架橋としての情報

「感動」の新たな源泉

「四分の三プロジェクト」をめぐって

私は、もとが土木系の出身のためか、境界があって分断されているところがあると、そこに橋を架けたらといった発想をする習性があります。

写真は熊本県の宇土半島と天草を結ぶ天門橋。1960年代半ば、学生だった私は、当時世界最長のこの連続トラス橋の架橋工事を、三角ノ瀬戸を渡るフェリーから感動気味に見上げていた。それから50年後の2015年時のこの写真では、同橋に平行して二本目の橋の工事が始まっているのがうかがえる。この新橋は2018年に天城橋として竣工した。(画像;YouTube, Satokichi)

そういう発想に従って注目することが、「情報」という、いまや世界を動かす最先端の代物です。

そこでは、その「情報」は何といってもIT分野の用語として理解されています。そうなのですが、近年、新たに注目を集めてきている遺伝子やDNAなどの分野が、これもその語を冠して情報生物学、さらにはバイオインフォマティクスなどと呼ばれています。

どう見ても同種には見えないこの二種の分野について、それらが「情報」という語で架橋しうるとするならば、それはなにがゆえなのでしょうか。

そこで今回は、その「情報」について、生物学の分野から迫ってみます。

ことに目下、世界を震撼させているコロナウイルスについて、それが病原菌という微生物ではなく、情報体、つまり、そう人間に悪さをして動き回る「情報信号」であるということに関わって、いまや、それに無頓着でいると、とんでもない見落としをしそうでもあるからです。

 

私は、ことにコロナ感染をめぐり、免疫系という、人体のもつ何とも複雑で、従来の科学の概念では捉え切れてこなかった特殊分野――おそらく、最も未解明の医学分野であるがゆえにそのパンデミックを許しているのではないか――を考えさせられています。

そこで、結論から逆流するように仮説を試みると、人間も含め、生物が自分で自分を創生しうる生命機能の源泉は、この免疫系のメカニズムに発している、というものです。

そしてさらに、その機能をつちかう根源的仕組みは、まったくの別領域において解明されつつある、量子論における「双対性」にも連なっていると、これまた架橋という発想が、いっそう大きな隔たりの間において想起されることです。(なお、こうした想起において、それを扱う新たな理論を「理論人間生命学」と呼び、その角度からのアプローチについては、下記の新サイトに掲載の別稿「ユートピア地球」を参照してください。)

 

架橋発想の起源

ところで、そうした私の架橋発想なのですが、それは土木系の技術を学ぶ前から、その習性は芽生えていたようです。

というのは、以前にも触れたのですが、私は子供のころ、何かとっさの考えがパッと頭に浮かんできた時、自分が教わったことでも、すでに知っているいることでもないそれを、どうして自分は考え付いたのだろうかとの疑問を、幾度となく抱いた記憶があります。

以来、漠然とではありながら、人間には、そういう未知の知を獲得する仕組みがどこかにあるはずだと考えさせられてきました。

そうはしながら、土木系の仕事につき、やがて発意して留学し、二つの国をまたにかけて生きる生活を始め、それを両生空間と受け止めてゆくこととなります。それがやがて、そうした体験を記録する場を設置し、本サイト『両生歩き』に至っています。

そうした自問自答作業の中で、人間のもつその未知の能力がその道の研究者らによって「自己創生」とか「オートポイエーシス」とかと呼ばれていることを知ります。しかしそれは、いうなればトートロジーで、そういう名称を付けただけの話です。むろんそれも前進には違いありませんが、だからと言って、その秘密の仕組みや内容が明らかにされたわけではありませんでした。

以後、今日のコロナに至る紆余曲折を経て、その秘密は、どうやら私たちの生命の仕組み、ことに細胞や分子の働きにあるに違いないとの狙いまでには絞り込めてきています。そして実際に生物学の世界においても、その分野の解明が目覚ましく進んできています。

こうして、内外の人生体験がもたらしてくれた片方からの材料に対し、その現実基盤手法に距離を取り、もっと理論的な角度から究明を進める場として、一年前に『フィラース Philearth』との新サイトを設置しました。特にその中で上記の「理論人間生命学」という、これもそう名称を与えて対象と定め、その探索に取り組んできています。

こうして、すでに読者もすでにお気づきのように、その『フィラース Philearth』とこれまでの『両生歩き』という二つのサイトには、そこにおいてもその二サイト間に、現実ベースと理論志向という、またしてもの境界関係が出来ていることです。そこで、この自前の道具設定がもたらしているこの境界に、上に述べた物理系と生命系の間のいっそう大きな隔たりをも重ね合わせ、それに架橋しようとの仮説を見立ててきてきているものです。

いやはや、まだまだ土木屋根性の抜けない取り組みであります。

 

生命情報というパイオニア

さて、こうして解明の道具立ては、幾重かにわたって用意されてきています。そうではありますが、しかしそれは、言わば仏を作っただけの話で、そこに魂は入っていません。

そこでその魂たる内実作りの作業なのですが、それに取り組むにあたってのヒントを、いまや世界を震撼させているコロナ感染が与えてくれています。

すなわち、上記のように、コロナウイルスとは「情報信号」で、その探究は、情報生物学とよばれる新しい生物学領域でなされてきています(対策面では、疫病学というやけに泥臭い分野もからんでいますが)。

そうした最先端分野の生物学での進展の結果、その「情報信号」が遺伝子あるいはDNAと呼ばれる要素で、それはIT分野で情報としてあつかわれているものと同様な、一種の言葉を伝達する働きと言ってよいものと捉えられてきています。

そうした言葉が、たとえば人体の細胞の中には32億文字もで語られていて、膨大な情報を伝えているというのです。

このようにして、過去のように、人体を物体としてではなく、情報のかたまりとして考える、そういう、まったく新たな人間の捉え方が始まっています。

こうして、物体と情報という、これまではまったく相容れない別々の存在であったものが、まさに橋を架けるように、互いに関係しあった一体のものとなってきています。

 

そうした生物に関する情報分野への開眼から、以下は最近、さらに手掛かりをもとめて到達した、その分野の究明者同士の対談からのくだりです。

この対談は、生命誌研究者の中村桂子氏と編集工学研究所所長の松岡正剛氏との間で行われたものです。

僕らは、世の中にある定義に当てはまらないあいまいな領域や、揺れ動くためらいを抱えていかなきゃいけない。これは湯川秀樹さんに私淑していた頃に辿り着いた考えです。素粒子にはアイデンティティ(自己同一性)がない。ある素粒子がそれであるかどうかは確率的で全体が確率振幅の中にあるということが最初はよくわからなかったのですが。
 あるとき、お風呂場で転び家に居られた湯川さんにロングインタビューをさせていただいたのです。その頃、素領域ということをお考えになっていて、素粒子の奥にハンケチがたためるぐらいの小さなトポスがあって、それは宿屋やとおっしゃるんです。「素粒子は宿屋に泊まってまた帰るんや。百代の過客が素粒子で、大事なのは宿屋のほうや。」という話に非常に関心を持った。そこをしつこく伺ってたら、湯川さんが、「余りこういう話はせえへんのやけど、あんたがしつこいから言うと、わしは谷崎みたいな物理学をやりたかったんや」と言われるんですよ。自然のすそ野からは女の足の指みたいなものが見えてると。
 人々がなかなか手に触れ得ないと思ったもの、自分の奥深くにある何かに向かうことによってしか獲得できないもの。湯川さんの場合、それは科学的真理なんでしょうけれども、つまり自然における遊び、冗長性の部分ですね。僕もこれを抱えないとだめだということで、社会や文化や自然現象で必ずしも同定できないというものを「遊」という言葉であらわすようになったのです。〔『生命誌ジャーナル』69号、TALK -対話を通して-:多義性をかかえた場を遊ぶ 松岡正剛×中村桂子 (brh.co.jp

ここで語られていることの真意におよぶには、ちょっと解説がいります。

まずこの「遊」ですが、この言葉は、例えば自動車のハンドルの回転に「遊びをもたせる」といったように使われる、「あえてきっちりさせないで余裕をもたせる」といった意味合いを持っています。そこから、「遊戯」、「遊楽」、「遊興」、「遊歩」、「遊学」そして「遊歴」などなどと、含みの深い言葉がつくられています。そうゆう「遊」を、科学分野で使われる厳密な概念では捉え切れず排除さえされている、さらに深い真理へ踏み込む姿勢や行動を指すものとして使っているわけです。

 

モノがモノを越えている証拠

そういう「遊」の意味の決定的な重要さをお二人で確認し合いながら、この引用部では、松岡が、日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹が、素粒子という物理学の最先端の真理に踏み込むにあたって、「谷崎みたいな物理学をやりたかった」との言葉を引いて、「女の足の指みたいなもの」とたとえる、人間が感知している最先端かつ最も微妙な知について話しています。

これを、私流に牽強付会して言えば、「女の足の指みたいな」とたとえる、ほとんど情念の領域にまでに踏み入って感知できる知、言い換えれば、自然の摂理はそういう領域の知までをも含んでいるということです。

上の引用で語られている、松岡と湯川とのやり取りも、素粒子が持っているそうした物体と情念の分野までにまたがる性質についてのものです。それを湯川が感知し、理論にまとめあげ、後にその発見がノーベル賞の対象となったわけです。

上引用の対談は「遊」についてですが、それを、本議論に引き戻して言えば、その「遊」を「架橋」という鳥の目的な視角で捉え直した境界をもって、向かい合う両世界を含み込む越界視野を持つことの決定的な重要さです。

(蛇足ながら、私が「牽強付会」と言って一見の“飛躍”をたびたび試みているのは、こうした「遊」や「架橋」の意図を実行するがゆえです。)

そういう越界視野を持って「情報」を捉えた時、その出所がITだろうが生物だろうが、同じものとして、この自然界の心髄において、それが働いているということです。

そのようにして、いまや「情報」は、ITから遺伝子、DNAやRNA――例えばコロナのmRNAワクチンはこの辺での産物――、そして生命創生へと、私たちの視野の飛躍的拡大をもたらしはじめています。

 

真の感動の源泉へ

私たちは現在、そういう情報の集大成たる人間であるがゆえに、情報体であるコロナウイルスに寄生され、パンデミックという世界的な感染拡大に苦闘しています。

それを逆に考えれば、従来の物体としての人間観から、情報体としての人間観に立つ時、人間はロボットに勝つか負けるかといった議論どころか、ロボットにはできない能力をフルに生かして、それこそ、人間にしか味わえない領域である「感動」を、ほしいままにできるはずです。

そうした、物質界を越え、情報界とを「架橋」して得られる生きる場を、別サイトの『フィラース Philearth』では、「バーチャル地球」、あるいは「ユートピア地球」と呼んで、それを議論しています。

次回の「続・架橋としての情報」では、これら二つのサイト間の「架橋」を通じて「遊」しようとするにあたり、もう少し踏み込んだ視点を開いてゆきたいと思います。

 

 

 

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