リモート時代の「New奥の細道」

『地球「愛」時代の夜明け』(その5・最終回)

投稿:縞栖 理奈

こんなことを感じるのは私だけならよいのですが、とくに先に発表された「四分の三プロジェクト」に関し、その計画の実行の末に到達する世界とは、なにやら生命の息吹きや潤いとは対極の――あえて申せば“男発想的”な――、いかにも抽象的でドライな境地であるような気がしてなりません。

というのは、私も、国境がもたらす制約を脱して、広く世界に羽ばたきたいといった願望はありますし、すこしは実行もしてきている積りです。そうなのですが、だからと言って、旅先に骨を埋めるまで、永遠の旅を続けることはとても耐えられないだろうとの確信もあるからです。

日本の古き源流

そこで、日本の古き源流にヒントを求めてみるのですが、たとえば四百年昔の江戸前期、松尾芭蕉は、生涯、旅を続けて、旅先でこの世を去りました。そして、『奥の細道』という日本の古典の代表的な紀行作品を後世に残しました。

ではこの芭蕉の旅は、ここでいう「永遠の旅」であったのでしょうか。

当然、今と当時は時代が違う上に、彼の旅は国内旅行でした。方言はあっても言葉の問題はなく、歴史や気候の違いもほどほどで、同質かつ一体のものに抱かれているといった暗黙の前提がゆえの、俳諧の世界を深める旅でありました。車も鉄道もむろん存在しない、徒歩速度の移動のもたらす、文字通り、足が地に着いた旅でした。

それを例えば、言葉のやり取りさえ困難な異国への旅と比較すれば、それはやはり、異質を求めたのではなく、同質を深めるところに意義をもつものでありました。

あるいは、もっと古く千二百年昔の平安前期、紀貫之は、女のふりをして「男もすなる日記といふものを」と書き出す『土佐日記』を、日記文学としては初めて仮名で書きました。

この作品は、旅という意味では、国司としての赴任先の土佐から京都へと帰任するその公用旅行の記録です。しかし文学様式という面では、むしろそれほどの昔に、今風に言えばジェンダー転換の技巧を用いて、当時、ことに男には常識の漢文体――つまり中国文明の影響――でなく仮名文体にしたという意味で、日本独自の伝統や感性を深堀りした著作と言えます。すなわち、中華思想という強大な引力圏の辺縁にあって、異質に取り込まれる流れに逆らう、地方性――今の用語でいえばアイデンティティ――の自己主張でありました。

この二例のように、日本のいにしえにヒントを求めれば、《日本らしさ》の伝統は長く深く“個性的”で、なかなか簡単には、そのつながりを切れるものではないとの本髄を見出します。

そうした日本的特性を片やにすえて、今、「国離れ」を実践して「独り立ち」し、地球をまたにかける移動にゆだねられた生き方をたどることについて、私は、そこまで意を決せるか否かをめぐり、いまだに旅立てずにいます。

つまり、こうした古今の旅様式からの類推にもとづけば、どうやら「四分の三プロジェクト」式のその発意には、「移動」が価値観となる、人の意識以前の存立位置の違いが反映しているかのように感じます。それは、もはやただの「男原理」とは言えない、何やら神的に貫徹される、冷徹な論理性を感じます。

 

「抽象的で乾いた世界」か

そこでたとえば、アバター氏のように、「自然ID」を絶ちはできないもののそれはもう半分以下でしかなく、他の半分以上を「選択ID」にゆだね始めている自らというのは、私から見れば、確かに、理にも、時代性にもかなっているとは思うのですが、どこか硬質で人を寄せ付けにくい、あえてそれができるのは、人それぞれに偶然にでも身に着けている何か――しいて言葉にすれば「天与性」とでも言うのでしょうか――が働いているかのように思います。

さらに、どこまでも移ろい続け、定まった地での安住を求めない生き方というのは、自分ごととしては想像し難く、まして永眠の事態に面すれば、どうしても「自然ID」以外の地では、安心して眠ってゆけないだろうと思ってしまうところがあります。

もちろん、私のこうした思いは、「国離れ」の足りない、独り立ちしていない見方であるのは確かで、へっぴり腰での海外体験しか持たない、生煮えの試食体験がゆえの、初心者の見解でしょう。

そうした次第で、私がそれを「抽象的で乾いた世界」というのは、行いもしない者がぬるま湯に浸ったまま、無為に決めつけている、偏見とも気付かぬ偏見、かもしれません。

つまり、私たち――少なくとも私――は、「定住か移動か」をめぐって自らの生存条件すらを分ける選択肢を、無意識のうちにか、あるいはそれを当然視してか、初から決めてかかり、究極の機会をのがしているかのようです。

 

IDという尺度

そこで、新たに取り掛かられたアバター氏の舞台ともいうべき「四分の三プロジェクト」について、その表明を拝見した長年の読者である私は、以上のように、応援と敬遠が同居した、なんともひとことでは言い表し難い、アンビバレントな印象を抱いています。

そしてそのアバター氏は、なんと申しましょうか、ことに日本人としては、普通の現実感を越えた別感覚の境地にIDをお持ちであるとでも言うような、そんな(本投稿の「その1」で述べましたような)ある種の「宇宙飛行士」――少なくともそうした視界の持ち主――とのイメージを抱きます。

ともあれ、私は、氏を「異国人」とは言いませんが、自分はそうはなれない「別種人」とお見受けいたします。

つまり、IDは、生物学的には、人と土地やひいては地球との関係を計る現実的な尺度です。だが人の意識の上では、一方で生まれの問題であると同時に、他方、その所与条件を選択の問題と見るという、入り組んでこれもアンビバレントな問題と受け取れます。

あるいは歴史的に、この「定住か移動か」という課題を、人と領地との結びつき関係の違いとして見れば、封建制が資本主義制へと移行する世界史の転換要因でもあったとも見れます。

そうした「人と土地や地球との関係」を「同の発端」と見るか「異の発端」と見るか、私とアバター氏の間には、そのあたりの重心の置き場所の違いが存在しているように感じられます。

 

病める私たちや地球の健全化

ともあれ、そうした世界の今という切り口に生きる私たちなのですが、初回に採り上げましたように、私たちは今や、宇宙からその土地つまり地球を見る視野を持ち始めています。それに、片やでは、コロナパンデミックや苛烈化を極める自然災害を契機に、いやでも地球規模で自らを反省せざるをえない現実があります。また他方には、自分に親しい情報が、世界のどこととも瞬時に行き渡る技術的無距離の現実があるのも事実です。こうして、自分がどれほども足下の土地への結び付きが強くとも、その感性がいとも簡単に地球規模への感性へと広がりうるのも事実です。

そうした時、私たちは、自国のいにしえのもたらす機微は、別の国のいにしえでも生じていることを知り始めてもいます。

つまりそこに、地球をまたにかけた「New奥の細道」が書ける可能性が大いにあるわけです。

あるいは、コロナのお陰で急成長したリモート生活にみられるように、すでにその「リモート版」とも呼んでもよい、ネット環境を駆使し、距離に左右されない、新次元の紀行文が広がりつつあります。

それにそもそも、本サイトの発行やその読者という関係は、もうすでにコロナ以前から、そのリモート方式の実行者と参加者間のやり取りが生まれていた実証とも言えます。

つまり、いまや移動や旅は、地理的あるいは物象的な次元に限られたものではないことと、何よりもまず第一に認識すべきであるようです。

そういう意味で、いにしえから育まれてきた自然環境への愛着――「同の発端」――と、現代のリモートな移動――「異の発端」――がもたらす規模の大きな愛着という二兎を追う、言い換えれば、地球という共有の土を愛する『地球「愛」時代』というのは、手法としても非現実的なものではないでしょう。そしてその追究は、即座にでも手掛けられる近さを持つがゆえ、病める私たちや地球の健全化のための、確かな突破手法となりうると信じます。

 

以上の一連の投稿は、「四分の三プロジェクト」にまつわる表明の足を引っ張る意図は毛頭なく、ただただ、そのご成功を祈る気持ちでいっぱいです。

そこで、こうした取り留めのない文章をあえてつづることで、その成功の肌理がいっそう深まることを祈って、投稿させていただいた次第です。

 

〔注記〕小見出し、リンクは、本サイト発行人による。

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