できます。しかし、研究によると、人間とのいくつかの共通点もあることも示されています。植物は栄養素を共有し、親族を認識します。彼らは互いに交信します。彼らは数えることができます。彼らはあなたがそれに触れているのを感じることもできるのです。
つまり、植物は洗練され複雑な方法で環境に反応しています。「この数年間で、それがはるかに複雑であることを、私たちは気づいてきています」と、テッド・ファーマー――スイスのローザンヌ大学の植物学者であり、 植物同士の通信という概念の最初の提唱者――は言います。
ファーマーは、神経細胞を欠く植物を「知的」と表現することにはいまだに不賛成なものの一人です。しかし、今ではそれを「意識」――確固たる定義のない別の言葉で、科学界に起用されはじめている――としています。
今年の夏、生物学者のグループは、「植物は意識を所有も要求もしていない」という題名の論文を発表しました。その著者らは、擬人化に対して警告し、植物の意識の支持者は、脳の独特な能力にこじつけていると主張しました。ガリアーノの本は注目を集めませんでしたが、彼女の実験と植物に対する感情と主観性を説く声明は、こうした批判にさらされ、彼女は、ロマンチック生物学の新派としてのみ、過小に分類されています。
植物も学習する
こうした議論の諸論点は、何年にもわたって煮詰められてきました。2013年、マイケル・ポーラン〔Michael Pollan〕は、ガリアーノについて書き、その実験結果を多くの人びとに提示しました。その研究は彼女を最も広く知らせた可能性が高いものです。その中で彼女は、植物であろうとも、動物のように、習慣化と呼ばれる基本タイプの学習を示すことができることを追究しました。
ミモサ・プディカ(または「触反応植物」)は、触ると葉を収縮させます。そこで実験では、鉢植えのミモザが傷つかぬようクッションの上に十数センチ落されました。最初、葉はすぐに閉じました。しかし、時間の経過とともに、反応しなくなりました。
ガリアーノは、それが植物が疲れ切ったためではないことは、再び鉢が揺すられた時、葉っぱたちは再び閉じたことが示している、と書いています。そして、1か月後に再び落下試験が繰り返された時、葉っぱたちは平静そのものでした。植物は落下が脅威ではないことを「学んだ」とガリアーノは主張し、 植物は覚えたのだと説きます。
そしてそれに続く研究は、植物が確かに何らかの覚える能力を持っていることを示唆しています。しかし、ガリアーノの結論は、その時点ではそれ以上におよびませんでした。彼女のデータの範囲ではそれが限界だからでした。したがって、彼女はその研究に比喩は用いず、植物がそうすることが「学習」であるのかどうかは判らず、そう起こったことだけでも、最も良い説明であると述べています。
この実験は「注目すべき研究」、とポーランは語ります。「人間は植物を過小評価する傾向があるのですが、彼女はその傾向を変えようとしている科学者の内の一人です。」
「モニカは若く有能な女性であり、植物の感覚生物学の分野で主要なアイデア創出者です」とヘイディ・アペル――ロック・クレソンが毛虫の咀嚼音にさらされると、より防御的な化学物質を生成することを発見した科学者科学者――は語る。「私たちは、そうとしか考えられない現象を研究しているのです。」
しかしアペルは、ガリアーノの回想録には、「私が最も解明してほしいと望む、科学と精神的体験との混同がある」と言います。
危機を克服して
ガリアーノは、イタリア北部で育った、学位持つ海洋生態学者です。彼女は初期の経歴を〔オーストラリアの〕グレートバリア・リーフでアンボンスズメダイの研究に費やしました。ガリアーノは数ヶ月間、海中の小さな魚を観察した後、それらが、彼女が想定していたことどころか、ずっと多くを理解していると疑念を持ち始めたと言います。研究者としての危機でした。
その時、植物が彼女の人生に入り込もうとしていました。ガリアーノが言うには、彼女は薬草医のクリニックでボランティアをしていて、アヤワスカ――幻覚と精神的洞察(そしてしばしば吐き気)を誘発する幻覚性薬草――を使い始めていました。そうした彼女はある日、自宅の庭を歩いていて、頭の中に、植物たちの研究を始めよとの一本の木の示唆を受けたと言います。
2010年、ガリアーノは、ドン・Mと呼ばれる植物のシャーマンと研究するため、初めてペルーを訪れました。そして、人間が植物と対話するための食事法――アマゾン原住民に伝わるシャーマン的方法――に入りました。それは、やり方に違いはあるものの、通常は、塩、アルコール、砂糖、セックス、一部の動物性食品が禁じられた食事をとり、数日、数週間、または数か月間にわたり、孤立した状態で、混合植物飲料(多くは幻覚性)を飲みます。イカロと呼ばれる薬のソングは、植物と幻想や夢が共有されると歌い、植物のもつ癒しの知識は人間の一部となります。興味本位でできるものではない、と彼女は忠告します。
「気が狂ったと思ったことはありませんか」と私は尋ねました。
「全くその通り。しかも、まだそうですよ」と彼女は笑って言います。しかし、彼女は、これらの経験について自由かつ率直に話すべきだと信じています。
「私たちは自分が誰なのかほとんど分かっていない。自分がどこにいるのかもほとんどわからない。知っていることと比べて、ほとんど何も知らないと認めるべきです」と彼女は言う。「探求し、学ぶために可能なことは、狂気ではなく、知恵のしるしだと思う。そして、ある意味では、知恵と狂気は非常によく似ているかもしれません。」
【翻訳 松崎 元】