本連載「豪州『昭和人』群像」の初回では、群像のうちの76歳の最古参を取り上げました。この第2回では、逆に、最も若い「昭和人」に登場してもらいます。昭和は64年(1989年)を平成元年として、その年号を閉じました。今回取り上げるR.Y.さんは、4月の誕生日上では、その平成元年生まれで、今年で33歳となる女性看護師さんです。いわば「昭和」と「平成」の境界上に位置する世代です。そのR.Y.さん、この新年早々、オーストラリアの永住ビザ取得の連絡を受け取り、いよいよ、長年の準備をへて、めでたく豪州生活の本格的な門出を果たしています。しかもこの永住ビザ、はじめは、そこまで行けたら最高との、ほとんど“願望”ほどのターゲットだったと言います。それが実際に取れてしまったわけで、そんなことが本当に起こったのでした。
昭和の典型的家族
このように、R.Y.さんは、昭和人のしんがりに位置はするものの、生きてきた時代はもう昭和ではありません。よって、一面、昭和の痕跡は引きずりながら、大半は、昭和の「“健全な”明るさ」が去った後の、停滞し始めた日本社会の波や風を受けた人生をおくることとなります。
両親と女児二人のR.Y.さんの一家は、東京に住み、お父さんは会社勤め、お母さんは専業主婦というように、言わば昭和の典型的家族であったようです。
長女のR.Y.さんは、中学、高校と、バドミントンの部活一筋に打ち込んだ学校生活を送り、ひとつのことに熱中できる性格を自身としてゆきます。その一方、漠然とはしながら海外に出てみたいとの思いはあって、ことにどういう職業に就きたいとの方向もまだ見出せないなかで、大学はごく一般的な「英米文学部」に進学します。
ところが、大学の授業は退屈なためほとんど出席もせず、むしろ、アルバイトと国内の一人旅に熱意を燃やします。さらに、一カ月半のアメリカ旅行では、カリフォルニア州の家庭でベビーシッターを経験し、言葉は不自由なものの、人を助けたり人の問題にかかわることが好きなことをいっそう確かめることとなり、将来の看護関係の方向を考えるようになります。
突然の経済不安
ところが、R.Y.さんを支えてきたそうした安泰な「昭和家族」に、昭和後の異変がおよんできます。経済的低迷がつづく日本社会の風波をかぶって、お父さんの勤める会社が倒産し、家族に突然な経済不安が襲ってきたからでした。やがてそれは、両親の夫婦関係不和を引き起こし、後に離婚問題へと発展することとなってしまいます。
こうしてR.Y.さんは、問題があっても、自分が姉であることもあって、誰にも相談できなくなります。自分で考え、一人で決断するようになったのは、そういう揺れる家族関係が働いていたことも一因のようです。というのも、親への経済的負荷を軽減するよう、自立できる道を自ずから見つけることが、ともかく真っ先に大事なことだったからでした。
そうして大学2年の時、R.Y.さんは、興味の湧かぬ大学を無駄に過ごすより、看護師の専門学校をめざそうと決心します。そして、決めたことに打ち込める自身を奮い立たせ、懸命に受験勉強を始めます。そして、自分でも予想外のことが起こって、一度で入試に合格したのでした。
こうして移った看護専門学校の勉強には、「英米文学」とは打って変わって、とても興味が湧くばかりでなく、それをひと時も早い自分の自立のためと目的をさだめ、ちみつな3年間を過ごし、すぐれた成績を達成して卒業します。
そして就職先は、自分にとっても、そして両親にとっても最善の道と、あえて遠方の病院を選らび、親元を離れていよいよ自立します。そして、強まってきた確かなモチベーションにも支えられ、その働きぶりも人並みではなかったのでしょう、良い評価もえられて、やがて教育担当の役も任されるようになります。
そのようにして、看護師としての専門職に一定の経験と自信をもつにいたった3年後の2016年(平成28年)、27歳の時、そうした経歴を生かして、いよいよ、長年考えてきた海外生活への挑戦に踏み出します。そしてまず体験したのが、ミャンマーの寒村でのボランティア活動でした。
目標以上の達成
こうして目指すこととなった最終目的地がオーストラリアでした。
R.Y.さんによると、特にオーストラリアにする強い理由はなかったようですが、日本に比較的近く、英語圏であり、制度も整っていて、そして安全で自然に恵まれた国であったことが理由だったと言います。
冒頭にも書いたように、R.Y.さんはこの年頭、この大目的のオーストラリアでの永住ビザまでも獲得しています。2016年の来豪以来、6年での達成です。
ここに至るまでには、英語については、出発前の一年ほど、勤務後の毎日、およそ30分のオンライン英会話で準備、4月の到着後は、留学斡旋エージェントの催す英会話教室に3カ月通い、日本での看護師の経験がゆえ短期に職業訓練校の看護助士資格を得、後の大学入学前には、留学生向け英語の準備を一カ月したということです。つまり、いわゆる語学学校には通わずに、日常の機会をフルに活用し、言葉の壁を乗り越えていったという実行力のほどがうかがえます。
こうして、シドニーをベースに、ワーキングホリデー(WH)のパートの仕事、WHの延長のための農場での果物摘み、そして老人ホームでの介護助手の仕事へと続け、2018年、機会を得て南オーストラリア州のアデレードに移り、同州の大学の看護学部に入ります。それをパート仕事も続けながら昨年に無事修了させ、こうして、「一生学べる仕事」と考える看護の、晴れて国際資格を得たのでした。
R.Y.さんは今では、アデレード近郊のホスピスに正規採用され、緩和ケアと呼ばれる人生の末期を送る人たちの世話に献身しています。
この仕事は、言うなれば、これまでの自分の人生経験の叡知の結集ともいうべき、人にかかわる看護の仕事の中でも、あえて選ぶに足る、もっともデリケートかつ奥の深い職種です。
こうしてR.Y.さんは、ついにそうした仕事に日々従事できるばかりでなく、いまや世界でも厚遇――これは当地の活発な労働組合運動が達成した成果――で名をはすオーストラリアの正規職員として、苦労を掛けた親への恩返しも可能な地点へといたっています。
《病気》への感性
さて、以下はやや推測的な見解を含みますが、ここで、興味深い面について触れておきたいと思います。
すでに読者にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、前回のエピソードといい、今回の話といい、その背後に一種の共通性があります。
というのは、人間社会に伴う《病気》に、どちらの人物も、はじめは直観的にそう気付き、そしてやがては意図的にその治癒や解決に関わってゆくことが、各自の大きな目的達成に、決定的に役立ってきたことです。
前回の話は、労使関係という、日豪両国の産業社会にともなう問題、ことにそれが労使紛争やストライキとまで発展すれば、それはもはや産業上の《病気》です。そして、重要貿易相手国でのこの問題の経験者が興味を抱いて自国にやってきているとなれば、ことにオーストラリア政府にとっては、またとない歓迎すべき来客であったわけです。
一方、今回のR.Y.さんの話は、人にかかわることに興味をもった人物が、やがて看護の仕事に目覚めたという、これは直接に、人間の文字通りの《病気》の問題がその底辺にあります。それがやがてオーストラリアにやってきて、その看護関係に関わりだした時期と、世界にコロナ禍が広がった時期とが重なることとなりました。つまり、コロナ感染の蔓延により、看護関係の人手が緊急に必要になっていた時期です。そこに、日本での看護の経験をもち、オーストラリアでその専門をさらに勉強をしたいという人物が出現したのですから、それを歓迎しないオーストラリア政府関係者がいたとすれば、それはよほどの薄らトンカチのはずです。
R.Y.さんのケースが、オーストラリア連邦政府の移民局あるいは州政府の教育担当部署内で、実際にどのように取り扱われたかは知るよしもありません。しかし、その順調な進展結果をみれば、どう見ても、それが有利に働いたであろうことは確かなことと推察されます。むろん本人の努力がその土台にあったのは言うまでもありませんが、そのようにして示された意志が、効果的に成就してゆくことに、このように発生していた大きな状況がプラスに働いていたのは間違いないことでしょう。
つまり、まとめて言えば、前回と今回の両者に共通して言えることは、当初は、本人たちの私的、あるいは直観的な関心や好みに端を発したに過ぎないことが、もちろんそう結果するとは夢にも予想できなかったことながら、それが社会や人間の《病気》に関したものであったがゆえに、それが時の経過とともに、国や社会の、あるいは世界の重大な懸案とつながって行き、結果的に各自の目的達成を助けたことです。
それは、表面的には、偶然や運と説明されることでしょう。しかしその発端に、その感性が、そうした「人にかかわる」問題を感知し、さらにそれを自身にとっての大切な問題として受け止め始めていた初動がなくては、絶対に実りえななかった発展であることです。そういう個人レベルでの直観力の有無です。逆に言えば、そうした偶然が支配するかの全体状況から、誰のものでもない自分のチャンスを嗅ぎ取り、それを現実につかみ出せた能力です。
「オポチュニティーの国」
さて、「昭和人」しんがりのR.Y.さんが、上記のように、他の「昭和人」と同じく「はつらつ」としているのはもう間違いありません。ですが、もっと上の世代の「昭和人」の「はつらつ」さとは明らかに異ったものがあります。それは、日本社会自体が持つ、海外へ羽ばたいてゆこうとする人たちを、実際にどう扱えたかの違いがゆえです。
たしかに、昭和のそういう人たちは、経済的な意味では、直接的には有利であったでしょうが、その社会内での努力は閉鎖的環境内に縛られたものでした。そこにあっては、その有利さに便乗し、閉鎖性を打破できるポジションや行動力がカギでした。
それが、昭和後では、その経済的な有利性はもはや消え失せたも同然で、そういう集団的勢いには便乗できなくなります。そしてむしろ、より複雑に結びついた日本と世界の関係の中で、より自分事として諸事をとらえ、試しの体験をし、やがてそのうちから自分の将来の的確な方向や位置をみつける、そういう意味では、より制限されない発想や行動が、自分でそうとさえ選べるならば、できるようになってきた状況があったとは言えましょう。
ともあれ、集団的か個人的かの違いはあれ、以上のように、時のオーストラリア社会に適宜に働きかけ、それが実り、「はつらつ」と生きる「昭和人群像」の一人となったのは間違いありません。
こうした話を言い換えれば、オーストラリアは、求めてくる人に機会を与える「オポチュニティーの国」と言うことも可能です。そしてこのフレーズは、昔、移民政策を推進するため豪州政府が世界に向けて実際に使ったキャッチフレーズです。
まとめ読み
【第1回 その《はつらつさ》の由来を探る】
【第3回 「氷河期世代」という“非運”昭和人 実りつかんだ豪州
苦肉体験】
【第4回 「ほんとうにラッキー」日豪ともの良さに生きれて】
【第5回 見染められた昭和の「お嬢さん」 日豪に架ける家庭を築く】
【第6回(最終回) 日本の「ダークさ」に抗した孤高 「昭和」とは何だったのか】