あり得るか「日本エソテリック論」

2 レべルでの検討 

イントロダクションとして 

本サイトでは、すでに8年間にわたって、「エソテリック・シリーズ」三部作を訳読してきました。そしてそれは、別掲記事の案内のように、その訳読作業は今なお続いています。そこでなのですが、この「エソテリック」という、〈定着した通説をくつがえし深奥な探究を行う〉という中心テーマ――翻訳書名上では東西融合〈涅槃〉思想と意訳――について、本稿では、その対象を日本に絞ることで、二つのレベルからのさらなる探究を試みます。というのは、その米国人著者による西洋由来の視点をグローバルつまり東洋にまで適用した場合、どこまで妥当性を持っているのか。そしてそれをことに日本に適用することで、西洋視野と日本視野の両方を相互に照射し合って考察し、その有効性を吟味――今回はそのイントロダクションに――しようとするものです。

 

原著の「エソテリック論」三部作では、米国以外の多様な観点の導入はむろん試みられています。ですが、その深奥を求める着眼点は、おのずから西洋史観に立つ視界が陰に陽に基盤となっています。そして、その北米を起点に全地球規模へと拡大される議論を、私のような一東洋人が受け止めようとする時、当然にその東洋世界への適用妥当性が気になるところです。

ましてや、その焦点を日本に絞ろうとする場合、この三部作中では日本のローカル性はそれがゆえに概念範囲としてまでは想定されていない、その空隙にアプローチすることを意味します。

このように、東洋というこの地球上でのひとつのローカル性を意図して取り上げる時、これがその一連の全地球的議論の緻密な普遍性という観点へのチェックポイントとなりえます。

そしてことに、それを日本というさらなるローカルへの演繹的――一般概念の特殊への――適応性を確かめるだけでなく、第二に、そもそも、そのような西洋由来の考察法――言うなれば科学的地球史観という考え方そのものを含め――の方法的妥当性の検証にもなる可能性に、さらに気付かされます。

 

 

以上のような二つのレベルにおける切り口において、本稿ではそのイントロダクションとして、まず第一に、日本というローカルへの適応に関して、以下のようないくつかの設問をあげてみます。

 

    1. 「天孫降臨」との神話や、「竹取物語(かぐや姫)」とのお伽話に見られる、地球外の世界との関係をもつ話はなぜうまれたのか。
    2. 神話という説話を手掛かりにするとしても、それはただ古代人の想像の産物とのみしてしまえるのか。ことに、
      1. その想像を方向付ける出来事の有無、
      2. 天=宇宙からの“神的”な実際作用の物語化ではないのか、
      3. 異星人との接触を物語る出来事が隠されているのではないか、
    3. 日本人のルーツとは、アジア大陸からの渡来人だけなのか。「渡‘星’人」の関与はなかったのか。
    4. 様々な出土品のうち、神話説や考古学上の通説に矛盾するため、無視あるいは死蔵されているものがあるのではないか。
    5. 視点を広げて中国を含めて考えた場合、中国版のエソテリック論もありえるのではないか。
    6. 仏教という思想伝統を射程に入れた場合、それは自ずから、インド版エソテリック論へと発展する。
    7.  仏教の宇宙観は、単に哲学的視野からのみの産物なのか。
      1. その天文学的な世界観の「渡‘星’人」的な由来は。
      2. 曼荼羅に描かれている世界は、単にその哲学世界の芸術表現なのか。
    8. その哲学的宇宙観の起こりは、量子理論が扱う「量子的世界」の人間意識内への反映ではないか。
    9. ひるがえって、具象発想の西洋、抽象発想の東洋との対比。
    10. あるいは、松岡正剛の言う「因果律と想像力」の対比。
    11. そして、「父なるもの・父神性」と「母なるもの・母神性」。

 

 

そこで、第二の科学的地球史観への切り口、つまり、今日の世界で支配的である様々な“合理的”思考法について、その妥当性の吟味です。

これはおのずから、今日までもの近代における西洋の支配性への問いかけとなります。たとえば、一神教における「神」という存在と「真理の唯一性」との相関性についてです。

しかし逆説を考えれば、真理はいくつもあってもよい――一つでなければならないとの証明はない――とするなら、いくつもある真理という多様性こそが、自然の摂理とも言えるのではないか。

ことに、上記のH.にある「量子的世界」においては、従来の物質の概念が揺らいでおり、少なくとも量子レベルにおいては、それは情報であるとの考えが定着しつつあることがあります。つまり、その主体と客体の区別はしえなくなってきている。

さらに広げて言えば、私たちが意識として誰もが共有しているはずの世界は、宇宙世界の極めて瞬時的かつ局地的な出来事に基づく、超限定的なもので、それを「唯一真理」としてあたかも永遠なものとして追究することの不適切さ・膠着性がありそうです。

つまり、上のリストで言えば、 I、J、Kとの着想への発展です。

かくして、現行の世界の思考法を支配する常識に、非常に根元的な代替言説となる可能性を見るにいたります。

 

【まとめ読み】

(その2)貴方の中にひそむ異星人痕跡

(その3)原爆はなぜ日本だけに落されたか

(その4)「包摂と排除」を越えて

(その5)日本的伝統とは何であったのか

(その6)「局地」的で「非局地」的な日本

 

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