「アバター氏」への所感

『地球「愛」時代の夜明け』(その2)

投稿:縞栖 理奈

前回に申し上げましたように、私は、貴サイトの作品群を「全体」として受け止める姿勢で読ませていただいております。

そこで思うのですが、普通、著述作品の書き手なら、その作品は、たとえば小説とか論考とかと、はじめからそれらしい作法にならうのが通例かと思われます。

それを、本サイトの場合、その「発行主」はそうした典型作法をとらず、なにやら、ぎこちなく変則的に――その型破りなところが面白いのですが――、独白から創作にいたる幾つかの部門をもうけ、まるで将棋の駒を打つように発表されています。

ただそれにより、あちこちに分散していて――大抵リンクされていますが――、その分量も並大抵ではなく、読者にとっては追跡に手間を要し、その全体像をつかみとるのはなかなか骨が折れます。

 

化身像の必要

それに加えて最近では、「発行主」は、それら諸作品の総体が表す人物像を、「アバター」つまり「化身」と呼ばれるようになりました。

ということは、そうした部門別の「駒打ち」手法にひとまず見切りを付け、新たに揚げる「アバター」像を通じた総体化の段階に着手された、ということのようにも解釈されます。

なにやら、準備終わっていよいよの企業化、あるいは、乱世に一旗揚げる兵〔つわもの〕のごときです。

よって私は、そういう新生なった化身を「アバター氏」と呼んで擬人化することにし、その「人物像」への印象や感想を、僭越ながら、ひとりの人間批評のつもりで述べさせていただきたいと思っております。

 

まず、そういう私も、「縞栖 理奈」というペンネームのもとでこの投稿を書いております。その意味で、この名も、化身とまではゆかずとも、言わば隠れ蓑であることに違いありません。それに、その名は一見、女のようですが、私には、ジェンダー区別はさほど重要ではありません。

それより、人は誰も、現実の自分像だけでは物足らないようで、そいういうもう一人(あるいは多数)の自分を必要としているようです。

たしかにアバターさん、現実の世界って、じつに窮屈なものですよね。ことに、生業にからんだ人間関係なんて、私としては、とてもじゃないですが、「お金稼ぎ」と割り切らないで、かかわっていられるものではありません。

サイトに紹介されている履歴を拝見しますと、アバター氏は、理工系の人物のようです。ただ、それも二十代までで、その後の経歴は、けっこう紆余曲折です。それに加え、人生半ばにして、「中年留学生」を選んでオーストラリアに渡り、サイトのタイトルのように、日豪をまたにかけた「両生歩き」を続けておられます。

他方の私は、ほとんど典型的な“単生”生活者で、外国旅行くらいは幾度か体験してはいますが、なおも日本“没入”を維持している者です。

外国暮らしに、魅力がないといえば嘘ですが、どこかに飛び出すほどの度胸も機会もなく、また、いろいろなしがらみや情緒も軽視できずに、国境を越えない人生を選んでおります。

 

日本人「らしくなさ」

そいういう私から見れば、長い外国生活がゆえなのでしょう、アバター氏には、日本人らしくない面がいろいろにうかがえます。

そうした「らしくなさ」は、私が貴サイトに関心をもつ理由のひとつで、今日の日本をそうして逆照射される視点は、島国の国民の一人として、とても貴重に思えます(ただ時に、娘らの言う「うっせぇわ」を感じないわけでもありませんが)。

そこで、そうした違いを生んでいるその芯にとでも申しましょうか、確かな隔たりを見出さざるをえないのも事実です。

というのは、若造の留学ではなく、日本の実社会をひと通り体験した上での「中年留学」を実行され、青臭い外国かぶれもなく、腰のすわった内外の比較ということで、均衡のとれた視界を維持して異文化を観察されているとお見受けしています。

加えて、そのような広い内外体験から、「両眼視野」で物事を見られていられる立ち位置は、私などのように、自分を国内に漬け込んで、ほぼ「単眼視野」しか持ち合わせていない「井の中の蛙」にとって、大いに目を開かされるものがあります。

そうして、目新しさから一旦はそう食いついてはいるのですが、咀嚼〔そしゃく〕しきれず、消化不良をおこしているのも事実です。

そこで勇み足覚悟で言わせていただくと、アバター氏が、そうした現実の両生生活に加え、さらに「アバター」という化身像を必要としているというのは、私なぞには、ずいぶん、贅沢というか高望みというか、常道を逸したお考えかとも邪推されるところです。

それに例えば、掲載作品には、小説風の文芸作品もあるのですが、それが横書きで著されています。ネット環境上のデフォルト〔設定条件〕でやむを得ないとはしても、私なぞ縦書き日本語になじんだ者には、科学随筆ぐらいならまだしも、横書きの小説にはやっぱり違和感を感じてしまいます。

また、これは勇み足どころではなく親身で、その化身の必要の背景を私なりに想像するのですが、内外に充分多様な体験をされ、決して退屈ではない人生を送られているものと私などには思われます。なのに、それをさらに、自分の化身たるアバターまでを必要とするというのは、果たして、どういう空腹感をお持ちなのでしょう。

あるいは、書かれているように、年齢を重ねること、ことに事故に会われて「越境」の入り口体験をされたことに、大きく影響されてのことなのでしょうか。

それを、「老化に伴う越境意識」の一段階と解釈させていただくと、老化とは、ただただ謙虚に時の到来に身をゆだねるといった並なものでは済まず、そうした化身を必要とするまでの思案や準備を必要とさせるまでもの事なのでしょうか。

だとするなら、私ももちろんその老化は避けられず、安穏とはして居られなくなります。

それとも、それこそ、いったん海外の地へと踏み出した兵にとって、その「背水の陣」を構えて到達したその境地ならではの、寄る辺なき根無し草たる土恋しさゆえなのでしょうか。

 

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〔注記〕小見出し、リンク、ふりがなは当サイト発行人による。

 

 

 

 

 

 

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